第十三話 侮辱された夢 ――セラVSマティアス――
三分だけなら。
そう思っていた。
でも、その三分の先に終わりはなかった。
◇
フィーネは杖を握ったまま、近づいてくるボガードを見ていた。
もう彼の視線は、逃げていく市民たちには向いていない。
自分だけを見ている。
「どうした」
ボガードが拳を鳴らした。
「さっきまでみてぇに、何かやってみろよ」
フィーネの喉が小さく鳴る。
怖い。
逃げたい。
けれど、逃げたところでこの男は追ってくる。自分を殺すまで終わらない。
だったら――。
ボガードが地面を蹴った。
巨体からは想像できない速度で、一気に間合いが消える。
フィーネは反射的に結界を張ろうとした。
だが、杖を振り上げる寸前で止める。
――違う。
正面から受ければ、また壊される。
フィーネが見たのは拳ではなかった。
今まさに踏み込もうとしている、ボガードの右足。
そこへ薄い青白い膜をまとわせる。
包む。
そして――横へ。
ほんの少しだけ、流した。
「なっ――」
右足の着地点が数十センチずれる。
それだけだった。
だが、すでにボガードの上半身は全力で前へ出ている。拳はフィーネの横を大きく通り過ぎ、その巨体は勢いを殺せない。
「おおっ!?」
そのまま肩から石壁へ突っ込んだ。
ドゴォン!!
壁が大きくへこみ、石片が辺りへ飛び散る。
フィーネは目を見開いた。
自分は、あの巨大な身体を押していない。
足をほんの少し横へ動かしただけ。
それなのに、ボガード自身が生み出した力が、彼を壁まで運んでいった。
「……できた」
思わず声が漏れた。
瓦礫が落ちる中、ボガードがゆっくりと振り返る。
怒鳴るかと思った。
だが彼は自分の足元を一度見てから、フィーネへ視線を戻した。
「今の、何しやがった?」
「……流しました」
「は?」
「止められないので……少しだけ、違う方へ」
声はまだ震えていた。
それでも、さっきまでとは違う。
何もできないわけではない。
そう分かっただけで、胸を締めつけていた恐怖がほんの少しだけ緩んだ。
ボガードは数秒黙ったあと、低く笑う。
「……ハッ。そういうことかよ」
そして、再び走った。
今度は足元を警戒している。当然だ。同じ手は簡単には通らない。
横から迫った拳に対し、フィーネは腕力そのものを止めようとはしなかった。
拳から肘へ、肩へ。そして踏み込んでいる左足へ。
一瞬の中で、ボガードの身体を流れる力を見る。
結界が今度は肘を薄く包んだ。
下へ。
ほんの少しだけ。
拳の軌道が沈む。
ボガードが強引に姿勢を戻そうとした瞬間、今度は左足を反対方向へ流した。
「ぐっ――!」
上半身と下半身の向きがずれる。
踏ん張ろうとした力まで、自分自身の巨体を崩す力へ変わった。
ボガードは地面へ肩を叩きつけ、そのまま数回転する。石畳には長い亀裂が走った。
「……っ」
フィーネは杖を握ったまま息を吐いた。
また、できた。
今度は偶然ではない。
ボガード自身の力を、自分は確かに利用した。
瓦礫の中から起き上がったボガードの額には、薄く血が滲んでいた。
効いている。
わずかではある。
でも、自分の戦い方で、あの男に傷をつけた。
それからの攻防は、少しずつ変わっていった。
ボガードが踏み込めば足元を流す。大きく拳を振れば、腕の軌道を僅かに外す。一度は建物の柱へ肩から突っ込ませ、別の一撃では自身の拳を地面へ叩き込ませた。
もちろん、簡単ではない。
判断が少し遅れれば拳が頬のすぐ横を通り、風圧だけで身体がぐらつく。ボガードも同じ失敗を繰り返さず、足を狙われれば歩幅を変え、腕を流されれば途中で拳を引いた。
フィーネの魔力も確実に減っている。
それでも、先ほどまで震えていた身体が、不思議と少しずつ軽くなっていった。
怖くなくなったわけではない。
拳が迫るたび、心臓は大きく跳ねる。
当たれば終わる。
それも分かっている。
なのに。
――見える。
この人が、どこへ力を入れているのか。
どこから、どこへ動こうとしているのか。
全部を止めなくていい。
大きな力だからこそ、その向きをほんの少し変えるだけでいい。
フィーネは荒い息を整えた。
もしかしたら。
本当に、もしかしたら。
自分でも――戦えるのかもしれない。
その小さな希望に呼応するように、杖を握る手から震えが消えていった。
◇
ボガードが足を止めた。
肩には石の粉。腕には細かな擦り傷。額から流れた血が、頬まで一本の線を作っている。
フィーネも動かなかった。
息を整えながら、次の動きを待つ。
しばらくして。
「……なるほどな」
ボガードが言った。
「俺の力を止めてるわけじゃねぇ」
自分の拳を見る。
「俺が出した力を、勝手に別のところへ持っていきやがる」
フィーネは杖を構えたまま、小さく頷いた。
「止められませんから」
「だろうな」
ボガードは笑った。
だが、もう馬鹿にした笑いではない。
「正直、ナメてたぜ」
フィーネの瞳が僅かに揺れる。
「治すしか能のねぇ女だと思ってた」
「……」
「だが、お前」
ボガードは口元を吊り上げた。
「ちゃんと戦えるじゃねぇか」
フィーネは一瞬、どう答えればいいのか迷った。
敵だ。
しかも、自分を殺すと言っている男だ。
それでも、褒められたことに反射的に。
「……ありがとうございます」
と言ってしまった。
沈黙。
ボガードが目を瞬く。
そして次の瞬間、腹を抱えるように笑い出した。
「ハハハハハッ!」
フィーネは困ったように眉を下げる。
「……何がおかしいんですか」
「殺すって言ってる奴に礼を言われたのは初めてだ」
「……」
確かに少し変だったかもしれない。
ボガードは笑いながら首を振る。
「気に入ったぜ、お前」
やがて笑いが止まった。
「だからよ」
声の質が変わる。
フィーネは無意識に杖を握り直した。
「こっちも、ちゃんとやってやる」
その瞬間。
空気が変わった。
「……え?」
ボガードの身体から、何かが溢れ始める。
炎ではない。
風でもない。
魔法とも少し違う。
それでも、目の前にいるだけで肌がひりつくほどの巨大な力だった。
ボガードを中心に空気が震え、足元の小石が細かく跳ね始める。フィーネの髪が、風もないのに持ち上がった。
さっきまで戻りかけていた血の気が、再び顔から失われていく。
「……そんな」
知っている。
同じものではない。
それでも、身体が思い出してしまった。
あの竜を。
自分たちがどうすることもできなかった、巨大な存在を前にした時の感覚。
生き物一体から放たれていいとは思えないほどの圧力。
ボガードがゆっくり息を吐く。そのたびに、身体の周囲から膨大な魔力らしきオーラが漏れ出していく。
今までとは、まるで違う。
「さっきまでのは遊びだ」
ボガードはそう言って、自分の横にある厚い石壁へ目を向けた。
ベルナードの街では珍しくもない、頑丈な石造りの壁。
「まあ、このくらいか」
軽く腕を振った。
本当に。
ただ軽く。
拳が壁へ触れた。
ドゴォォォォォン!!
フィーネは反射的に顔を庇った。
凄まじい爆風が髪と衣服を叩く。
壁が崩れたのではない。
拳の触れた場所を中心に何メートルもの石材が一気に粉砕され、その向こうの木材まで巻き込んで吹き飛んでいた。
大量の粉塵が通りを覆う。
フィーネは声を失った。
ボガードは拳を一度振る。
まるで、埃を払うだけのように。
「こんなもんだ」
フィーネの指が、また震え始めた。
今のは本気で殴っていない。
ただ、軽く振っただけ。
それで。
あれ。
先ほどまでのように足を数十センチずらす。腕を少し下へ流す。
もう、そんな話ではない。
あの力が少しでも自分へ向けば、逸らしきれなかった余波だけでも。
結界ごと。
自分の身体が消し飛ぶ。
ついさっき胸に生まれた小さな希望が、あまりにも簡単に押し潰されていく。
ボガードがフィーネへ向き直った。
「さあ」
笑う。
「続きをやろうぜ」
一歩、踏み込んだ。
その足元で、石畳が大きく砕ける。
次の瞬間、ボガードの巨体が視界から消えた。
いや。
消えたように見えただけだった。
全力で蹴り出された石畳が後方へ爆ぜ、その反動で巨体そのものが弾丸のようにフィーネへ迫ってくる。
「――っ!」
速い。
さっきまでとは、まるで違う。
フィーネは反射的に足元へ結界を伸ばしかけた。
けれど、できない。
今までなら踏み込む足をほんの少し横へ流せばよかった。腕の軌道を数センチずらせば、それだけでボガード自身の勢いを利用できた。
だが今は。
拳だけではない。
踏み込む脚。捻られた腰。振り抜かれる肩。そして身体中から溢れ出し、周囲の空気まで震わせている膨大な魔力。
すべてが一つになって、自分へ向かってくる。
あまりにも大きすぎた。
少し逸らす。
そんな程度では足りない。
仮に拳だけを外せても、撒き散らされる力の余波だけで結界ごと吹き飛ばされる。
逃げようとしても間に合わない。
止めることもできない。
流すこともできない。
フィーネの身体が強張った。
視界いっぱいに、ボガードの拳が迫る。
――死ぬ。
そう思った。
◇
ベルナード中央部。
抵抗組織の本陣では、ノアが地図を前に次々と入ってくる報告を整理していた。
シドを失ったブラックハウンドは、明らかに情報の統合が遅れている。一方でこちらは、市民から市民へ、そして抵抗組織へと情報が流れ続けていた。
避難経路も少しずつ広がっている。
運び手も戻り始めた。
状況は確実に動いている。
それでも。
ノアは何度目か分からないほど、東地区へ目を向けた。
フィーネからの報告がない。
逃げろとは言った。
戦う必要はないとも言った。
それなのに、胸の奥に妙なざわつきが残っている。
その時だった。
ドゴォォォォォォォォン――!!
凄まじい轟音が、ベルナードの街を揺らした。
本陣にいた全員が顔を上げる。
机の上の小さな器具が震え、壁際から埃がぱらぱらと落ちた。
「何だ、今の……?」
誰かが呟いた。
ノアは答えなかった。
音がした方向を見つめる。
東。
フィーネがいる方角だった。
根拠なんてない。
ただ。
嫌な予感だけが、胸の奥を強く締めつけた。
「……フィーネ」
◇
――数秒前。
ボガードの拳がフィーネへ迫っていた。
もう、考えている時間はない。
フィーネは杖を握った。
怖い。
死にたくない。
ここまで頑張ったのに。
みんなを逃がしたのに。
こんなところで。
――嫌です。
青白い光が生まれた。
ボガードの拳へ、結界が触れる。
今までと同じ。
包む。
フィーネがずっと使ってきた魔法だった。
傷ついた人を守るために。
危険なものから遠ざけるために。
包んで。
押して。
そして今日、初めて。
力の向きを流した。
けれど、今度の力は流せる大きさではない。
拳だけではなかった。
そこから漏れ出す膨大な魔力までが、フィーネを押し潰そうとしている。
青白い結界が、それらすべてを包み込んでいく。
フィーネ自身にも分からなかった。
何か新しい魔法を使おうとしたわけではない。
ただ。
死にたくなかった。
この拳を、自分から遠ざけたかった。
それだけだった。
これまで何度も使ってきた魔法。
何度も守ってきた経験。
石を包んだ。
押した。
人を守った。
ボガードの足を流した。
腕を逸らした。
積み重ねてきたすべてが、生きるか死ぬかの一瞬の中で。
自然に。
その先へ進んだ。
来ないで。
もっと。
遠くへ。
――来ないでください!
ボガードの拳が、真正面から結界へぶち込まれた。
その瞬間。
青白い光が爆発した。
「――なっ!?」
結界は壊れていなかった。
今までのように、力を横へ流してもいない。
真正面から受け止めた力を。
そのまま。
反対側へ弾き返していた。
拳に込められた力。
地面を砕いた踏み込み。
腰から肩へ伝えられた巨体の勢い。
そして、全力解放によって無駄なほど身体の外へ溢れ出していた膨大な魔力。
そのすべてがフィーネの結界に包まれ、逃げ場を失い、一点へ集められる。
ボガード自身へ。
「待――」
ドゴォォォォォォォォン!!!
轟音とともに、ボガードの巨体が吹き飛んだ。
拳を振り抜くはずだった身体が、今度はまったく逆方向へ弾き返される。
石畳へ叩きつけられ、跳ねる。
さらに転がり。
勢いを失わないまま後方の石壁へ激突した。
それでも止まらない。
壁を突き破り、その奥の建物へ。
柱が折れる。
屋根が崩れる。
大量の瓦礫が、ボガードの姿を飲み込んだ。
やがて。
音が止んだ。
「……」
フィーネはその場に立ったまま、動けなかった。
何が起きたのか、自分でも理解できない。
ただ、ボガードがいない。
目の前には崩れた建物だけがある。
待っても。
待っても。
あの巨体は立ち上がってこない。
「……勝った?」
震える声が漏れた。
自分が。
あの人に。
勝った。
そう理解した途端、身体からすべての力が抜けた。
杖が指から滑り落ち、膝が崩れる。
痛みも。
疲労も。
恐怖も。
今まで無理やり押さえ込んでいたものが、一気に戻ってきた。
「……よかった」
地面へ倒れながら、フィーネは最後に逃げていった人たちのことを思った。
みんな。
逃げられたかな。
その答えを確かめる前に、フィーネの意識は途切れた。
◇
「いたぞ!」
東地区へ駆けつけた抵抗組織の男が声を上げる。
「フィーネだ!」
数人が倒れている少女へ駆け寄った。
身体中に傷がある。
呼吸は浅い。
だが。
「息はある!」
「急げ! 担架を!」
別の男が、崩れた建物へ目を向けた。
瓦礫の向こう。
そこにボガードの腕が見えている。
動かない。
「……おい」
男が息を呑んだ。
「まさか……」
仲間も見る。
フィーネ。
ボガード。
もう一度、フィーネ。
「この子が……倒したのか?」
答える者はいなかった。
「今はこっちが先だ! 本陣へ運べ!」
「分かってる!」
すぐにフィーネを担架へ乗せ、持ち上げる。
騒がしい声の中、フィーネがほんの少しだけ目を開いた。
「……ボガード……」
「大丈夫だ」
運んでいる男が答える。
「もう動いてない」
「……」
その言葉を聞いて。
フィーネは微かに笑った。
そして、もう一度目を閉じた。
◇
「フィーネ!」
担架が本陣へ運び込まれた瞬間。
ノアは反射的に立ち上がった。
椅子が大きな音を立てて後ろへ倒れる。
「状態は?」
治療に入った者がすぐに答える。
「全身に打撲と裂傷があります。魔力の消耗もかなり酷い。ただ――」
脈を確認する。
「命に別状はありません」
ノアの肩から、目に見えて力が抜けた。
「……そうか」
その後ろで、抵抗組織の男が声を上げる。
「ボガードを確認しました。戦闘不能です。東地区の封鎖も崩れました!」
大きな戦果だった。
ブラックハウンドの幹部が、また一人倒れた。
だが。
ノアはそちらを見なかった。
担架の横へしゃがみ込む。
「フィーネ」
「……ノアさん」
薄く目を開けたフィーネが彼を見る。
ノアは笑った。
戦況を考えている時の顔ではなかった。
難しい計算も。
次の一手も。
今だけは頭から消えていた。
ただ、無事に帰ってきた仲間を迎える。
そんな優しい顔だった。
「おかえり」
「……はい」
その一言だけで、フィーネの張りつめていた表情が少し緩んだ。
自分の身体を見る。
腕には包帯。服もあちこち破れ、頬にも傷がある。
フィーネは少し恥ずかしそうに笑った。
「治癒術師なのに……こんなに大ケガしちゃって」
弱々しく息を吐く。
「情けないですね……」
「そんなこと――」
ノアが言いかける。
けれど、フィーネはその前に続けた。
「でも……」
ほんの少しだけ。
いつものフィーネより誇らしそうに。
そして、どこか誰かの影響を受けたみたいに。
「私、いっぱい頑張りました……」
ノアは一瞬、何も言わなかった。
それから、とても優しく笑う。
「うん」
フィーネの髪へ、そっと手を置いた。
「本当に、よく頑張った」
フィーネの目が細くなる。
「情けなくなんかないよ」
ノアは続ける。
「フィーネが頑張ってくれたから、助かった人がたくさんいる」
「……はい」
「十分すぎるくらいだ」
フィーネは、少しだけ嬉しそうに笑った。
「……よかった」
その声を最後に、安心したように目を閉じる。
すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。
ノアはしばらく、眠ったフィーネを見ていた。
戦闘要員ではない。
むしろ。
戦わせるつもりなんてなかった。
それでも、逃げる人たちを守るために残り。
あのボガードを倒して、帰ってきた。
ノアはフィーネの頭から手を離す前に、もう一度だけ小さく呟いた。
「……本当によく頑張ったな」
ボガードが倒れたという報せは、東地区だけでなく、ベルナード全体の流れを変え始めていた。
これまでブラックハウンドに押さえられていた道が開く。
荷車が動き、薬が運ばれる。負傷者を乗せた担架も、これまでより短い経路で治療所へ向かっていく。
市民たちも、ようやく自分たちの街を自分たちの足で動かし始めていた。
シドを失い、ブラックハウンドは目と耳を失った。
そして今。
ボガードを失ったことで、人と物の流れまで取り戻されつつある。
だが。
ベルナードを縛っているものは、まだ残っていた。
◇
ベルナード西部。
市街地の中でも、ひときわ魔力の流れが濃い区画だった。
建物の壁の中を走る魔導線。街灯。給水設備。古い術式が刻まれた石柱。
ベルナードの生活を支える魔術設備の多くが、この一帯を通じて繋がっている。
その中心に、一人の男が立っていた。
年齢は四十に届くかどうか。
細身の身体に、戦場には似つかわしくないほど仕立てのいい服。髪には僅かに白いものが混じっている。
疲れたような目をしているくせに、その視線だけは妙に鋭い。
マティアス・クローネ。
ブラックハウンドの魔術を担う男だった。
その正面へ、紫色の大きな三角帽子を揺らしながら一人の少女が歩いてくる。
「ずいぶん趣味の悪いことしてるじゃない」
セラは大杖を肩へ乗せたまま、周囲を見回した。
「街灯も水も、人の暮らしに必要なものまで全部握ってるなんて。魔術師っていうより、鍵をいっぱい持って喜んでる嫌な管理人ね」
マティアスが鼻で笑う。
「セラ・ファルネか」
「あら。私の名前を知ってるの?」
「灰色の翼については聞いている。随分と魔力量の多い半エルフがいるとな」
「それだけ?」
セラは少し不満そうに眉を上げた。
「美人とか、可愛いとか、将来有望とか。もっと重要な情報が抜けてるじゃない」
「自分で補足できるなら問題ないだろう」
「あら。意外と話が分かるのね」
マティアスは面倒そうに息を吐いた。
セラは気にする様子もなく、近くの石柱へ視線を向ける。
そこには複雑な魔術式が刻まれていた。
少し眺めたところで、セラの目つきが変わる。
「……これ、あなたが弄ったの?」
「そうだ」
「へえ」
今度の声には、素直な興味が混じっていた。
セラは石柱へ近づく。
術式同士が干渉しないよう、必要な部分だけが綺麗に整理されている。余計な線がなく、魔力の損失も少ない。
「思ったより、ちゃんとした魔術師なのね」
「お前は人を褒める時まで失礼なんだな」
「嫌いな相手でも上手なものは上手って言えるの。私の長所よ」
「その長所を自分で申告する必要はあるのか?」
「言わないと見落とされるかもしれないでしょう?」
セラは当然のように答え、もう一度術式を見る。
そして、少しだけ首を傾げた。
「この組み方……王都式?」
マティアスの視線が止まる。
「分かるのか」
「分かるわよ。基礎の組み方が違うもの」
セラは細い指で術式の一部を示した。
「地方の魔術師が独学で作った癖じゃないわね」
「……一目でそこまで読むか」
「誰だと思ってるのよ」
得意げに帽子のつばを持ち上げるセラを、マティアスは少しだけ見た。
それから。
「昔、王宮にいた」
と答えた。
セラの瞳が大きくなる。
「王宮?」
「ああ」
「ちょっと待って」
声が弾んだ。
「あなた、もしかして宮廷魔術師だったの?」
マティアスの表情が僅かに変わる。
「……元、だ」
「本当に?」
「こんなことで嘘をついてどうする」
「へえ……」
セラはマティアスをまじまじと眺めた。
「何だ」
「思ってたより凄い人だったのね」
「いちいち余計な一言を足すな」
「だって宮廷魔術師でしょう?」
セラは笑う。
先ほどまでとは少し違う。
純粋に楽しそうな顔だった。
「いいなぁ」
小さな声が漏れる。
マティアスの眉が動いた。
「……いい?」
「ええ」
「宮廷魔術師が?」
「もちろん」
セラは迷わなかった。
「私の夢だもの」
「夢?」
「いつか宮廷魔術師になるの」
セラは杖を両手で持ち直した。
「お城で暮らして、綺麗なドレスを着て、大きな広間で、とびっきり派手で綺麗な魔法を披露するの」
少しだけ空を見上げる。
「子どもが目を丸くして、大人まで思わず立ち上がっちゃうくらいの魔法。みんなが驚いて、感動して、最後には笑ってくれるの」
セラは笑った。
「せっかく魔法が使えるんだもの。敵を倒すためだけじゃなくて、誰かを楽しい気持ちにできたら素敵でしょう?」
少し考えて。
「それで王子様までいたら、かなり完璧ね」
マティアスが鼻で笑った。
「最後の一つで、急に安っぽくなったな」
「あら。一番大事なところよ」
「くだらん」
「夢なんだから、欲張った方が楽しいじゃない」
マティアスは答えなかった。
しばらくセラの顔を見ていた。
そして。
「……城で暮らしたい、か」
低く呟いた。
「外から見れば、よほど綺麗な場所に見えるらしい」
セラが少し首を傾げる。
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
マティアスの口元が、薄く歪んだ。
「城で暮らして、綺麗な服を着て、人々から拍手を浴びる。随分と幸せそうな宮廷魔術師だ」
「素敵でしょう?」
セラはあっさり返す。
マティアスの笑みが深くなった。
「何も知らんというのは幸せだな」
「そう?」
「ああ」
声音に、露骨な毒が混ざる。
「貴族の機嫌を取る。上役の顔色を読む。くだらん命令にも頭を下げる。どれだけ結果を出しても、手柄を持っていくのは別の人間」
淡々と並べていく。
「一度しくじれば、それまでの功績など誰も覚えていない。腕さえあれば評価される? 努力すれば上へ行ける?」
小さく笑った。
「そんな時期が私にもあったよ」
その最後だけ。
笑っていなかった。
「笑顔。感動。拍手」
一つずつ、確かめるように口にする。
やがて。
マティアスは鼻で笑った。
「……反吐が出るな」
セラの唇が、ほんの僅かに閉じた。
杖を握る指先に、一度だけ力が入る。
すぐに、その力は抜けた。
「あの場所で必要なのは、そんな綺麗事じゃない。使えるか。結果を出せるか。誰の邪魔をせずに済むか。それだけだ」
そして、セラを見る。
「お前が夢見ているのは宮廷魔術師じゃない」
口元を歪めた。
「大道芸人だ」
セラは何も言わなかった。
「悪いことは言わん」
マティアスの声音には、親切さなど欠片もない。
「そのくだらない夢を綺麗なまま持っていたいなら、城になど近づかんことだ」
一拍。
「夢が壊れる程度で済めば、まだ幸運だからな」
セラの睫毛が、一度だけ下がった。
ほんの短い沈黙。
そして。
帽子のつばを指先で少し持ち上げる。
「なるほど」
いつもの声だった。
「元宮廷魔術師の話って、やっぱり参考になるわね」
マティアスが僅かに顎を上げる。
「少しは分かったか」
「ええ。とっても」
セラはにこりと笑った。
「特に」
一拍。
「どうしたら宮廷魔術師じゃなくなるのかについては」
マティアスの顔が固まった。
「……何?」
「だってあなた」
セラは首を傾げる。
「“元”なんでしょう?」
「……」
「私はまだこれから」
自分を指差す。
「あなたはもう経験済み」
次にマティアスを指す。
「だったら、なり方は私が自分で調べるから」
少し考える。
「辞めた後、悪党になるまでの失敗例だけ参考にさせてもらおうかしら」
マティアスの眉間に皺が刻まれた。
「……口の減らん小娘だ」
「あら」
セラは肩をすくめる。
「あなたが私の夢を好きじゃないのは、よく分かったわ」
「まだそんなものを夢と呼ぶか」
「もちろん」
即答だった。
「だって」
セラは大杖を肩へ戻す。
「あなたが嫌いになったからって、私まで嫌いになる必要ないでしょう?」
マティアスが黙る。
「それに、お城が本当にそんな酷い場所なら」
セラは口元を上げた。
「私が宮廷魔術師になった時、少しくらい楽しい場所に変えればいいじゃない」
「……」
マティアスの目が細くなる。
「随分と簡単に言う」
「夢なんだから、最初から遠慮してどうするのよ」
「世間知らずだな」
「ええ」
セラは笑う。
「だから、これから知るの」
一拍。
「あなたみたいに、知った結果ぜんぶ嫌いになる予定はないけど」
マティアスの口元から笑みが消えた。
「……何も知らんくせに」
「そうね」
セラはあっさり頷く。
「あなたがそこで何をされたのかも知らない」
マティアスの瞳が僅かに揺れた。
セラは、それ以上踏み込まなかった。
ただ、笑顔のまま。
「でも」
大杖の先をマティアスへ向ける。
「私の知らない昔の話で、今の悪事まで格好よくなるわけじゃないでしょう?」
沈黙。
「だから」
セラは少しだけ首を傾げた。
「昔話の続きは、私に負けた後に一人でお願い」
マティアスの目に、明確な苛立ちが浮かぶ。
「……随分と勝つ気でいるんだな」
「負けるつもりで来るくらいなら、お昼寝してるわよ」
「いいだろう」
マティアスがゆっくりと右手を上げた。
指先に、小さな光が灯る。
「そこまで言うなら、見せてもらおうか」
声から先ほどの感情が引いていく。
代わりに現れたのは、魔術師としての冷たい集中。
「お前が夢を語るだけの小娘なのか」
薄く笑う。
「それとも、少しは中身があるのかをな」
セラの表情も変わった。
大杖を構える。
「いいわよ」
琥珀色の瞳が光を捉える。
「でも一つだけ」
「何だ」
セラが微笑んだ。
「あとで『まだ本気じゃなかった』は禁止ね」
「安心しろ」
マティアスの指先が動く。
「お前に言い訳をする予定はない」
光が消えた。
次の瞬間。
セラの顔のすぐ横を、細い魔力の線が貫いた。
背後の石壁に、小さな穴が開く。
爆発はない。
轟音もない。
ただ、穴の周囲だけが赤く焼けていた。
切れた蜂蜜色の髪が一筋、ゆっくりと地面へ落ちる。
セラは背後の穴へ目を向けた。
次に、落ちた髪。
最後にマティアスを見る。
「……へえ」
琥珀色の瞳が細くなる。
「ずいぶん細かいことするのね」
「これが実戦の魔術だ」
セラの杖先に、同じほど小さな光が生まれた。
マティアスの目が僅かに動く。
「一度見ただけで合わせる気か?」
「違うわよ」
セラは笑う。
光が細く、鋭く収束していく。
「あなたより上手にやるの」
マティアスの目から、ほんの僅かに嘲りが消えた。
二つの小さな魔力が、ほぼ同時に放たれる。
空中でぶつかり、甲高い音を立てて互いを削り取りながら消滅した。
爆発はない。
それでも、マティアスの眉が僅かに動く。
「……合わせたか」
「だから言ったでしょう?」
セラは大杖をくるりと回す。
「あなたより上手にやるって」
「一度見ただけで出力まで読むとはな。随分と嫌な才能をしている」
「あら。褒め方まで性格が悪いのね」
「褒めていると思うか?」
「思ってないから言ってるのよ」
次の瞬間。
マティアスの指先に三つの光が生まれた。
一発目は正面。二発目は僅かに外。三発目だけが遅れて上へ抜ける。
セラは防壁を張らない。
小さな魔力を二つだけ撃ち、正面と二発目を相殺する。最後の一つには薄い魔力の膜だけを置いた。
触れた瞬間、軌道が数センチずれる。
魔力弾は三角帽子の上を通り抜け、後ろの壁へ小さな穴を穿った。
その時にはもう、セラから四つの光が放たれていた。
マティアスは一つを消し、二つ目を逸らし、三つ目を身体を傾けてかわす。
だが四つ目だけが、彼の横を通過した後で大きく弧を描いた。
死角から戻ってくる。
マティアスは振り返らず、背後に小さな防壁を一枚だけ出した。
乾いた音。
魔法が消える。
「発射した後の術式に手を加えたな」
「ええ」
「無駄な手間だ」
「感想まで聞いてないわ」
「効率の悪い女だ」
「几帳面すぎる男も嫌われるわよ」
会話をしながら、二人の魔法は止まらない。
三つ。五つ。六つ。
小さな光が街路を行き交う。
一見すれば、派手さのない戦いだった。
巨大な炎も、雷鳴も、建物を包むような大魔法陣もない。
だが一つ一つは、普通の魔術師なら一度放つだけでも全神経を使うような魔法だ。
相手の魔力量を読み、術式を読み、出力を合わせる。
防御も壁全体を作る必要はない。
攻撃が通過する場所へ、必要な瞬間だけ、必要な厚さを置けばいい。
一発を止めるために十の魔力を使うのではなく。
一で済むなら、一だけ使う。
それを二人は、ほとんど間を置かずに繰り返していた。
マティアスの魔法がセラの右肩を狙う。
セラは着弾点にだけ小さな防壁を作った。
その直前、魔力弾が二つに割れる。
「っ!」
身体を捻る。
一つは防壁へ。
もう一つは頬のすぐ横を通過し、蜂蜜色の髪が数本、熱で縮れた。
「ちょっと」
セラが眉を寄せる。
「女性の顔を狙うなんて最低」
「肩を狙った」
「途中で分けたでしょうが!」
すぐに撃ち返す。
細い一閃。
マティアスがかわす。
その移動先へ二発目。
今度はマティアスが僅かに目を見開いた。
顔を横へ振る。
光が頬を掠めた。
一筋、血が流れる。
マティアスは指で自分の頬に触れ、赤く染まった指先をしばらく眺めた。
「……お前」
「何?」
「二十一だったな」
セラが嫌そうな顔をする。
「今度は年齢?」
「答えろ」
「二十一よ。女性に何度も言わせるものじゃないわ」
マティアスはすぐには返さなかった。
先ほどの魔法をもう一度見るように、セラを見ている。
「……二十一で、そこまでやるのか」
「そうみたいね」
「私がその歳の頃は、今のお前ほど術式を扱えなかった」
セラの眉が僅かに上がる。
「へえ」
「嬉しそうな顔をするな」
「だって元宮廷魔術師から褒められたのよ?」
「褒めてはいない」
「じゃあ、負け惜しみ?」
マティアスの目が鋭くなる。
「……本当に気に入らん女だな」
「それ、さっきも聞いたわ」
「ならもう一度言ってやる」
マティアスの周囲に、また光が浮かぶ。
「気に入らん」
一つ。
二つ。
「何年もかけて身につけた術式を、一度見ただけで理解する」
四つ。
「私が何度も失敗して、ようやく掴んだ制御を」
六つ。
「お前はまるで、最初から出来て当然みたいな顔で使う」
セラの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
マティアスは続ける。
「その上、宮廷魔術師が夢だと?」
「……」
「ふざけた話だ」
口元が歪む。
「才能がある。若い。しかも、何も知らんから夢まで持っていられる」
声に、先ほどまでより明確な棘が混ざった。
「随分と恵まれた人生だな、セラ・ファルネ」
セラは数秒、マティアスを見る。
そして。
「ああ」
小さく声を漏らした。
「何だ」
「そういうこと」
「……何がだ」
セラは大杖を肩へ乗せる。
「あなた」
いつものように。
少し楽しそうに。
「私の夢が嫌いなんじゃないのね」
マティアスの目が細くなる。
「何?」
「私が叶えられそうなのが嫌なのよ」
空気が、一瞬だけ止まった。
「……黙れ」
「あら」
「黙れと言った」
「分かりやすくなったじゃない」
セラは笑う。
「最初は、夢見てるだけの馬鹿な小娘だと思ってたんでしょう?」
「……」
「でも戦ってみたら」
指先で自分を示す。
「思ってたより上手だった」
そして。
「それどころか――」
セラが首を傾げた。
「あなたより、素敵な宮廷魔術師になっちゃうかもしれない」
「黙れッ!」
マティアスの魔力が弾けた。
一発。
セラが即座に相殺する。
「怖い怖い」
「セラ・ファルネ……!」
「でも安心したわ」
「何がだ!」
「あなたにも、ちゃんと分かりやすいところがあるのね」
セラはまだ笑っている。
だが。
次に現れた魔力を見た瞬間、その目だけが変わった。
十。
いや、それ以上。
細かな魔力の光が、マティアスの周囲へ展開している。
怒りに任せて大きな魔法を撃つわけではない。
むしろ逆だった。
一つ一つが、先ほどまで以上に細い。
鋭い。
正確。
感情は荒れているのに、魔法だけは恐ろしく冷静だった。
「……嫌な怒り方するわね」
「何十年、この魔術をやってきたと思う」
マティアスが低く言う。
「腹が立った程度で、腕まで鈍ると思ったか?」
「そうだったら楽だったんだけど」
「残念だったな」
無数の光が一斉に動いた。
◇
速い。
一発目を消す。
二発目を逸らす。
三発目は、着弾点だけを防ぐ。
そこへ四発目が重なった。
「っ!」
防壁が割れる。
五発目は杖先から小さな光を撃って相殺。六発目をかわす。
だが、その移動先を読んでいた七発目が迫る。
セラは身体を反らした。
頬のすぐ前を熱が抜けていく。
八発目。
九発目。
十発目。
見えている。
術式も。
狙いも。
分かる。
それでも。
処理が追いつかない。
「くっ……!」
魔力弾が肩を掠める。
熱い。
次は脇腹。
防ぐ。
さらにもう一つ。
「――っ!」
今度は帽子のつばが切れた。
紫色の布片が宙を舞う。
セラの眉がぴくりと動く。
「……それ」
「何だ」
「お気に入りなんだけど」
「知るか」
「今のはかなり減点よ」
「まだ採点する余裕があるか」
「女性は最後まで余裕があるように見せるものなの」
言葉ではそう返す。
だが、呼吸は少しずつ乱れ始めていた。
できないわけではない。
むしろ、ほとんど分かっている。
マティアスが何をしているのか。
どうすれば防げるのか。
どう返せばいいのか。
分かる。
だからこそ。
合わせてしまう。
一発ずつ。
僅かな魔力を調整する。
一点だけを守る。
一本だけ軌道を変える。
次。
また次。
その次。
細かい。
延々と。
細かい。
セラが攻撃を一つ打ち消す。
その瞬間には、もう次の術式が完成している。
「……ほんっと」
セラが小さく息を吐く。
「嫌いだわ、この戦い方」
「好き嫌いで魔術を語るな」
「好き嫌いくらい言わせてよ」
セラが三発返す。
マティアスは一つを消し、一つを避け、最後の一つには僅かな魔力を横から当てるだけで軌道を変えた。
「魔術は、やりたいことだけやっていれば済むほど甘くない」
「また人生訓?」
「経験談だ」
「だから暗いのよ」
「……減らず口だけは衰えんな」
再び光。
セラが防ぐ。
その裏に、もう一発。
「――!」
脇腹へ。
まともに入った。
「ぁっ……!」
身体が横へ弾かれる。
石畳を転がり、肩と背中を打つ。
それでも、すぐに杖を突いて立ち上がった。
「……痛ったぁ……」
息を吸う。
脇腹がずきりと痛んだ。
今までの掠り傷とは違う。
はっきり。
当てられた。
マティアスは追撃せず、セラを見ていた。
「……腹立たしいな」
「まだ言ってるの?」
「言うとも」
マティアスの口元に乾いた笑みが浮かぶ。
「この歳になって、二十一の小娘を見て、自分に足りなかったものをわざわざ数え直す羽目になるとは思わなかった」
セラが少しだけ目を細めた。
「そんなに私が羨ましい?」
マティアスの笑みが消える。
「……調子に乗るな」
「違う?」
「違う」
即答。
だが。
少しだけ、早すぎる答えだった。
セラの口元が上がる。
「ふーん」
「その顔をやめろ」
「何も言ってないわよ?」
「だから腹が立つんだ」
マティアスが手を上げる。
再び、光が増える。
「だがな」
一つ。
「勘違いするな」
三つ。
「才能があることと」
五つ。
「勝てることは別だ」
十。
「お前が二十一で私より優れていたとしても」
マティアスの声が低くなる。
「こっちは、お前が生きてきた時間より長く魔術を使っている」
セラは杖を構えた。
「随分と大人げない自慢ね」
「大人というのはな」
マティアスが薄く笑う。
「若者に気持ちよく負けてやるほど、親切じゃないんだよ」
一斉に。
放たれる。
セラが迎え撃つ。
一つ。
二つ。
三つ。
速い。
四つ目を消す。
五つ目を逸らす。
六つ目を防ぐ。
七つ目が、そこへ重なる。
「っ……!」
防壁が砕けた。
八つ目。
肩を掠める。
九つ目。
避ける。
そして。
十発目。
ほんの一瞬。
判断が遅れた。
「――あっ!」
魔力が、セラの左肩へ直撃した。
鈍い衝撃。
身体が大きく弾かれ、背中から石畳へ叩きつけられる。
「――っ、ぅ……!」
杖が手から離れた。
地面を転がり、少し離れた場所で止まる。
セラはすぐに起き上がろうとした。
片腕をつく。
「っ……」
力が抜けた。
もう一度。
今度は膝まで起こす。
息がうまく吸えない。
肩が熱い。
脇腹も痛む。
背中までじんじんしている。
マティアスは、その様子を黙って見ていた。
やがて。
「認めよう」
静かに言った。
セラが顔を上げる。
「お前は天才だ」
今度は皮肉ではなかった。
「二十一でそこまで出来る魔術師を、私はほとんど知らん」
短い沈黙。
そして。
マティアスは少し嫌そうに顔を歪めた。
「……本当に、気に入らんな」
「褒めるなら……最後まで気持ちよく褒めなさいよ……」
セラがどうにか杖へ手を伸ばす。
指先が届く。
握る。
それを支えに、ゆっくり立ち上がった。
マティアスの周囲には、まだ複数の光が残っている。
呼吸も、自分ほど乱れていない。
魔力もまだある。
対して自分は。
頬に傷。
肩に火傷。
脇腹にもまともな一撃。
お気に入りの帽子まで切られた。
セラは帽子のつばを指先で整える。
それから、マティアスを見る。
いつものように。
少しだけ、笑ってみせた。
「……ヤバいわね」
声は僅かに掠れていた。
一度、息を整えようとする。
けれど、うまくいかない。
それでも笑みは消さない。
「これ……」
杖を握る指先が、ほんの僅かに震える。
「今回は本当に」
額を、一筋の汗が流れた。
セラが困ったように、ほんの少しだけ笑う。
「ピンチってやつじゃない……?」
今回の異世界マーケティングは、『レバレッジ』です。
レバレッジとは、本来は「てこの力」を意味する言葉です。
ビジネスでは、自分が持っている資源だけで成果を出そうとするのではなく、他者の力や仕組み、設備、ネットワークなどを利用することで、自分以上の大きな成果を生み出す考え方として使われます。
今回、それを最も分かりやすく実践したのがフィーネでした。
ボガードの力は、フィーネより遥かに上です。
真正面から、
「相手の力を自分の力で止める」
という勝負をすれば、勝ち目はありません。
そこでフィーネが使ったのは、
「止める」ではなく、
「利用する」
という考え方でした。
ボガードが強く踏み込む。
その足をほんの少し流す。
巨大な拳を振るう。
その軌道をほんの少し変える。
フィーネ自身がボガードの巨体を動かせるほどの力を出しているわけではありません。
ほんの小さな働きかけによって、
ボガード自身が生み出した力を、別の結果へ変えているのです。
そして最後。
ボガードは全力を解放しました。
拳の力。
踏み込みの力。
身体から溢れ出すほどの膨大な魔力。
本来ならば、それはフィーネにとって絶望そのものでした。
ところが、極限状態の中でフィーネの結界魔法は一つ先へ進みます。
包む。
流す。
遠ざける。
それまで積み重ねてきた経験が、
「反発」
という形へ進化しました。
フィーネが最後にボガードへ返したのは、自分自身の攻撃力だけではありません。
ボガードが自分で生み出した圧倒的な力まで含めて、一点へ返しています。
つまり、
「相手が強いから勝てない」
ではなく、
「相手が強いからこそ、その力を利用できないか」
という発想です。
これはビジネスでも同じです。
小さな会社が、大企業と同じ人数を抱える必要はありません。
物流を外部へ任せる。
販売プラットフォームを使う。
専門家と組む。
既にある設備を借りる。
他社の販売網へ乗る。
既存顧客から紹介をもらう。
自分ですべてを持たなくても、
既に存在している力を上手く利用できれば、大きな成果を生み出せます。
重要なのは、
「自分には何が足りないか」
だけを見ることではありません。
「今、この場にある力の中で、使えるものは何か」
を見ることです。
そして。
今回の後半では、もう一つ対照的な戦いが始まりました。
セラは非常に大きな魔力と、高い魔術技術を持っています。
しかしマティアスとの戦いでは、相手の得意とする精密で効率的な魔術戦へ付き合っています。
セラには、それができる。
だからこそ、元宮廷魔術師のマティアスですら、その才能を認めました。
ですが。
「できること」と、
「自分の強みを最大限に活かしていること」は、
同じではありません。
フィーネは、自分にはない大きな力まで利用して勝ちました。
一方のセラは、
自分が持っている最大の力を、まだ使えていません。
持っていないものをどう利用するのか。
持っているものをどう活かすのか。
どちらもまた、
限られた資源から最大の成果を生み出す、
レバレッジの考え方につながっています。
そして今。
そのセラは、
自ら「本当にピンチ」と認めるところまで追い込まれました。
彼女が持つ最大の資源を、
このまま眠らせたまま終わるのか。
それとも――。
次回。
セラVSマティアス、決着です。




