第十七話 英雄たちの帰還
◇
ベルナードを出た五人は、そのままアルヴェリアへ戻ることにした。
本来の目的だった《名もなき竜》の調査は、いったん中断する。竜を追った先でブラックハウンドに支配された都市へ辿り着き、そのまま反乱と街の解放にまで関わることになったのだから、さすがに一度ギルドへ戻って装備を整え、得た情報を整理する必要があった。
帰りの街道は驚くほど穏やかだった。
「帰ったら、まず何します?」
フィーネが尋ねると、ガルドは迷わず「寝る」と答え、セラは「お風呂と柔らかいベッド。それから温かいご飯」と三つ挙げた。リゼットは酷使した剣を一度きちんと整備したいらしい。
「ノアは?」
「報告書かな」
「帰ってまで仕事するんですか……?」
「ベルナードとドラゴンの報告をしないと駄目だろ」
「そこは一回くらい、寝るって言っておきなさいよ」
セラに呆れられながら歩いているうちに、見慣れたアルヴェリアの城壁が見えてきた。
ようやく帰ってきた。
五人とも、その程度にしか考えていなかった。
◇
ところが、門番は五人を見るなり目を見開いた。
「……もしかして、《灰色の翼》か?」
「そうだけど」
ノアが答えた途端、近くにいたもう一人の門番まで振り返った。
「おい、本当に帰ってきたぞ!」
その声に周囲の人々までこちらを見る。やがて「あれがベルナードの?」「五人しかいないって本当だったのか?」とざわめきが広がり始めた。
「何かしら、これ」
「私たち……何かしました?」
「したと言えば、かなりしたけどな」
フィーネがノアの袖を摘まんでいると、荷馬車のそばにいた商人が声を上げた。
「ベルナードを解放した英雄たちだ!」
そこからは早かった。
ブラックハウンドはベルナードを閉鎖的に支配していたため、外へ正確な内情はほとんど伝わっていなかった。そのぶん噂は大きくなり、アルヴェリアではいつの間にか、ベルナードは「凄まじく強い侵略者と、五百人もの悪党に占領された街」として知られていたらしい。
そこを解放した《灰色の翼》の名前は、本人たちより先にアルヴェリアまで戻ってきていた。
「五百人を五人で倒したって話もあるぞ!」
「それはさすがに違う!」
ノアが思わず否定する。
「ベルナードの人たちも一緒に戦ったんだ。俺たちだけじゃない」
だが、説明したところで人々の興奮は収まらなかった。
フィーネは恥ずかしそうに小さくなり、リゼットも集まる視線に少し困っている。ガルドはまるで興味がない様子で先に歩き出し、セラだけが機嫌よく周囲を見渡した。
「あら。思ったより有名人になってるじゃない」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「悪い気はしないもの」
そんなやり取りをしながら《白樫の枝》へ向かった五人は、今度はギルドの入口で揃って足を止めた。
◇
中には、以前とは比べものにならないほど人がいた。
受付には依頼を持ち込む者が並び、掲示板には新しい依頼書がびっしりと貼られている。加入について相談している若者までいた。
「……ここ、うちだよな?」
「看板は合ってるわね」
セラが見上げていると、受付の女性が五人に気づいて勢いよく立ち上がった。
「帰ってきた! ちょうどよかった!」
ノアが事情を聞くより先に受付へ連れていかれ、机の上へ大量の依頼書を置かれる。
「これ、この数日で来た分」
「全部?」
「全部。ベルナードを解放した《灰色の翼》が所属しているギルドだって広まったのよ」
討伐、護衛、採取、探索、商隊同行。以前ならもっと大きなギルドへ持ち込まれていたような仕事まで混ざっている。
「昨日なんて、《灰色の翼》に入りたいって子まで来たんだから」
「私たちにですか!?」
フィーネが驚く。
「五人で活動してるって伝えたら、じゃあ《白樫の枝》に入りたいって」
「人気者って大変ねえ」
セラは相変わらず楽しそうだった。
少し前まで、依頼を一つ取るだけでも苦労していた。それが今は、机の上に積み上がった仕事をどう処理するかで悩んでいる。
ノアはしばらく依頼書を眺めていたが、やがてギルドの中にいる冒険者たちへ目を向けた。
「……これ、俺たちだけでやる必要ないな」
「どうするの?」
「みんなでやればいい」
ノアは依頼書を机いっぱいに広げた。
◇
そこから、仕事の振り分けが始まった。
前衛が充実しているパーティーには街道護衛。森に慣れている者には採取と討伐。経験が足りない部分だけ、《灰色の翼》の誰かが同行する。
強い者に難しい仕事を押しつけるのではなく、その仕事に必要なものと、それぞれの得意なことを組み合わせていく。
その結果、最初に驚かれることになったのはリゼットだった。
若い冒険者たちと向かった討伐依頼で、想定より大きな魔物が現れた。隊列が崩れかけたところへリゼットが入り、流れるような三度の斬撃だけで巨体を地面へ沈める。
呆然としている同行者たちへ、リゼットは剣についた血を払ってから普通に尋ねた。
「怪我はない?」
「……大丈夫、です」
「よかった」
本人はそれだけで残りの敵へ向き直ったが、帰り道では後ろから「今、何した?」「俺に聞くなよ」と小声が聞こえていた。
リゼットは聞こえないふりをして、そのまま歩き続けた。
◇
ガルドが同行した護衛では、戦闘が始まる前から周囲が困惑することになった。
森沿いの街道で突然足を止めると、ガルドは木々の方を見ながら「三。右だ」と告げた。
「何もいないぞ?」
同行者が目を凝らしている横で、ガルドはすでに一本目の矢を森へ放っている。
直後、茂みから本当に三体の魔物が飛び出した。
一体目の脚を射抜き、二体目が逃げる方向へ先回りするように次の矢を置く。最後の一体が進路を変えた時には、ガルドの弓はすでにその先へ向いていた。
ほんの短い攻防で三体が倒れる。
「……最初の矢、敵が出る前に撃ってたよな?」
「ああ」
「なんで分かったんだ?」
「来ると思った」
ガルドはそれ以上説明せず、矢を回収しに歩いていった。
「灰色の翼って、みんなあんな感じなのか……?」
残された冒険者たちは顔を見合わせた。
◇
セラが同行した討伐は、少しだけ騒がしかった。
予想以上に数の多い魔物に囲まれ、同行したパーティーは徐々に押されていた。前衛たちはまだ戦えているものの息が上がり、後衛の魔力にも余裕がなくなってくる。
その少し後ろで、セラは杖を手に戦況を見ていた。
何もしていないわけではない。
前衛の死角から爪が迫れば小さな魔法で軌道を逸らし、囲まれそうになれば敵の一角だけを吹き飛ばす。仲間たちが気づかない程度に危険な芽だけを摘みながら、戦いが一番盛り上がる瞬間を待っていた。
「まずい、押し切られるぞ!」
前衛の一人が叫ぶ。
全員の体力も、そろそろ限界に近い。
そこでようやくセラが前へ出た。
「もう、仕方ないわね」
紫の三角帽のつばを上げ、琥珀色の瞳を輝かせる。
「ここからは私が、みんなを守ってあげるわ!」
「え?」
大杖を掲げた瞬間、巨大な魔法陣が戦場を覆った。
轟音と閃光。
押し寄せていた魔物の群れが、一斉に吹き飛んでいく。
さっきまでの苦戦が嘘のように、戦闘は一撃で終わった。
静かになった戦場で、セラだけが満足そうに杖を肩へ乗せる。
「ふふっ。凄くドラマチックな戦いだったわね!」
同意を求めるように振り返るが、全員の反応は鈍かった。
「いや……」
「何?」
「あんた、最初から今ので一撃だったんじゃ……」
セラは少し考えてから、楽しそうに笑った。
「でも、それじゃこんなに盛り上がらなかったでしょ?」
「盛り上げなくていいんだよ……」
全員ぐったりしていた。
ただし、それだけ戦ったにもかかわらず、パーティーには誰一人として傷を負った者はいなかった。
◇
フィーネが同行した商隊護衛では、逆の意味で同行者たちが首を傾げることになった。
敵の攻撃を結界で受け、その勢いを横へ流す。態勢を崩した敵の先には味方の剣や矢が待っている。わずかな傷があれば戦闘の合間にすぐ治療する。
何度か魔物に襲われたにもかかわらず、目的地へ着く頃には全員ほとんど無傷だった。
「……俺たち今日、一発もまともに食らってなくないか?」
「そういえば」
「というか、あの子が敵の攻撃を全部こっちの攻撃に繋げてくれてたよな」
視線を向けられたフィーネは、少し照れながら笑った。
「皆さんが強かったからですよ」
「いや……」
一同が顔を見合わせる。
「絶対違うだろ」
その評価だけは、全員一致だった。
◇
四人がそれぞれ外へ出ている間、ノアはほとんどギルドを離れなかった。
依頼の内容と各パーティーの特徴を見比べて仕事を回す。戻ってきた冒険者から現地の情報を受け取り、それを次に出る者へ渡す。最初はノアの振り分けを待っていた者たちも、数日もすると互いに情報や道具を融通するようになっていた。
「ノア、終わったぞ!」
「こっちも依頼完了!」
「次に俺たち向きの仕事があったら回してくれ!」
机の上から未処理の依頼書が減り、代わりに完了報告が積み上がっていく。
そんな中、新しい依頼人が《白樫の枝》を訪れた。
「《灰色の翼》にお願いしたい仕事があるんですが」
しかし内容を確認したノアは、別のパーティーを示した。
「この依頼なら、俺たちより彼らの方が向いてます」
「でも……大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。俺が保証します」
依頼人は少し迷ったあと、やがて頷いた。
「……《灰色の翼》がそう言うなら」
その一言に、ノアはわずかに目を見開いた。
自分たちが直接戦わなくても。
《灰色の翼》という名前が、誰かの仕事を後押しするようになっている。
そして、その評判は。
もう《白樫の枝》の中だけには収まらなくなり始めていた。
◇
《灰色の翼》の評判が広がり始めてから、数日。
《白樫の枝》には以前よりも多くの依頼人が訪れ、所属する冒険者たちも忙しく街を出入りするようになっていた。その日もノアは受付近くの机に依頼書を広げ、戻ってきたパーティーから報告を受けている。
「北の街道、魔物は?」
「聞いてた通り三体だけだった。もう片づけたよ」
「なら次に通る商隊へ伝えておいてくれ。念のため日が落ちる前に通った方がいい」
「分かった」
冒険者が去ると、今度は別の一組が入ってくる。ノアが次の依頼へ手を伸ばした、その時だった。
ギルドの入口付近が、妙に静かになった。
「……え?」
受付の女性まで動きを止めている。
何事かと思って顔を上げると、一人の男が入ってきたところだった。
二十代半ばほど。灰金色の短髪に、淡い緑の瞳。白と黒を基調に金の装飾を施した質の高い軽装を身につけ、手には身長を越える長槍を携えている。
派手に威圧しているわけでもないのに、その場にいた冒険者たちの視線が自然と男へ集まった。
「……《神槍》」
誰かが小さく呟く。
「《黄金獅子》の、ユリウス・ヘイゼン……」
王都を本拠とする《黄金獅子》。
名乗れば誰でも入れるようなギルドではない。実績と実力を認められた冒険者だけが所属を許される、本物のプロたちの集まり。その中でも《神槍》の二つ名を持つ男が、なぜか《白樫の枝》に立っている。
だが本人は周囲の緊張など気にした様子もなく、ギルド内を一度見回してからノアのところへ歩いてきた。
「君がノア?」
「そうだけど」
「やっぱり」
ユリウスは人当たりのいい笑みを浮かべ、机いっぱいに広げられた依頼書と、その周囲で忙しく動いている冒険者たちへ視線を向ける。
「最近、《白樫の枝》が随分仕事を取ってるって聞いてね。ベルナードの件もあるし、少し気になってたんだ」
「王都の《黄金獅子》から、わざわざ?」
「面白そうだったから」
ユリウスはあっさり答えた。
軽い口調とは裏腹に、その淡い緑の瞳はよく周囲を見ている。誰がどの依頼を持っているのか。どのパーティーが戻り、誰が次に出ていくのか。そして、その中心にいるノアが何をしているのか。
ちょうどそこへ、依頼を終えたリゼットたちも戻ってきた。
ユリウスの視線が四人へ移る。リゼットの剣、ガルドの弓、フィーネ、そして大杖を肩に担いだセラ。ほんの一瞬だけ、ユリウスの目つきが変わった。
「……なるほど」
「何が?」
「ベルナードの噂、少しくらい大袈裟になってると思ってた」
ユリウスは五人を順番に見て、楽しそうに笑った。
「そうでもなさそうだ」
敵意は感じない。むしろ純粋に興味を持たれている。
「ユリウス・ヘイゼン。《黄金獅子》にいる。また会うことになると思うよ」
「ずいぶん曖昧だな」
「その方が楽しみだろ?」
軽く手を上げると、ユリウスはそれ以上何も言わずに出ていった。
セラが閉まった扉を見る。
「変な人ね」
「お前に言われたくないと思うぞ」
「どういう意味よ」
いつものようにセラが言い返す横で、リゼットは少しだけ真剣な顔で扉を見ていた。
「……かなり強いと思う」
「分かるのか?」
「うん。たぶん」
それだけ言って、リゼットはいつものように依頼の報告へ戻った。
ベルナードから持ち帰ったものは、金や名誉だけではなかった。
《灰色の翼》という名前が、今まで届かなかった場所へ届き始めている。
その中には、王都の《黄金獅子》も含まれていた。
◇
その頃。
アルヴェリアから遠く離れた、別の国のある街で。
一人の女剣士が、居場所を失っていた。
「……もう一度言って」
ミレイア・セルンは、目の前に立つ男を見つめていた。
腰近くまで伸びた淡い金髪に、翡翠色の瞳。白銀を基調とした軽装鎧を身につけた、美しい女剣士だった。その前で、パーティーリーダーのカイル・ベルクが気まずそうに視線を逸らしている。
「悪いけど、今日で抜けてもらいたい」
「どうして?」
「今の俺たちは、もっと上を目指したいんだ。最近の依頼じゃ討伐速度も見られるし、いつまでも守りを優先してばかりじゃ伸びない」
ミレイアの眉が僅かに寄る。
「仲間を守るのが、私の役目でしょう?」
「それが悪いって言ってるんじゃない。ただ、今の俺たちには合わなくなったんだ。治療もできるようになったし、多少の傷を恐れず攻めた方が結果も出る」
理屈がまったくないわけではなかった。だからこそ、ミレイアには反論しきれない。
「私……ずっと、このパーティーのために戦ってきた」
「分かってる」
「みんなが傷つかないように、ずっと前に立ってきた。それに……」
声が震える。
「カイル! 私は……あなたのために、頑張ってきたのよ……」
その言葉に仲間たちが黙り、カイルは僅かに顔を伏せた。
「……恋愛と仕事は別だろ。それに……」
その先を、言わなかった。
代わりに、一人の治癒術師の女がカイルの隣へ歩み寄る。
「もういいじゃない。カイルも困ってるよ」
柔らかな声とともに、女は自然にカイルへ寄り添った。
カイルは、それを拒まなかった。
それだけで十分だった。
ミレイアの翡翠色の瞳から、すっと力が抜ける。
「……そう」
「ミレイア」
「分かったわ」
それ以上は何も聞かず、ミレイアは背を向けた。
誰も追ってこなかった。
◇
気づけば、街外れまで歩いていた。
何年も一緒に戦ってきた。何度もカイルを守り、いつか彼の隣に立てると思っていた。その仲間も、居場所も、好きだった男も、一日のうちにすべて失った。
「……馬鹿みたい」
呟いた瞬間、堪えていた涙が落ちた。淡い金髪が俯いた顔へこぼれ、その向こうで翡翠色の瞳が滲む。
その時。
「いい匂いがするなぁ」
聞き慣れない声がした。
ミレイアが顔を上げると、少し離れた場所に一人の青年が立っていた。
細身の身体に、軽やかな重ね着の衣装。胸元は少し開き、手首や指にはいくつもの装飾品が光っている。黒に近い濃紫の髪はギザギザと自由に跳ね、その中には鮮やかな紫のメッシュが混じっていた。
若く、派手で、妙に人を惹きつける。
物語の主人公だと言われても、不思議ではないような青年。
ただ。
赤紫の瞳だけが、どこか危うかった。
「……誰?」
青年は楽しそうに笑う。
「絶望の匂いだ」
その男の名は――ゼノ・グレイヴ。
「近づかないで」
「そんな怖い顔するなよ。俺はお前の味方だぜ」
「初対面でしょう」
「関係あるか?」
ゼノは気にする様子もなく距離を縮めてくる。
「お前の気持ちは分かる。必死で仲間を守って、傷ついても前に立った。それなのに最後は、戦い方が気に入らないって捨てられた」
ミレイアの表情が揺れる。
「しかも、好きだった男まで別の女を選んだ」
「……黙って」
「悔しいよな。許せないよな?」
「違う!」
ミレイアは首を振った。
「あの人たちは悪くない。私が、今のパーティーに合わなくなっただけで……」
「なんでお前が自分を責めるんだ?」
その一言で、言葉が止まった。
「捨てたのはあいつらだろ? お前じゃない」
ゼノは目の前まで来ると、離れようとしたミレイアの後頭部へ手を回した。
「っ……!」
ぐっと引き寄せられる。細身の身体からは想像できないほど強い力で、ミレイアの顔がゼノの口元近くまで寄せられた。
「怒っていいんだよ。憎んでいい。お前は十分我慢した」
「やめて……」
「俺はお前を捨てない」
ミレイアの瞳が揺れる。
「俺は、お前のただ一人の味方だ。力もやる。あいつらに、お前を捨てたことを後悔させてやろうぜ」
ゼノの口元が笑う。
「全部、ぶっ壊してやろう」
次の瞬間、ゼノの手から赤い光と黒い霧が溢れ出した。
◇
「なに……これ……!」
赤黒い力がミレイアの身体へ流れ込む。
熱くはない。それなのに身体の奥深くまで何かが染み込み、悲しみも、悔しさも、嫉妬も、憎しみも、認めたくなくて押し殺していた感情が次々と浮かび上がってくる。
「そうだ。それでいい」
ゼノが笑う。
「全部出せ」
白銀の鎧へ黒が走り、青緑だった装飾が紫へ染まっていく。元の装備の形を残しながら、肩や胸元、腰、脚を大胆に見せる妖艶な黒紫の軽装へと姿を変えていった。
淡い金髪はそのまま。
だが、顔を上げた時の印象はまるで違う。
翡翠色の瞳は妖しく細まり、目元には濃い黒と紫。紫に染まった唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「似合ってるぜ」
ゼノに言われ、ミレイアは自分の身体へ満ちる力を確かめる。
軽い。
力が溢れている。
そして何より、あれほど胸を締めつけていた痛みが、不思議なほど心地よい熱へ変わっていた。
「……ふふっ」
以前の彼女にはなかった笑みが、紫の唇から漏れた。
◇
「ミレイア……?」
数時間前に追い出した女剣士を前に、カイルは自分の目を疑った。
淡い金髪こそ同じだったが、白銀だった鎧は黒と紫に染まり、翡翠色の瞳にも以前とは違う妖しい光が宿っている。
「何だよ……その姿」
「とっても素敵でしょ?私は生まれ変わったのよ」
ミレイアは楽しそうに首を傾げ、黒く染まった剣を抜いた。
カイルたちも慌てて武器を構える。
「ミレイア、落ち着け」
「落ち着いてるわよ? 今までで一番ね」
笑った瞬間、ミレイアの姿が消えた。
直後、前衛の一人が武器ごと吹き飛ばされる。二人目が振り向いた時にはもう懐へ入り込まれており、剣を弾かれて地面へ転がった。三人目も魔法を使う暇すらなく、柄の一撃でその場へ崩れ落ちる。
ほんの数秒だった。長い間一緒に戦ってきた仲間たちが、何もできないまま倒れている。
「……嘘だろ」
残ったカイルが剣を握り締める。
「あら。まだいたの?」
「ミレイアァッ!!」
カイルが踏み込み、渾身の力で剣を振り下ろす。
ミレイアは、その一撃を真正面から迎え撃った。
甲高い音が響いた。
カイルの剣が、粉々に砕け散る。
折れたのではない。刃そのものが無数の金属片となって弾け飛び、手元には柄と僅かな破片しか残らなかった。
「……俺の、剣が」
カイルの顔から血の気が引く。
ミレイアは足元に散った破片を一瞥すると、つまらなそうに笑った。
「こんなものだったのね」
その顔に浮かんだ恐怖と絶望を見て、ミレイアは満足そうに目を細める。
「その顔。見たかったのよね」
しかし、カイルへ剣を向ける代わりに視線を横へ移した。
治癒術師の女が怯えて後ずさる。
逃げるより早くミレイアがその腕を掴み、身体を自分の前へ引き寄せた。背後から押さえ込み、黒い刃をその首元へそっと添える。
「ミレイア!!」
「動かないで」
カイルの足が止まった。
ミレイアは治癒術師の肩越しに彼を見つめ、楽しそうに笑う。
「ねえ、カイル。こういう時、みんなのために自分を犠牲にしてでも前に出てくれる、勇敢な剣士がいればよかったのにね?」
「……!」
「あなたたち、そういう戦い方はもう必要ないんでしょう?」
治癒術師の身体が震える。
ミレイアはその首元へ剣を添えたまま、さらに笑みを深くした。
「こんな役立たずの女は、あなたを守ってくれるのかしら?」
「やめろ!! それだけはやめてくれ!」
カイルの叫びが響いた。
「俺が悪かった! 君の凄さを見誤っていた! すまない! だから助けてくれ! 頼む!」
砕けた剣の柄を捨て、必死にミレイアを見る。
「もう一度、俺たちのところへ来てくれ!!」
その言葉を聞いた瞬間、ミレイアの翡翠色の瞳が大きく開いた。
やがて肩が震え、堪えきれないように笑い始める。
「ふふっ……それよ! その言葉が聞きたかった!」
心の底から満足そうに笑い、大きく息を吐いた。
「あー、スッキリした!」
数時間前、自分がどれだけ訴えても欲しかった言葉はもらえなかった。
自分の価値を認めてほしかった。
必要だと言ってほしかった。
それを今、カイルは自分から必死に叫んでいる。
「でも、残念」
「……え?」
「私には、もう帰る場所があるから無理」
カイルが言葉を失う。
「帰る、場所……?」
「ええ」
その時だけ、ミレイアの表情が恋する少女のように柔らかくなった。
「私を唯一理解してくれた王子様♡」
ミレイアは治癒術師から剣を離し、その身体をカイルの方へ突き飛ばすと、倒れた仲間たちをまとめて見下ろした。
紫の唇に妖艶な笑みが浮かぶ。
「さて。聞きたいことも聞けたし、そろそろ――終わりにしましょうか?」
その笑顔を前に、カイルたちの顔から完全に希望が消えた。
◇
少し離れた町外れで、ゼノはすべてを見ていた。
やがて戻ってきたミレイアを迎えると、当然のようにその肩へ腕を回した。ミレイアも拒むどころか、安心しきったようにゼノの身体へ寄り添い、紫の唇を満足そうに緩める。
「どうだった?」
「……最高だったわ」
「だろ?」
ゼノは楽しそうに笑った。
月明かりの下、淡い金髪のミレイアは彼の肩へ頭を預ける。自分を見捨てず、理解し、力まで与えてくれた唯一の男。その隣にいることを、今の彼女は何の疑いもなく受け入れていた。
「さて」
ゼノはミレイアの肩を抱いたまま、遠くへ続く道を見る。
「まずは仲間からだ」
ミレイアが隣から彼を見上げる。
ゼノは赤紫の瞳を細め、楽しそうに笑った。
「俺たちには、まだまだ人数が足りないからな」
その言葉を聞いても、ミレイアは何も疑わない。
自分を理解してくれた唯一の男。
自分を救ってくれた王子様。
けれど、ゼノにとってミレイアは最初から対等な仲間ではない。
彼女は、これから一人、また一人と増やしていく――。
自分だけに従う、最初の下僕だった。
〖今回の異世界マーケティング〗
今回のテーマは、
「ブランド」と「組織を成長させる仕組み」です。
《灰色の翼》は、自分たちが直接仕事をしなくても、
「《灰色の翼》が推薦するなら大丈夫」
と思ってもらえる存在になりました。
これがブランドの強さです。
そしてノアは、増えた依頼を自分たちだけで抱えず、
それぞれのパーティーの得意分野に合わせて仕事を振り分けました。
一人の強さではなく、
組織全体で成果を出せる形へ変わり始めています。
さらに、その評判はついに王都の《黄金獅子》にまで届きました。
《灰色の翼》は、
ここから一段上のステージへ進んでいきます。
第十七話も読んでいただき、ありがとうございました!
続きが気になったら、
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