第十六話 五つの翼が街を繋いだ
ノアの声に応えるように、ガルドの弦が鳴った。
放たれた矢を見て、ザハークは身体を右へずらす。だが、そこにはすでにセラの魔法が走っていた。
「そっちは通行止めよ」
「チッ!」
ザハークが反対へ踏み込む。
足元へ、小さな金属片が転がった。
ノアが投げたものだ。
何が起きるのか分からない以上、無視はできない。ほんの一瞬だけザハークの視線が下がり、その隙にガルドの二射目が飛んだ。
狙ったのは本人ではない。
次に踏み込もうとした石畳だった。
「……!」
足を引いたことで重心が浮く。
そこへフィーネの薄い結界が滑り込み、踏ん張ろうとした力を僅かに横へ流した。
「ぐっ――」
巨体が傾く。
リゼットは、その一瞬を逃さなかった。
低く踏み込み、身体の速度をそのまま剣へ乗せる。ザハークが腕を上げたところへ斬撃が入り、鈍い衝撃とともに身体が半歩下がった。
反撃が来る前に、リゼットはもう間合いから抜けている。
「ふざけ――」
追おうとしたザハークへ、再びガルドの矢。
顔を狙った一射を首を振って避ければ、その先へセラの魔法が飛んでくる。
「もう一歩、左」
「誰が行くか!」
ザハークは逆へ踏み込んだ。
ノアの目が細くなる。
そちらを選ぶと思っていた。
ガルドも同じものを見ていたらしい。ザハークが足を置こうとした位置へ矢が飛び、進路を塞ぐ。
足を止めて腕を上げた瞬間、セラの魔法が脇腹へ直撃した。
「ぐっ!」
身体が捻れる。
すぐにリゼットが入る。
剣を受ければ、今度は背後からガルドの矢。片足を浮かせれば、フィーネが着地点へ結界を差し込み、重心をさらに崩していく。
誰もノアの指示を待っていない。
ザハークが一つの攻撃へ対応するたび、その動きを次の誰かが拾っていた。
一つを避ける。
その選択が、次の攻撃を呼ぶ。
次を防ぐ。
防ぐために作った隙へ、また別の攻撃が入る。
「クソが!」
ザハークが力任せに腕を振るう。
リゼットは届く寸前に離脱した。
そこへセラの魔法が炸裂する。
煙の中から出てきたところを、さらにガルドの矢が追う。
ザハークはそれを拳で叩き落としたが、わずかに顔が上を向いた。
リゼットが踏み込む。
鋭い剣閃が胸元を守った腕へ入り、今度はザハークの巨体が大きく後ろへ押し出された。
一歩。
二歩。
靴底で石畳を削りながら、三歩目でようやく止まる。
裂けた袖の下から、血が流れていた。
「……」
ザハークは自分の腕を見る。
さっきまでのような余裕は、もう顔に残っていなかった。
ガルドの矢も、セラの魔法も、フィーネの結界も、リゼットの剣も、一つずつなら対処できる。
だが今は、それぞれが独立して飛んでこない。
自分が何を選ぶのか。
どう避け、どう守り、誰を狙うのか。
そのすべてを利用されている。
「……気に入らねぇな」
ザハークの視線が、四人の間を抜けてノアへ向いた。
「テメーが何かやってんのは分かる」
ノアは答えなかった。
「俺に避けさせて、止まらせて、好きな方へ動かしてるつもりか?」
ザハークが血のついた腕を下ろす。
「俺はまだ、誰にも好きに動かされた覚えはねぇぞ」
拳を握った。
ノアは、次の攻撃に備える。
だが。
ザハークは動かなかった。
「……ハッ」
代わりに、低く笑う。
「そうかよ。ここまでやるか」
ゆっくり肩を回し、傷口から流れた血を親指で拭った。
その赤を眺めながら、口元を歪める。
「だったら、こっちも遊んでる場合じゃねぇな」
空気が変わった。
◇
「……何?」
最初に異変へ気づいたのはセラだった。
ザハークの足元から、何かが立ち昇っている。
煙でも炎でもない。
赤い光の中へ、墨を流し込んだような黒い靄が絡みつき、揺らめきながら脚から胴、肩へと這い上がっていく。
「……魔力?」
フィーネが不安そうに呟いた。
セラはすぐには答えなかった。
魔力に似ている。
だが、自分の知っているものとは明らかに違う。
赤黒いオーラは炎のように揺れているのに、熱は感じない。代わりに、胸の奥を直接押さえつけられるような不快な圧迫感が広場を満たしていく。
「セラさん?」
「……分からない」
珍しく、セラが即答できなかった。
フィーネが無意識に半歩下がる。
「なんだか……嫌な感じがします」
ガルドの耳も伏せられていた。
理屈ではない。
獣としての感覚が、目の前のものを危険だと告げている。
「来るぞ」
その言葉とほぼ同時に、ザハークが顔を上げた。
瞳の奥にも、赤黒い光が揺らめいている。
「さあ」
歯を見せて笑う。
「もう一回やろうぜ」
次の瞬間、その姿が消えた。
◇
「――っ!?」
辛うじて反応したのはリゼットだった。
踏み込んできたザハークへ剣を振るう。
だが、先に届いたのは拳だった。
「くっ!」
剣と両腕で受けた瞬間、凄まじい衝撃が走る。
リゼットの身体が宙へ浮き、そのまま大きく弾き飛ばされた。石畳を何度も転がり、広場の端でようやく止まる。
「リゼットさん!」
フィーネがすぐに結界を展開した。
ザハークはその完成を待たない。踏み込んだ勢いのまま拳を叩き込み、まだ十分な厚みを作れていない結界を一撃で砕いた。
「きゃあっ!」
衝撃をまともに受け、フィーネも後方へ吹き飛ばされる。
「フィーネ!」
セラが杖を振った。
紫色の魔法が立て続けにザハークへ襲いかかる。
今までなら、避けるか受けるかを選んでいた。
だが今のザハークは、腕で顔だけを守ったまま魔法の中を突っ切ってくる。
「ちょっと、本当に――」
言い終えるより早く、拳が腹部へ入った。
「――っ!」
セラの身体が折れ、そのまま地面へ叩きつけられる。手を離れた大杖が、石畳の上を遠くまで転がっていった。
直後に弦が鳴る。
ガルドだった。
一射目は顔。
二射目は膝。
三射目は、ザハークが避ける先。
どれも正確だった。
それでも止められない。
一本を腕で払い、一本を赤黒いオーラで僅かに逸らし、最後の一本だけを肩に受けたまま、ザハークは構わず距離を詰めてくる。
ガルドはすぐに後方へ跳んだ。
近距離では戦わない。
距離を作り、弓を撃ち続ける。それがシドとの戦いで選んだ、自分の戦い方だ。
だが今は、その距離さえ作らせてもらえない。
ガルドが着地するより早く、巨大な腕が届いた。
「ぐっ……!」
横殴りの一撃。
身体が宙を舞い、壁際へ激しく叩きつけられた。握っていた弓が石畳を滑っていく。
ほんの数十秒だった。
さっきまでザハークを押していた四人が、もう誰一人として立っていない。
赤黒いオーラを纏ったザハークが、ゆっくりノアへ振り向いた。
「終わりだな」
ノアは反射的に鞄へ手を伸ばす。
まだ道具はある。
煙も。
粉も。
何か一つでも、次の動きを作れれば――。
「それだろ?」
ザハークの姿が目の前に来た。
「……!」
巨大な手が、ノアの鞄を掴む。
肩紐ごと強引に引き千切られ、中身が石畳へ撒き散らされた。
煙筒。縄。小瓶。金属片。
この世界へ来てから集め、工夫し、戦うために使ってきたものが足元へ転がっていく。
ザハークはそれを見下ろした。
「こんなもん」
足を上げる。
「なくなりゃ――」
踏み潰した。
小瓶が割れ、金属が潰れ、乾いた音がいくつも重なる。
「何もできねぇだろ?」
ノアは答えなかった。
ザハークはもう道具に興味を失ったように、こちらへ一歩近づく。
「こいつらが妙な動きし始めたのも、テメーが何かやってからだった」
ノアが一歩下がる。
さらに一歩。
「だったら、まず頭から潰す」
背中が壁へ当たった。
もう下がれない。
ザハークが拳を握る。
ノアの視界には、もう目の前の男しか入っていなかった。
鞄は壊された。剣もない。魔法も使えない。仲間たちも、今すぐ助けに来られる状態ではない。
ザハークの拳が持ち上がる。
怖くないわけではなかった。
身体は震え、心臓は喉から飛び出しそうなほど激しく鳴っている。
それなのに、頭のどこかだけが妙に静かだった。
避けられない。
この拳を受ければ、自分は死ぬ。
この世界へ来てから危険な目には何度も遭った。仲間が死ぬかもしれないと思ったことも、自分自身が危険な場所へ飛び込んだこともある。
それでも、自分の死をここまではっきりと理解したのは初めてだった。
――ああ。
俺、死ぬのか。
ザハークの拳が振り下ろされる。
ノアが反射的に目を閉じかけた、その瞬間。
赤茶色の光が、視界を横切った。
金属音と轟音がほとんど同時に響く。
ザハークの拳が大きく横へ逸れた。
「……何?」
ノアが目を開く。
目の前に、一人の女剣士が立っていた。
赤茶色の長い髪が、猛烈な加速の余韻を残して揺れている。肩や腕の重い装備を外した身体で剣を握り、その刃がザハークの拳を辛うじて逸らしていた。
「リゼット……?」
自分でも、間の抜けた声だと思った。
ザハークも信じられないものを見るように眉を寄せる。
「……テメー、何で動ける」
リゼットは答えない。
呼吸はまだ荒い。頬には傷が残り、壊れた装備もそのままだ。
それでも、ついさっき吹き飛ばされた人間とは思えないほど、足には力が戻っている。
《神速》。
カインを打ち破ったあの速度で、彼女はノアの前まで戻ってきた。
「そりゃ動けるだろ!」
広場の外から声が飛んだ。
ノアとザハークが同時に振り向く。
通りの向こうから、人々がこちらへ向かってきていた。
先頭には元衛兵たち。その後ろには抵抗組織の男や商人たちが続き、小瓶や矢束、布、水など、それぞれが持てるものを抱えている。
中年の商人が、空になった小瓶を掲げた。
「回復薬だよ! あんたがそいつに追い詰められてる間に、嬢ちゃんに飲ませた!」
「……回復薬?」
ノアは初めてリゼットの足元を見る。
そこには、小さな空瓶が転がっていた。
傷そのものが消えたわけではない。それでも乱れていた呼吸は戻り、膝にも再び力が入っている。
ノアがザハークしか見られなくなっていた、その僅かな時間。
街の人間たちは、もう動き始めていたのだ。
「武器庫は取り返した!」
元衛兵の一人が声を張り上げた。
「薬も残ってた。使えるもんは全部持ってきたぞ!」
その後ろでは、別の男たちが何束もの矢を抱えている。
「弓使いはどいつだ! 矢ならあるぞ!」
壁際でガルドが顔を上げた。
「魔力回復薬も持ってきた!」
今度はセラの指が動く。
「治癒術師も来てる! 動けない奴はこっちで見るぞ!」
フィーネも驚いたように声の方を見た。
人が次々と広場へ入ってくる。
けれど、誰も無謀にザハークへ突撃しようとはしていない。
元衛兵は残っているブラックハウンドの構成員を引き受け、商人たちは薬や水を配る。別の者たちは倒れている者へ駆け寄り、荷車には布や矢、薬、予備の装備まで積み込まれていた。
戦える者が戦う。
運べる者が運ぶ。
治せる者が治す。
誰かが戦い続けるために、別の誰かがその背中を支えている。
ほんの少し前まで何もなかった中央広場の後方に、戦うための環境そのものが出来上がり始めていた。
「……なんだ、これ」
ザハークが周囲を見回す。
その表情に、初めて理解できないものを見る色が浮かんだ。
ノアも同じだった。
自分は何も頼んでいない。
誰か一人が、これほど細かく指示を出しているわけでもない。
それなのに必要なものが届き、必要な人間が動き、倒れた仲間たちがもう一度立ち上がろうとしている。
リゼットが剣を握り直した。
その背中を見ながら、ノアはさっきの瞬間を思い返す。
自分が本当に死ぬと思った瞬間。
目の前に立ってくれたのは、彼女だった。
「ノア」
リゼットは振り返らないまま訊いた。
「立てる?」
「……ああ」
「なら、少し下がって」
助けたことを誇るでもなく、大げさな言葉を口にするでもない。
ただ、いつものようにノアとザハークの間に立っている。
そこへ元衛兵が、もう一本の回復薬を差し出した。
「まだあるぞ!」
リゼットは少し驚いたように小瓶を見てから受け取る。
「……ありがとう」
「礼は勝ってからでいい」
男は笑い、後ろから続いてくる人々を親指で示した。
「俺たちの街なんだ。俺たちも一緒に戦わせてくれ」
その言葉に、ノアは広場へ続く通りを見た。
まだ、人が来ていた。
しかも。
中央広場だけではない。
そのさらに向こう。
ベルナードのあちこちで。
人々が、動き始めていた。
◇
街の人々が動き始めると、《灰色の翼》の状況は急速に変わっていった。
最初に治療を受けたのはフィーネだった。
「じっとしてろ。お前が倒れたままで、誰が仲間を治すんだ」
街の治癒術師に言われ、フィーネは大人しく肩を差し出した。淡い光が傷を包み、身体を起こすだけでも辛かった痛みが少しずつ引いていく。
「ありがとうございます!」
「動けるようにはした。無茶はするなよ」
「はい!」
立ち上がったフィーネが真っ先に向かったのは、壁際で身体を起こしていたガルドだった。
「ガルドさん、そのままで!」
「……矢は撃てる」
「撃てるかどうかじゃありません」
両手から柔らかな光が広がり、ザハークに叩きつけられた身体の傷を癒していく。
「全部は治せません。でも、これならさっきより動けるはずです」
ガルドは脇腹を確かめるように身体を捻った。
「……十分だ」
元衛兵から新しい矢束を受け取り、すぐに弓へ一本つがえる。
次はセラだった。
「セラさんも!」
「私は魔力の方が問題なんだけど?」
「傷もです」
「これくらい平気よ」
「お腹押さえながら言わないでください」
「……見てたのね」
フィーネの治癒で痛みが和らいだところへ、商人が魔力回復薬を差し出した。
セラは一息で飲み干し、大杖を握り直す。
「これなら、もう一回くらい凄いの撃てそうね」
「一回だけにしてくださいね?」
「それは約束できないわ」
「セラさん!」
完全に回復した者など一人もいない。
それでも、再び戦えるところまでは戻ってきた。
ノアのところにも、商人や職人たちが粉や油、縄、小瓶を次々と持ち込んでくる。
「兄ちゃん、これ使えるか?」
ノアは差し出された麻袋を受け取った。
ザハークに鞄を壊された時、戦うための手段を失ったと思った。
だが違った。
全部を自分一人で持っている必要なんてない。
必要なものを持っている誰かがいて、必要な時に、それが繋がればいい。
「……ありがとう。使わせてもらう」
「おう!」
ノアが顔を上げる。
ガルドが弓を構え、セラが大杖を向け、フィーネがその後ろに立つ。
そして最前線には、剣を握り直したリゼット。
《灰色の翼》が、再びザハークを見据えた。
◇
「調子に乗ってんじゃねぇぞ!」
赤黒いオーラを纏ったザハークが踏み込む。
だが今度は、さっきまでとは違った。
ガルドの矢が進路を塞ぎ、リゼットがその隙へ斬り込む。反撃しようとすればセラの魔法が飛び、フィーネが結界で力の向きをずらす。
ノアの手元にも、街から次々と新しい道具が届いた。
そして《灰色の翼》が傷ついても、その後ろには薬も、矢も、治療もある。
「クソが……!」
ザハークは何度も前へ出ようとした。
そのたびに押し返される。
中央広場を出て、商業通りへ。
さらに大通りへ。
街のどこへ行っても、元衛兵が残党を押さえ、商人が物資を運び、治癒術師が負傷者を受け入れている。
ザハーク本人に逃げているつもりなどなかった。
それでも戦い続けるうちに、少しずつ、確実に街の外へ追い立てられていった。
◇
「回復薬を前線へ送りました!」
「武器庫から矢も運んでます!」
「南通りの商人たちが荷車を出しました!」
次々と届く報告に、ダリオは眉を寄せた。
「……待て。誰がそんな指示を出した?」
部下が首を傾げる。
「誰もです。必要だと思った奴が、自分で動いてます」
また別の報告が届く。
「治癒術師たちも前線へ!」
「それも?」
「自分たちで行ったそうです」
ダリオは言葉を失った。
通りを見れば、武器を運ぶ者、怪我人を支える者、水を運ぶ者、伝言を次の区画へ繋ぐ者がいる。
誰も、ダリオの次の命令を待っていない。
それなのに、全員が同じ方向を向いていた。
ずっと。
自分たちレジスタンスが、この街を救わなければならないと思っていた。
違った。
ベルナードそのものが、自分自身を取り戻そうとしている。
「……なんだよ」
声が震えた。
それでも、口元には笑みが浮かんでいた。
「ちゃんと、生きてたじゃねぇか……」
夕方の光を浴びた街の中を。
今日まで怯えていた人々が、自分の意思で走っていた。
◇
長かった一日も、終わりに近づいていた。
夕日が街を赤く染める頃。
ザハークの背後には、巨大な市門があった。
「……俺が」
ザハークが振り返る。
中央広場からここまで。
逃げたつもりなど一度もない。
「追い出されてる……?」
「出ていけ」
元衛兵が言った。
「ベルナードから出ていけ」
別の声が続く。
「俺たちの街だ!」
「出ていけ!」
商人も、職人も、治癒術師も、市民も。
やがて何百もの声が重なっていく。
「ベルナードから出ていけ!」
「黙れぇぇぇっ!!」
ザハークの赤黒いオーラが激しく膨れ上がった。
「ここは俺の街だ!」
「違う!」
誰かが叫ぶ。
そして街中から声が返った。
「ここは俺たちの街だ!!」
夕焼けの市門前に、ベルナードの声が響き渡った。
◇
その光景を見ていたセラは、なぜかとても楽しそうだった。
「……凄いですね」
隣でフィーネが呟く。
街中の人間がこちらを見ている。
拳を握る者。祈る者。《灰色の翼》の名を叫ぶ者。
目の前には、赤黒いオーラを纏った強大な敵。
そして自分には、魔力回復薬で戻った力がある。
セラの口元が、ゆっくりと上がった。
「ねえ、フィーネ」
「はい?」
「ここで凄いの決めたら、絶対カッコいいと思わない?」
「……セラさん?」
フィーネが少し困ったような顔をする。
だがセラの頭の中では、もう次の魔法が形になり始めていた。
マティアスとの戦いで学んだ精密な魔力操作。
自分は昔から、大きな魔力を生み出すことだけなら得意だった。
だが、巨大になればなるほど力は散る。
ならば。
散らさなければいい。
「フィーネ。私の魔力、包める?」
「包む?」
「ええ。思いっきり出すから、外に逃がさないで。できるだけ小さくしたいの」
フィーネは一瞬だけ考え、それから両手を前へ出した。
「やってみます」
「いい返事ね」
セラの杖先に光が生まれた。
次の瞬間、それは凄まじい勢いで膨張し始める。
セラの身長を越え、二倍、三倍。
ついには彼女の四倍近い巨大な光球が、市門前の上空を眩く照らした。
「うわ……」
フィーネが思わず見上げる。
周囲の市民たちからも、どよめきが起こった。
「フィーネ!」
「はい!」
透明な結界が、巨大な魔力の塊を丸ごと包み込む。
「もっとしっかり包んで!」
「これ以上ですか!?」
「もっと!」
フィーネが歯を食いしばり、両手をゆっくり近づける。
結界が縮み、それに押されるように巨大な魔力も圧縮されていった。
セラ自身の四倍近かった光が半分になり、さらに小さくなる。
それでもセラは内部の力を崩さない。
マティアスから学んだ技術で、猛烈な魔力の流れを細部まで制御し続ける。
大きな魔法を小さくしているのではない。
莫大な魔力を、そのまま小さな空間へ押し込んでいる。
「セ、セラさん……!」
フィーネの額に汗が滲む。
やがて巨大だった光は、人の頭よりも小さくなった。
それなのに、眩しさは最初とは比べものにならない。
白に近い光の奥で、紫色の魔力が異常な密度で渦巻いている。
「こんなに小さくして……本当に大丈夫なんですか?」
セラはその光球を見て、嬉しそうに笑った。
「見てれば分かるわ!」
大杖を構える。
「今までで一番派手だから!」
「それ、大丈夫って意味になってません!」
◇
その頃。
ノア、ガルド、リゼットの三人は、ザハークの猛攻を必死に押さえていた。
ガルドの矢が顔を狙い、ザハークが腕で払う。その死角へリゼットが踏み込み、剣が赤黒いオーラと激突する。
ザハークが反撃へ移ろうとした瞬間には、ノアが足元へ小瓶を投げ込んだ。
破裂した煙に視線が揺れる。
その隙へガルドの二射目。
さらに反対側からリゼット。
「チョロチョロと……!」
ザハークが怒鳴りながら腕を薙ぐ。
リゼットが間合いを外し、ガルドも距離を取った。
その時、ノアの視界の端に異様な光が入る。
セラとフィーネの間に、小さな光の球が浮かんでいた。
大きくない。
それなのに、直視できないほど眩しい。
セラと目が合う。
何も言わない。
ただ、いつもの悪戯っぽい笑みが返ってきた。
ノアはすぐに理解した。
「ガルド! リゼット!」
二人がノアを見る。
「俺を信じて、合わせてくれ!」
ガルドは弓を構えたまま、ほんの僅かに頷いた。
リゼットも青い瞳でノアを見返し、剣を握り直す。
それ以上の言葉はいらなかった。
「行くぞ!」
二人が同時に動いた。
ガルドの矢がザハークの顔面へ飛び、腕を上げさせる。
同時にリゼットが《神速》で真正面から踏み込み、脇腹へ剣を走らせた。
ザハークが身体を捻って防げば、背後から二射目。
振り向く余裕もないまま肩をずらしたところへ、リゼットの二撃目が入る。
「クソがぁっ!」
拳を振るえばリゼットが避け、そこへガルドの矢。
矢を払えば、今度はリゼット。
二人の攻撃が間を与えず襲いかかり、ザハークの意識は完全に目の前へ縛りつけられていた。
ノアは待つ。
あと一瞬。
ガルドの矢が右から飛ぶ。
ザハークが左腕で弾く。
そこへリゼットが左から踏み込み、反対の腕で剣を受けさせる。
両腕が開いた。
今だ。
「離れろ!」
ガルドは一瞬の迷いもなく後方へ跳ぶ。
リゼットも理由を確認せず、《神速》で一気にザハークの間合いから離脱した。
「……あ?」
さっきまで自分へ迫っていた二人が突然消え、ザハークが僅かに固まる。
その一瞬で十分だった。
セラが大杖を振った。
小さな光球が消える。
いや。
速すぎて見えなかった。
マティアスから学んだ魔力制御で、高密度の魔力を一直線に加速させる。
ザハークが気づいた時には、もう目の前だった。
「――っ!」
避けられない。
「舐めんなぁぁぁっ!!」
両腕を前へ出し、全身の赤黒いオーラを正面へ集中する。
赤黒い力と、白い光が激突した。
一瞬。
止まる。
「この程度――」
ザハークの口元が歪む。
その向こうで、セラの口元がほんの少し上がった。
「それじゃあ――」
大杖の先を僅かに倒す。
「最高に派手に、弾けなさい♡」
瞬間。
ベルナードにいたすべての人間の視界が、白く染まった。
遅れて、凄まじい轟音が響く。
市門前を揺らすほどの爆発。
それなのに、周囲にはほとんど衝撃が届いてこない。
ノアは白い閃光の中に、透明な輪郭を見つけた。
「……フィーネ?」
ザハークの周囲を、巨大な球状の結界が包んでいた。
フィーネは魔力を圧縮しただけではない。
着弾した瞬間。
今度は爆発そのものを、結界で閉じ込めたのだ。
「っ……!」
フィーネの両腕が震える。
結界の内側では、逃げ場を失ったセラの魔力が荒れ狂っていた。
上へ逃げようとする力を押さえ、横へ広がろうとする衝撃を包み込み、ザハークが赤黒いオーラで押し返そうとする力まで内側へ戻していく。
結界に亀裂が走った。
「フィーネ!」
「まだ……です!」
フィーネが歯を食いしばる。
もう一枚、内側へ結界を重ねる。
「せっかく……セラさんが、こんなに凄い魔法を作ったんですから……!」
さらに亀裂が広がった。
「一つも……無駄にしません!」
その時。
フィーネの震える手に、そっと別の手が重なった。
「……え?」
セラだった。
大杖を片手で支えながら、もう片方の手をフィーネの手へ添えている。
セラはザハークから目を離さない。
それでも、声だけは優しかった。
「大丈夫」
フィーネがセラを見る。
「私もいるから」
ほんの一瞬。
フィーネの表情から力みが消えた。
そして、もう一度前を見る。
「……はい!」
二人の手が重なったまま、フィーネが結界へ力を込める。
外へ逃げようとした爆発が、再び内側へ押し戻された。
「最高よ、フィーネ!」
逃げ場を失った破壊力が、何度も何度もザハークへ叩き返される。
セラが生み出した莫大な魔力。
フィーネが逃がさず包み込んだ、そのすべてが。
ただ一人へ。
無駄なく。
叩き込まれていった。
◇
光が消えた。
白く焼けた石畳の中央で、ザハークは辛うじて立っている。
そして。
あれほど全身を覆っていた赤黒いオーラが、完全に消えていた。
「……ふざけんな」
震える脚へ力を込める。
「俺が……負けるわけねぇだろうがぁぁぁっ!!」
最後の力を振り絞り、前へ出る。
ノアは横を見た。
ガルドが弓を構えている。
リゼットも剣を握っていた。
「――今だ!」
弦が鳴る。
ガルドの意識から余計なものが消えた。
見るのは必要なものだけ。
踏み込む脚。
拳を振るために開く腕。
その一瞬。
矢が閃光のように走り、ザハークの前腕を貫いた。
「ぐあっ!」
腕が弾かれる。
その時には、リゼットも動いていた。
《神速》。
赤茶色の髪が夕暮れを駆け抜ける。
一撃目が脇腹。
二撃目が背中。
振り返ろうとしたところへ三撃目が肩から胸元へ走る。
ザハークが拳を振るう頃には、リゼットはもう反対側にいる。
四撃目。
五撃目。
赤茶色の残像が、ザハークの周囲を次々と走った。
「うおおおおっ!!」
拳を振り回しても届かない。
もう《神速》を捉える力は残っていなかった。
リゼットの青い瞳が鋭くなる。
最後の踏み込み。
全身の速度を一本の剣へ乗せる。
「――これで」
振り抜いた。
「終わり!」
斬撃が真正面からザハークを捉えた。
巨体が大きく吹き飛び、市門を越えて何度も地面を跳ねる。
そして。
ベルナードの外へ落ちた。
もう、動かなかった。
◇
しばらく、誰も声を出せなかった。
「……倒した?」
小さな声が漏れる。
元衛兵の一人が市門の向こうを確認し、剣を高く掲げた。
「倒したぞ!」
その一言で。
歓声が爆発した。
「ザハークを倒したぞぉぉぉっ!!」
「ベルナードを取り戻した!」
「やったぞぉぉぉっ!!」
泣く者。
抱き合う者。
拳を突き上げる者。
その声は、市門前からベルナード中へ広がっていった。
ガルドがゆっくりと弓を下ろす。
ノアと目が合った。
普段なら、必要以上の感情を表には出さない二人だった。
けれど。
この瞬間だけは違った。
ガルドが片手を上げる。
ノアも迷わず手を上げた。
強く。
互いの手を打ち合わせる。
「ナイスショット」
「ああ」
それだけだった。
それでも二人とも、胸の奥に込み上げる熱を隠そうとはしなかった。
「……勝った?」
少し離れたところで、フィーネが呟く。
やがてその顔が、ゆっくりと笑顔へ変わった。
「勝ちましたぁぁぁっ!!」
そのままセラへ抱きつく。
「ちょ、フィーネ!」
「セラさん! 勝ちました! 本当に!」
「分かったってば!」
そう言いながら、セラも強く抱き返した。
「でも」
夕焼けの市門と、歓声を上げる人々を見て、セラは満足そうに笑う。
「最高に派手だったわね」
「はい!」
「でしょ?」
「はいっ!」
そこへノアとガルドも合流する。
フィーネが今度はノアへ勢いよく抱きつき、セラまで横から腕を回した。
ガルドも巻き込まれたが、今日は離れようとはしない。
そして。
少し離れた場所に、リゼットがいた。
剣を鞘へ納め、四人を見ながら穏やかに笑っている。
「リゼットさん!」
フィーネが手を伸ばした。
「こっちです!」
「え?」
「リゼットも来なさいよ」
セラも笑う。
「ちょっと待って、私は――」
言い終わる前にフィーネが腕を掴み、反対側からセラが肩を抱いた。
「わっ……!」
「いいじゃない、今日くらい」
「セラまで……!」
抗議しながらも、リゼットは本気では逃げなかった。
気づけば。
五人がひとつの塊になっていた。
フィーネは泣きながら笑っている。
セラは楽しそうに声を上げる。
ガルドも静かに笑い、リゼットまでとうとう堪えきれずに笑った。
ノアも四人を抱き寄せる。
朝から始まった長い戦い。
何度も倒れ、何度も助けられ、それでも最後まで繋いできた。
傷だらけで、泥だらけで。
もうまともに立っているのも辛い。
それでも今。
五人は夕焼けの市門前で、心から笑っていた。
「……勝ったな」
ノアが言う。
リゼットはみんなを見回し、穏やかに笑った。
「うん。みんなで、ね」
五人だけではない。
顔を上げれば、ベルナード中で人々が同じように笑っている。
抱き合う者。
拳を突き上げる者。
何度も勝利を叫ぶ者。
ノアは四人の肩へ腕を回した。
「全員で勝った!」
「はい!」
「当然!」
「……ああ」
「うん!」
五人の声が、街の歓声へ溶けていく。
その日。
夕焼けに染まったベルナードを包んだ歓声は。
まるで大陸の果てまで届くかのように――
いつまでも、鳴りやまなかった。
〖今回の異世界マーケティング〗
今回のテーマは、
「強い個人を集めること」と「強い組織を作ること」は違う、という話です。
ビジネスでは、人材・商品・設備・情報・資金など、会社が持っているものをまとめて「経営資源」と考えます。
重要なのは、優れた資源を持っていることだけではありません。
必要なものを、
必要な場所へ、
必要なタイミングで繋げられるか。
今回のベルナードでは、
回復薬を持つ商人。
武器と矢を持つ衛兵。
治療できる治癒術師。
物資を運ぶ市民。
そして、それぞれ異なる強みを持つ《灰色の翼》。
一つ一つではザハークを倒せない力が、
繋がることで一つの大きな仕組みになりました。
これは企業の「バリューチェーン」にも近い考え方です。
商品を作る人だけが価値を生んでいるわけではありません。
企画する人。
製造する人。
運ぶ人。
売る人。
問い合わせに対応する人。
それぞれの仕事が繋がって、初めて顧客へ価値が届きます。
そして今回、もう一つ重要なのが「自律性」です。
ノアもダリオも、
ベルナード中の人へ細かく命令したわけではありません。
「何が必要か」を見た人が、自分で考えて動いた。
こうした組織は、一人の優秀なリーダーがすべて判断する組織よりも、状況の変化へ素早く対応できることがあります。
現場に判断を任せる。
目的を共有する。
それぞれの強みを活かす。
いわゆる「エンパワーメント」や、分散型の組織づくりにも通じる考え方です。
そして今回、一番大きな仕事をしたフィーネも象徴的でした。
単純な攻撃力だけを比べれば、セラやリゼットの方が上です。
けれど、セラの莫大な魔力をフィーネが凝縮し、爆発まで閉じ込めなければ、あの威力は生まれませんでした。
ビジネスでも同じで、
「売上を直接作る人」だけが価値のある人材ではありません。
強みは、単体の数字だけでは測れない。
誰と組み合わせるか。
どこで使うか。
何を任せるか。
それによって、一見目立たなかった能力が、組織全体の成果を左右することがあります。
《灰色の翼》の五人が繋がり、
その五人をきっかけにベルナードの人々が繋がった。
だから今回のタイトルは、
『五つの翼が街を繋いだ』
でした。
そして、ここまでで『異世界マーケティング』第一章は終了です。
ここまで読んでくださった皆様、本当にありがとうございます。
討伐数ゼロから始まった《灰色の翼》が、
仲間になり、失敗し、成長し、
ついには一つの街とともに戦うところまで来ました。
ここまで物語を追っていただけたことが、作者として本当に嬉しいです。
第一章を読んで、
「続きも読んでみたい」
「このキャラが好き」
「ここが面白かった」
と思っていただけましたら、
リアクションやブックマークで応援していただけると、とても励みになります。
特に「ここが好きだった!」という場面やキャラクターがあれば、感想でもぜひ教えてください。
第二章でも、
《灰色の翼》はさらに大きな世界へ羽ばたいていきます。
これからも『異世界マーケティング』をよろしくお願いします!




