第十二話 絶望の三分間 ――フィーネVSボガード――
短剣が、ガルドの喉へ迫る。
避けられない。
少なくとも、ほんの一瞬前までのガルドなら。
シドの右肩が沈む。肘が伸び、手首が返る。
刃先が、自分の喉へ向く。
見えた。
いや。
それだけではない。
次に右足へ体重を乗せることも、刃を避ければ左手の短剣が脇腹へ来ることも。
なぜか、分かった。
ガルドは首を傾ける。
短剣が喉の皮膚すれすれを通り過ぎた。
シドの目が見開かれる。
予想通り、左の刃。
ガルドは身体を半歩だけ後ろへずらし、服を掠める刃を避ける。そのまま弓を持った左腕を上げ、至近距離からシドの腕へ叩きつけた。
乾いた音。
ほんの僅かに、シドの姿勢が崩れる。
ガルドは屋根を蹴った。
二歩。
三歩。
距離。
矢をつがえ、弦を引く。
放つ。
「っ!」
シドが短剣で矢を弾いた。
屋根へ突き刺さった矢を挟み、二人の間に再び距離が生まれる。
シドは動かなかった。
ガルドも弓を構えたまま、相手を見る。
先に口を開いたのはシドだった。
「……今、何をした?」
ガルドは答えない。
自分にも分からなかった。
ただ、聞こえる。
シドの呼吸。
浅い。だが乱れてはいない。
見える。
右肩の外套についた傷。左右の短剣。瓦の上に置かれた足。
ほんの僅かに、右足の踵が浮く。
来る。
ガルドが矢を放った。
同時にシドも動く。
「!」
矢は、シドが踏み出そうとしていた場所を通過した。
無理に身体を止めたシドへ二射目。逃げた先へさらに三射目を重ねる。
短剣が矢を弾いた。
金属音。
だが、さっきまでとは違う。
シドがガルドの射撃を見て動いているのではない。
ガルドが。
シドの動き始めに合わせて撃っている。
「……へえ」
シドがゆっくり笑った。
「そういう目もできるのか」
ガルドは何も言わない。
「急に速くなったわけじゃない。腕力も変わってない」
シドが一歩動けば、ガルドの照準もそこへ向く。
もう一歩。
また矢先が追う。
「なのに、さっきから俺が動く前に矢が来る」
ガルドの耳が僅かに動いた。
シドの口元がさらに上がる。
「見えてるのか?」
返事はない。
「いや。違うな」
シドは自分の右手を見て、肩を回し、足をずらした。
「見てからじゃ間に合わない」
金色の瞳が、その全身を捉えている。
「肩。足。呼吸」
短剣を軽く振る。
「……動く前の癖まで拾ってやがる」
その言葉で、ガルド自身も初めて自分に起きていることを理解し始めた。
シドが息を吐く。
「いいな」
短剣を逆手に持ち替えた。
「その目」
笑う。
「やってみろ」
腰を落とす。
「そういう顔されると、本当にやりたくなるだろ」
踏み込む。
速い。
だが、見える。
右足。肩。視線。刃。
ガルドが矢を放つ。
シドは身をかわし、二射目を潜り、三射目を短剣で弾きながら距離を詰めてくる。
ナイフはない。
さっき弾かれたままだ。
それでも、右手の短剣を弓で逸らし、左の刃を沈んでかわす。続く肘も身体をずらして避け、一歩だけ距離を作った。
弓へ矢をつがえる。
浅く引く。
シドの目が動いた。
撃たれる前に左へ逃げる。
だが。
そこだった。
ガルドの矢は、最初から左へ向いていた。
「な――」
シドが無理に身体を捻る。
完全には避けきれない。
矢が脇腹を掠め、黒い服が裂けた。
血。
シドが数歩離れて止まる。
ガルドは弓を構えたまま静かに言った。
「避ける場所も分かる」
シドは傷に触れ、赤く染まった指先を見て笑った。
「……最高だな」
「何がだ」
「獲物だよ」
顔を上げる。
その笑みには、もう余裕だけではない。
純粋な愉悦が混ざっていた。
「逃げるだけの奴より、殺せると思った奴より」
短剣を一度回す。
「途中で牙を生やす奴の方が、ずっと殺し甲斐がある」
ガルドが弓を引く。
「悪趣味だな」
「今さらだろ?」
シドが笑う。
「俺を何だと思ってたんだ」
「人殺し」
「正解」
次の瞬間。
シドが消えた。
正確には、ガルドの視界から消えただけだ。
右から足音。
矢を向ける。
いない。
左。
違う。
上から瓦が落ちた。
顔を上げた瞬間、短剣が飛んでくる。
弓で弾く。
その隙に、今度は屋根の下からシドが飛び出した。
「!」
身体を捻ったガルドの肩を、刃が浅く掠める。
シドは追わない。
代わりに足元の瓦を蹴った。
何枚もの瓦が宙を舞い、割れる。
音。
影。
破片。
その向こうにシド。
全部が、一気に入ってくる。
「見えすぎるのも」
シドの声。
「大変だろ?」
短剣を避けた頬へ、瓦の破片が当たった。
「っ」
さらに別の音。
シドの足。
短剣。
風。
遠くの鐘。
人の叫び。
街の足音。
鳥の羽ばたき。
さっきまでシドだけだった世界へ、情報が一気に戻ってきた。
「……っ」
ガルドの眉間に皺が寄る。
頭が熱い。
シドはそれを見て笑った。
「やっぱりな」
足元の小石を蹴る。
ガルドの耳が反応する。
「便利なもんに見えたが、全部拾っちまうなら」
今度は短剣を屋根へ投げた。
からん、と金属音。
目が一瞬そちらへ動く。
「増やしてやればいい」
踏み込んできたシドへ、ガルドは矢を放った。
外れた。
今の状態に入ってから初めて、明確に読みを外す。
シドが笑う。
「ほら」
短剣がガルドの肩を浅く裂いた。
「戻ってきた」
もう一撃を避けながら、ガルドは下がる。
「四日前の、殺しやすいお前に」
違う。
戻ってはいない。
まだ見えている。
聞こえている。
匂っている。
ただ。
多すぎる。
何を見る。
何を捨てる。
その区別ができていない。
瓦が割れる音。
その向こうから短剣。
辛うじて避けた頬へ、新しい傷が走った。
「いい顔になってきたな」
シドが楽しそうに笑う。
ガルドは答えず、呼吸を整えた。
全部を見る必要はない。
鳥。
いらない。
市場。
いらない。
鐘。
いらない。
瓦礫。
――必要な時だけ。
そして。
目の前の男。
必要。
ガルドの瞳が再びシドへ向く。
だが、さっきのように世界そのものは消えない。
心臓は速い。
息は熱い。
額から汗も落ちる。
この状態をどう使うのか。
まだ、分からない。
「どうした?」
シドが短剣を構える。
「せっかく面白くなってきたんだ。もう少し楽しませろよ」
ガルドは静かに矢をつがえた。
「……うるさい」
シドが笑う。
「そういうのは、俺を殺してから言え」
二人が同時に屋根を蹴った。
シドは短剣を一本、ガルドではなく横の古い煙突へ投げた。
甲高い金属音。
弾かれた短剣が屋根を跳ね、同時に蹴られた瓦が砕け散る。
破片。
音。
影。
さらに屋根の端にいた鳥まで一斉に飛び立った。
「さあ」
シドが瓦の陰へ身体を沈める。
「どれを見ればいい?」
ガルドは矢をつがえた。
鳥。
いらない。
瓦。
今は、いらない。
落ちた短剣。
いらない。
風。
必要。
シド。
必要。
ガルドは。
目を閉じた。
「……?」
シドの笑みが僅かに消える。
見るものが多すぎるなら。
全部を見る必要はない。
森でも同じだ。
木々が揺れる。虫が鳴く。鳥が飛ぶ。水が流れる。
そのすべてを追いかけていたら、獲物など狩れない。
必要なのは。
どれが獲物の音なのか。
それだけだ。
ガルドの耳が動く。
瓦を踏む音。
一つ。
違う。風に揺れただけ。
もう一つ。
違う。落ちた破片。
そして。
僅かな革靴と瓦の擦れる音。
右。
ガルドが目を開いた。
放つ。
「っ!」
煙突の陰から飛び出したシドが身体を反らした。
矢が頬を切る。
着地したシドが指先で傷へ触れた。
「……そう来るか」
ガルドは答えない。
さっきまで聞こえていたものが消えたわけではない。
ただ。
捨てられる。
必要ではないものを、自分から。
シドが舌打ちした。
「気に入らねぇな」
「何がだ」
「その顔だよ」
もう笑っていない。
「さっきまで必死だった獲物が、急に俺の動きを分かったような目で見てやがる」
ガルドは弓を向ける。
「実際、少し分かる」
数秒。
シドの口元が再び歪んだ。
「いいな」
今度は、本当に楽しそうだった。
「だったら、その余裕が消えるところまでやろうぜ」
シドが走る。
もうガルドは、すべてを追わなかった。
煙突。段差。屋根の傾斜。散る瓦。
見るのはシドの肩、足、腰、視線。
何を見ている。
どこへ行きたい。
それだけ。
矢を放つ。
シドが止まり、進路を変える。
さらに先へ撃つ。
「チッ……!」
身体を捻った左腕を矢が掠め、血が飛んだ。
それでもシドは止まらない。
「面白ぇ!」
声を上げて笑う。
「やっぱり殺すなら、こういう奴じゃねえとな!」
一気に距離を詰める。
ガルドが弓を背へ回した。
右の短剣を避け、左を弓で流す。肘を沈んでかわした直後、シドの蹴りが腹へ入った。
「ぐっ……!」
身体が屋根を転がる。
集中していても、身体が強くなったわけではない。
傷も疲労も消えていない。
ガルドが起き上がるより先に、シドが迫った。
「見えてても、身体が追いつかなきゃ意味ねぇよなぁ!」
短剣をかわす。
もう一本が袖を裂く。
蹴りは腕で受けた。
骨まで響く重さ。
一歩下がれば、シドがその分だけ詰める。
近い。
弓が使えない。
四日前と同じ距離。
シドも、それを分かっている。
「結局ここだ」
ガルドの目を見て笑う。
「どれだけ見えるようになっても、俺がこの距離まで入れば、お前は弱い」
ガルドは呼吸を整えた。
「……そうだな」
シドが眉を上げる。
「認めるのか?」
「ああ」
ガルドは弓へ手を掛けた。
「だから」
矢をつがえる。
「ここで勝つ必要はない」
シドの表情が変わる。
ガルドが浅く弦を引いた。
「それか!」
シドはもう知っている。
威力の弱い至近距離射撃。
相手を避けさせ、距離を作るための矢。
撃たれる前から右へ踏み出す。
「もう見たって言っただろ!」
ガルドが放つ。
矢は、シドの左側を通った。
最初から当てる気がない。
「……?」
シドの右足が、ガルドの予想した場所へ着く。
その瞬間。
ガルドは後ろへ逃げなかった。
逆に。
一歩、踏み込んだ。
「な――」
弓を横へ振る。
その端が、短剣を持つシドの手首へ叩き込まれた。
「っ!」
刃先が逸れる。
ガルドはその横を抜けた。
一歩。
二歩。
シドが振り返る。
ガルドも振り返る。
まだ距離は十分ではない。
だから。
もう一本。
浅く引く。
「同じ手を――!」
放つ。
シドは避けた。
左。
ガルドが見ている。
避けた先。
そこへ今度は。
深く。
弦を引く。
シドの顔から笑みが消えた。
「……っ」
間に合わない。
弦が鳴る。
矢が走った。
シドは身体を捻る。
それでも。
完全には避けられない。
矢が右肩を貫いた。
「ぐっ……!」
衝撃で身体が回り、短剣が一つ屋根へ落ちる。
だが、ガルドはもう次の矢をつがえていた。
「てめぇ……」
シドは肩に刺さった矢を折る。
血が流れる。
それでも笑った。
「いいぞ。それで終わりだと思うなよ」
残った短剣を握る。
「片腕だろうが、腹を裂けば同じだ。最後に立ってる奴が――」
ガルドが矢を向ける。
シドが止まった。
狙いは胸。
その瞬間、シドの視線がほんの僅かに左へ動く。
逃げる場所。
ガルドには見えた。
そしてシドも。
それを見られたことに気づいた。
一瞬。
二人の視線が合う。
「……なるほどな」
シドが小さく笑った。
今度の笑みには、悔しさと妙な納得が混ざっている。
「全部、見えてんのか」
ガルドは首を振った。
「全部じゃない」
弓をさらに引く。
「必要なものだけだ」
「……気に入らねぇ答えだ」
次の瞬間。
シドが走った。
ガルドが放つ。
予想通り、シドは身を翻した。
一射目。
外れる。
だが。
ガルドはもう、二本目をつがえていた。
シドが避けた。
その先。
そこへ。
矢。
「――っ!」
胸元へ深く突き刺さる。
シドの身体が止まった。
短剣が手から落ちる。
一歩。
二歩。
屋根の端まで後退しても、シドは倒れなかった。
胸の矢を見る。
それからガルドを見る。
「……二本目まで、読んでたのか」
ガルドは弓を下ろさない。
「お前なら避ける」
「……ハッ」
シドは血を吐きながら笑った。
「俺が対応するところまで……使ったってわけか」
ガルドは答えない。
シドの膝が落ちる。
それでも最後まで、口元には笑みが残っていた。
「次に会ったら……」
「ない」
ガルドが言った。
シドが顔を上げる。
金色の目が、まっすぐシドを見ていた。
「ここで終わりだ」
数秒。
シドは何かを言おうとして。
やめた。
「……そうかよ」
身体が傾く。
屋根へ倒れた。
動かない。
ガルドはしばらく弓を構えたままだった。
一秒。
二秒。
三秒。
シドが動かないことを確認して、ようやく息を吐く。
その瞬間。
世界が戻ってきた。
鐘。
人の声。
荷車。
鳥。
風。
一気に。
「……っ」
ガルドが片膝をついた。
頭痛。
耳鳴り。
吐き気。
全身から急に力が抜ける。
「……何だ、これ」
自分の手を見る。
震えている。
さっきまで、何もかもがあれほど明確だった。
シドが次に何をするか。
どこへ動くか。
何を狙っているか。
分かった。
今はもう、分からない。
意識して耳を澄ませる。
風。
声。
鐘。
全部、普通だ。
「……」
ガルドは倒れたシドを見る。
勝った。
それだけは間違いない。
だが。
どうやって、あの状態になったのか。
もう一度できるのか。
分からなかった。
遠くから足音。
狼耳が動く。
「ガルド!」
旧衛兵の男が屋根へ上がってきた。
倒れたシドを見て、言葉を失う。
「……お前」
ガルドを見る。
「やったのか?」
「ああ」
「シドを……?」
ガルドはゆっくり立ち上がる。
身体中が痛い。
「他は」
「え?」
「監視網だ」
旧衛兵が我に返った。
「順調だ。さっき北側の連絡所も落とした」
「なら行け」
「お前は?」
ガルドは自分の傷を見る。
立てる。
弓も持てる。
「まだ終わってない」
旧衛兵は一瞬呆れた顔をして。
笑った。
「ああ」
◇
屋根の下では、すでに新しい情報が次の人間へ渡っていた。
シド・ノックス。
ブラックハウンドの目と耳を束ねていた男は、もういない。
だがベルナードには。
無数の目と耳が残っている。
シドが倒れたことは、まだベルナード中に知られてはいない。
それでも。
変化はすぐに現れた。
◇
「北二区、返事なし!」
ブラックハウンドの男が叫ぶ。
「西側はどうした!」
「分かりません!」
「分からないって何だ!」
「連絡役が戻ってこないんです!」
さらに別の男が駆け込んでくる。
「南通りの監視所も消えました!」
「またか!?」
怒鳴り声。
足音。
命令。
だが、誰も全体を把握していない。
これまでは違った。
一つ監視所が消えれば、シドが次にどこを見るかを決めた。
報告が途切れれば、どの経路を疑うかを決めた。
偽情報を流すのか。
人員を増やすのか。
逆に、わざと空けるのか。
それを決める人間が、もういない。
「とにかく人を出せ!」
「どこへ!?」
「全部だ!」
「全部ってどこだよ!」
命令が重なる。
食い違う。
その間にも。
街は見ていた。
◇
「三人、南へ移動」
八百屋の主人が言った。
客の女が野菜を一つ取る。
「今日は高いね」
「仕方ないさ」
会話はそれだけ。
その情報は、路地の少年へ。
少年から荷運びへ。
荷運びから旧衛兵へ。
「南から三人」
「なら東が空く」
「行くぞ」
誰か一人がすべてを知っているわけではない。
それでも。
必要な情報だけは、必要な場所へ届く。
悲鳴もなく、また一人。
ブラックハウンドの監視役が消えた。
次。
また一人。
これまで街を見張っていた側が。
今は。
自分たちがどこから見られているのか分からない。
◇
「……速くなったな」
仕立屋の二階。
ダリオが地図を見ながら呟いた。
黒い印が目に見えて減っている。
俺は新しく届いた紙を読んだ。
「シドがいない」
ダリオが顔を上げる。
「分かるのか?」
「たぶん」
地図上のブラックハウンドの動きを見る。
これまでは崩れた場所があれば、すぐ別の人間が埋めていた。
今は違う。
人は動いている。
だが、ばらばらだ。
「ガルドがやったのか」
「まだ報告はない」
それでも可能性は高い。
嬉しい。
そう思う。
だが。
喜ぶのはまだ早い。
俺の目は、別の印へ移った。
ボガード。
マティアス。
カイン。
ザハーク。
ブラックハウンドの幹部は、まだ残っている。
「情報網が崩れたら」
俺は言った。
「次は力で押してくる」
ダリオが眉を寄せる。
「誰が来る」
地図の一ヶ所を指した。
「一番面倒なのは」
少しだけ。
嫌な予感がした。
「ボガードです」
◇
東地区。
フィーネは怪我人の腕へ布を巻いていた。
「これで大丈夫です」
「ありがとう」
「走れますか?」
「何とか」
「無理なら荷車に乗ってください」
少し離れたところでは、ミリアが人々を誘導している。
「こっち! 教会まで行けば大丈夫!」
老人。子供。負傷した男。荷物を抱えた女。
戦闘員ではない。
ただ、ここで暮らしていた人たちだ。
フィーネは次の怪我人へ向き直る。
「どこを痛めました?」
「足だ」
「見せてください」
治す。
立たせる。
次へ送る。
また治す。
それが、自分の仕事だった。
ノアに言われた。
戦わなくていい。
治療と避難。
それだけでも十分重要だと。
フィーネは、その言葉を何度も思い出していた。
「フィーネ!」
ミリアが呼ぶ。
「西側の人たちも来るって!」
「何人くらいですか?」
「二十人くらい!」
「分かりました!」
立ち上がる。
「荷車をもう一台、こっちへお願いします!」
近くにいた男が頷いた。
「分かった!」
その時だった。
遠くで、何かが砕ける音がした。
ドン。
フィーネが顔を上げる。
「……?」
もう一度。
今度は近い。
ドゴン。
周囲の人々も足を止めた。
「何の音……?」
ミリアが呟く。
足音ではない。
剣でもない。
魔法でも――たぶん、ない。
さらに一度。
ドゴォン!
今度は建物そのものが揺れ、壁から細かな埃が落ちた。
「みんな!」
フィーネは声を上げた。
自分でも驚くほど大きな声だった。
「止まらないでください! 教会へ! そのまま進んでください!」
人々が再び動き始める。
ミリアが不安そうにフィーネを見る。
「何か来るの?」
「分かりません」
そう答えながら。
分かっていた。
こんな進み方をする人間を、一人だけ聞いている。
――壁を壁として数えない。
ノアの言葉。
フィーネの顔から血の気が引いた。
「……まさか」
次の瞬間。
目の前の建物の壁が、内側から膨らんだ。
「え?」
轟音。
石と木材が粉塵とともに吹き飛ぶ。
「きゃああっ!」
悲鳴。
フィーネは咄嗟に杖を振った。
青白い結界が広がり、飛んできた瓦礫を受け止める。
「……っ!」
重い。
それでも、人のいない方向へ流して落とす。
粉塵の向こう。
大きな影が現れた。
一歩。
瓦礫を踏み砕く。
二歩。
フィーネの手が震えた。
聞いていた以上に、大きく見える。
太い腕。分厚い胸。拳には砕けた石の粉。
ボガード。
男は避難する市民、荷車、そして杖を構えるフィーネを順に見た。
「……いたな」
低い声。
フィーネの喉が鳴った。
「逃げ回りやがって」
ボガードは首を鳴らす。
「面倒くせぇ連中だ」
フィーネは一歩、後ろへ下がった。
逃げる。
ノアの言葉が蘇る。
――ボガードを見つけたら、まず逃げてくれ。
逃げるべきだ。
戦わない。
自分は、戦闘要員ではない。
「フィーネ!」
ミリアの声。
振り返る。
まだ、いる。
老人。
足を怪我した男。
小さな子供。
荷車へ乗せようとしている人。
全員、逃げ切っていない。
ボガードがそちらを見る。
「邪魔だな」
一歩。
進んだ。
フィーネの身体が、勝手に動いた。
ボガードと市民の間へ入る。
「……」
怖い。
足が震える。
ボガードがフィーネを見る。
「どけ」
杖を握る。
返事が出ない。
「聞こえなかったのか?」
また一歩。
「どけ」
背中の向こうから、避難を手伝っていた男が叫んだ。
「フィーネ! 逃げろ!」
逃げたい。
本当に。
逃げたい。
フィーネは後ろを見た。
「あと……」
声が震える。
「あと、どれくらいですか?」
「何がだ!」
「みんなが……逃げるまでです!」
男が周囲を見る。
歩けない人。
荷車。
細い道。
「……三分!」
フィーネは目を閉じた。
三分。
長い。
ボガードを前にしたら、きっとものすごく長い。
それでも。
三分なら。
三分だけなら。
終わりがある。
ゆっくり目を開き、ボガードを見る。
もう涙が浮かびかけていた。
それでも、逃げなかった。
「……三分」
ボガードが眉を寄せる。
フィーネは杖を両手で握った。
「三分だけです」
青白い光が前へ広がる。
声は、まだ震えている。
「三分だけ……」
息を吸った。
「ここを、通しません」
数秒。
ボガードは黙っていた。
それから鼻で笑う。
「お前が?」
細い腕。
震える脚。
その前に広がる結界。
全部を見て。
「治癒術師が」
拳を握った。
「俺を止めるって?」
フィーネは答えられない。
ボガードが肩を回す。
「いいぜ」
一歩。
石畳が軋む。
「だったら」
もう一歩。
巨大な拳を引く。
「止めてみろ」
次の瞬間。
拳が振り抜かれた。
青白い結界と激突する。
一瞬だけ。
光は耐えた。
「……っ!」
両腕へ凄まじい衝撃が走る。
そして。
バキィン!!
結界が砕けた。
「きゃっ――!」
フィーネの身体が吹き飛び、石畳を転がる。
杖が手から離れそうになる。
必死に握った。
「フィーネ!」
後ろから声がする。
咳き込みながら顔を上げた。
ボガードは、ほとんど動いていない。
拳を一度振っただけ。
それだけで、自分の結界が壊された。
「……そんな」
ボガードが首を傾げる。
「何だ」
一歩。
「もう終わりか?」
重い足音。
フィーネは杖を支えに立ち上がった。
駄目。
正面から受けたら。
次は、もっとひどい。
後ろではまだ避難が続いている。
老人を支える人。怪我人を荷車へ乗せる人。子供の手を引いて走る人。
急いでいる。
それでも、まだ全員は逃げ切っていない。
フィーネは周囲を見る。
道。
荷車。
木箱。
樽。
建物。
何か。
何かない?
ボガードがまた歩き出す。
フィーネのすぐ横には、野菜や布を積んだ荷車。
車輪の下に、動かないよう木の留め具が差し込まれている。
杖を向けた。
「……お願い!」
青白い光が小さく広がる。
結界が留め具を横から押した。
ころん。
木片が外れる。
ここは僅かな下り坂。
荷車が動き出し、少しずつ速度を上げた。
ガラガラガラガラ――!
ボガードがそちらを見る。
「ん?」
真正面から荷車が迫る。
「こんなもん!」
両腕で受け止めた。
ドン!!
車輪が浮き、荷物が飛ぶ。
それでも。
ボガードの足が一歩、後ろへ滑った。
フィーネの目が見開かれる。
止まった。
ほんの少し。
でも。
止まった。
「今のうちに……!」
振り返る。
市民たちは、言われるまでもなく必死に先へ進んでいる。
ボガードは荷車を見たあと、それを両手で持ち上げた。
「え……」
「邪魔だ!!」
横へ投げる。
荷車は建物の壁へ激突し、木材が折れ、荷物が辺りへ散らばった。
フィーネの肩がびくっと跳ねる。
「……嘘」
ボガードがこちらを見る。
「次は何だ?」
一歩、下がった。
怖い。
でも。
まだ逃げ切っていない。
ボガードが走った。
速い。
あの身体で。
「っ!」
フィーネは杖を振る。
今度はボガードへではない。
足元に転がっていた樽。
「動いて……!」
青白い光が樽を押す。
ころ。
ボガードの踏み込み先へ。
「チッ!」
巨大な足が樽を踏み潰した。
だが、その一瞬。
足首が流れた。
巨体が傾く。
「うおっ――!」
そのまま肩から横の壁へ突っ込んだ。
轟音。
石壁が砕け、粉塵が舞う。
フィーネは息を呑んだ。
「……やった?」
違う。
すぐに分かった。
瓦礫が動く。
一つ。
二つ。
ボガードの腕が、石を押し退けた。
「……てめぇ」
低い声。
フィーネの顔から血の気が引く。
ゆっくり立ち上がったボガードの額から、ほんの少しだけ血が流れている。
効いてはいない。
でも。
転ばせた。
それが、気に障った。
「今」
ボガードが額の血を親指で拭う。
「俺をコケさせたな?」
「……」
「治癒術師が」
一歩。
「女が」
もう一歩。
「俺を」
拳が鳴る。
「コケにしやがった」
フィーネの足が震えた。
「そ、そんなつもりじゃ……」
「知るかよ」
ボガードの目が変わっていた。
さっきまでは邪魔なものを見る目だった。
今は違う。
フィーネだけを見ている。
「ぶっ殺す」
喉が、ひゅっと鳴った。
ボガードが歩き出す。
フィーネも下がる。
このままでは、何も変わらない。
もう一度、周囲を見る。
壊れた荷車。
潰れた樽。
瓦礫。
道の脇の古い建物。
外壁には修理用らしい細い足場が組まれ、その上に板や石材が積まれている。
支えているのは一本の木材。
ボガードが走る。
フィーネは人ではなく、その支柱へ杖を向けた。
「お願い……!」
青白い結界が、木材を横から押す。
一本。
ずれる。
ぎ、と嫌な音。
もう少し。
「……っ!」
歯を食いしばる。
支柱が外れた。
ガタン。
上に積まれていた木材、板、石材が一気に傾く。
ボガードが顔を上げる。
「何――」
ドドドドドドッ!!
大量の資材が降り注いだ。
「ぐおっ!」
巨体がその中へ消える。
瓦礫と木材が積み重なり、道の半分を塞いだ。
「……はぁ……はぁ……」
フィーネは息を切らしながら、その場に立っていた。
手が震えている。
魔力も減っている。
でも。
止めた。
また、少しだけ。
振り返る。
避難していた人たちは、かなり遠くまで進んでいた。
最後の荷車も、もう随分先だ。
最初はすぐ背後に聞こえていた人々の声も、今は遠い。
あと、どれくらいだろう。
三分。
もう、かなり経ったはず。
「……もう少し」
小さく呟く。
もう少しだけ。
耐えれば。
終わる。
その時。
瓦礫の中から声がした。
「……ふざけやがって」
フィーネの表情が固まる。
ガラ。
木材が動く。
石が転がる。
そして。
ドガァァン!!
積み上がった資材が、内側から吹き飛んだ。
「きゃっ!」
腕で顔を庇う。
粉塵の向こう。
ボガードが立っていた。
額、肩、腕には細かな傷。
それでも立っている。
むしろ、その顔にはさっきまでなかった明確な怒りがあった。
「お前」
低い声。
「もういい」
フィーネが後ずさる。
「……」
「どけとも言わねぇ」
拳を握る。
「逃げろとも言わねぇ」
一歩。
「俺を何度もコケにしやがった」
もう一歩。
「もうお前は」
フィーネを指差す。
「邪魔な奴じゃねぇ」
歯を見せた。
「俺が殺す奴だ」
フィーネの目に涙が浮かんだ。
「……」
ボガードはそんな彼女を見て、ふと何かを思い出したように口元を歪める。
「そういや」
一歩。
「お前、言ってたな」
フィーネの肩が震える。
「三分だけ」
もう一歩。
「ここを通さないって」
息を呑む。
三分。
そう。
三分だけ。
それだけなら耐えればいい。
だから、ここに立った。
もう少し。
もう少しで。
終わる。
ボガードが笑った。
「お前さ」
フィーネを見る。
「三分耐えりゃ、終わりだと思ってんのか?」
「……え」
フィーネの顔から表情が消えた。
ボガードが拳を鳴らす。
「三分経とうが」
一歩。
「五分経とうが」
もう一歩。
「そんなもん」
距離が縮まる。
「俺には関係ねぇんだよ」
杖を握る手が震えた。
ボガードの目には、もう避難する人々など映っていない。
フィーネだけ。
「お前を殺す」
低い声。
「殺すまで」
拳を握る。
「俺は攻撃をやめねぇぞ」
フィーネの瞳が大きく揺れた。
三分。
その数字を、ずっと心の中で握っていた。
三分だけなら。
怖くても耐えられる。
三分だけなら。
終わりがある。
そう思ったから、ここに立っていられた。
でも。
違った。
三分は。
みんなが逃げるまでの時間。
自分が助かるまでの時間ではない。
三分を過ぎても、この男は自分を追う。
逃げても追ってくる。
自分を殺すまで。
終わらない。
「……」
杖を握る指に力が入らない。
脚が震える。
目に溜まっていた涙が、一粒。
頬を伝った。
三分だけなら。
そう思っていた。
でも。
その三分の先に。
終わりはなかった。
今回の異世界マーケティングは、『OODAループ』です。
OODAループとは、
Observe(観察)
↓
Orient(状況判断)
↓
Decide(意思決定)
↓
Act(行動)
という流れを素早く繰り返しながら、変化する状況へ対応していく考え方です。
よく似た考え方としてPDCAがありますが、PDCAが「計画し、実行し、振り返り、改善する」という改善活動に向いているのに対し、OODAは、
「相手も動く」
「状況が刻々と変わる」
「事前の計画通りにはいかない」
という場面で特に力を発揮します。
今回のガルドとシドの戦いは、その典型でした。
ガルドは前回の敗北を受けて、
短剣でシドに勝つのではなく、
短剣で距離を作り、
もう一度、自分が最も強い弓の間合いへ戻る。
という戦い方を身につけました。
しかし、それを一度見たシドはすぐに対応します。
浅く引いた矢を撃つ前の動きを読み、
ガルドが距離を作ろうとする場所へ先回りする。
さらにガルドの感覚が異常に研ぎ澄まされると、
「なら、処理する情報そのものを増やせばいい」
と、瓦や音、死角などを使い始めました。
シドは非常に高い速度で、
観察し、
考え、
対策を決め、
すぐに行動へ移しています。
つまり、シド自身が非常にOODAの速い相手だったわけです。
一方のガルドも、極限状態の中で変化していきました。
最初は、
見える。
聞こえる。
匂う。
すべての情報を拾ってしまう。
しかし、情報は多ければ多いほど良いわけではありません。
必要のない情報まで処理しようとすると、判断は遅くなります。
そこでガルドは、
鳥の羽音はいらない。
市場の声はいらない。
今必要なのは、シドの足、肩、呼吸、重心だけ。
と、必要な情報を自分で選び始めました。
そして最後は、
「シドなら、この矢を避ける」
という相手の対応そのものを予測し、
一射目を避けさせた先へ、
本命の二射目を撃ち込む。
単純に速くなったから勝ったのではなく、
相手を観察し、
相手の判断を読み、
その判断まで利用して勝った。
これが今回のガルドの勝利です。
そして後半。
フィーネもまた、予定にはなかった状況へ放り込まれました。
本来の役割は戦闘ではありません。
治療と避難支援。
ボガードとは戦わず、
危険なら逃げる予定でした。
しかし目の前には、まだ逃げ切れていない市民がいる。
三分だけ時間を稼がなければならない。
正面から結界を張る。
壊される。
なら荷車を使う。
突破される。
次は樽を転がす。
それでも止まらない。
今度は建物の資材を崩す。
フィーネには、ゆっくり最善策を考えている時間などありません。
目の前にあるものを見る。
今できることを考える。
試す。
通用しなければ、また次を考える。
これもOODAループです。
特に重要なのは、
「最初に立てた計画を守ること」
そのものが目的ではないということです。
現実では、相手も動きます。
環境も変わります。
前提そのものが壊れることもあります。
今回のフィーネにとって、
「三分だけ耐えればいい」
というのが、その前提でした。
だから怖くても立っていられた。
三分という終わりがあったからです。
しかし最後。
ボガードはその前提すら壊します。
三分経っても終わらない。
逃げても終わらない。
自分を殺すまで追ってくる。
ここまで状況が変われば、
それまでのやり方では、もう対応できません。
次に必要なのは、
「どうやって三分耐えるか」
ではなく、
そもそも、
「この圧倒的な力をどう扱えばいいのか」
という、別の問題を考えることになります。
計画通りに進める力だけでなく、
計画が壊れた瞬間に、
何を見るか。
どう考えるか。
何を捨てるか。
そして、次に何をするか。
今回の異世界マーケティングは、
そんな「変化の中で判断し続ける」ためのOODAループでした。
さて。
三分耐えれば終わるはずだったフィーネの戦いは、
三分を過ぎても終わらない戦いへ変わってしまいました。
真正面からでは、結界は壊される。
逃げても、もうボガードは追ってくる。
フィーネはこの絶望的な状況で、
どんな答えを見つけるのでしょうか。
次回もよろしくお願いします。




