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挿絵があります。
誰よりも大切なはずのゆかりを傷つけるなんて愚かなやり方だ、と笑う人間もいるだろう。でも、俺はほかのどんな方法も思いつかない。沼野ゆかりは泣きたくなるほど公平で、誰のものにもなりはしないのだ。クラスで孤立してもなお、最後の一線を踏み越えてくれないというのなら、いっそすべてなくなった方がいいのではないか。
「ゆかり、今日は見学希望者がいるんだ」
放課後、いつも通り古びた美術室でぼんやりと窓の外を眺めていたゆかりが、「え」と声を洩らす。聞き逃したのではないということは当然わかっていたが、彼女の心を折るために同じ言葉を繰り返した。
「見学希望者。もうすぐ何人か来るはずだから、そのつもりでね」
その時のゆかりの表情を、俺は生涯忘れないだろう。後ろから脅威が追ってくる中、目の前で吊り橋が切り落とされてしまったかのような、絶望的な表情。叫ぶのでも泣くのでもなく、ストンとどこかに感情を落っことしてきてしまったかのような顔を、何よりも誰よりも美しいと思った。
「そう、なんだ」
落ち込んだゆかりすらも愛しいものに思えて、そして、俺たちの世界なんて壊れてしまえと願う。
そうだ、みんな、壊れてしまえ。
「藤堂くん、お邪魔します」
放課後、約束通り派手な少女が3人、ぞろぞろと俺たちの世界を穢しにきた。自分たちが予想した何倍も古い造りの教室に、自然と眉根が寄っている。そのことに俺は言いようもない愉悦を感じた。お前たちが付きまとっている藤堂明良は、こんな薄暗い部屋で放課後を過ごしているんだよ、とでも言ってやったら、夢が壊されたと訴えるのだろうか。
馬鹿みたいだ。理想だとか、夢だとか、空間だとか。そんな目に見えない不定形のものなんて、全部壊れてしまえばいい。
俺が欲しいのはゆかりだけ。
彼女たちの物言いたげな視線を無視して、俺は笑顔で自分がこの部屋から離脱する旨を伝える。「これから少しだけ先生に呼ばれているんだ」と。勿論嘘だ。けれど、俺が美術室にいては事態が進まないことぐらいは容易に予想できたし、わざわざ部外者を招いたのだからきちんと与えられた役割を全うして帰ってほしかった。そうでなくては、少女たちがここに来た意味がない。
微笑みを形作りいいよね、と問えば、しぶしぶながらも頷きを返してもらうことができた。
「じゃあ、ここで待っているわね」
「ありがとう、それまでは彼女に質問していて」
俺がそう言うと、事態を亡羊として眺めていたゆかりの頬が一瞬、ひくりと引き攣った。持っていた枯れた向日葵の絵を、無意識にか両の腕で抱き込んだのが視界に入る。当然だろう。この少女たちはクラス内カーストでも上層部に位置し、他でもないゆかりに嫌がらせをしていた主犯格だ。でも、それを可哀想だと思う時期はとっくに過ぎた。
美術室のドアに手をかける。
かつて俺たちを二人きりにしてくれた、朽ちた薄い魔法の扉は、俺からゆかりの視線を容赦なく引きはがした。
美術室を出て、さてどこに行こうかと迷う。中にいる彼女たちからは見えないようにしたいが、会話は聞こえる場所に行きたい。いざと言うときには――つまりあの女たちがゆかりに危害を加えそうなときは――すぐに止めに入れる所にいたかった。そこまで考え、結局は安直に隣の部屋で行方を見守ることにする。踏み込むとそこは現在物置にしか使われていないらしく、古い机や椅子が乱雑に積み上げられていた。埃っぽい空気が喉を刺激する。
まあ、どうせ暴力なんて振るわないのだろうけれど。
彼女たちは根っからのお嬢様だ。自分がそういった野蛮な行動とは最も遠い位置に立っていると信じて疑わない。例えその足元に無数の死体が転がっていようとも、呑気にお茶会を開くような。ニュースで発展途上国の子供たちを見て可哀想だと嘆きながら、値の張るものを親の金で躊躇なく買うような。そんな図太さ、無頓着さを生まれながらにして持っているのだ。
ゆかりと真逆の人間性。唾棄すべき傲慢さ。けれど、きっと俺も彼女たちに近い場所にいるのだろう。
閑話休題。
くだらないことを滔々と考えている間に、隣の部屋はすでに修羅場に突入していたらしい。一瞬ヒヤリとするが、聞こえてくる声はゆかりと美術部そのものに対する呪詛にも似た侮蔑だけで、予定通りに進んでいるようだ。
『あなた、美術部だったのね。
藤堂くんに迷惑かけておいて、よく図々しく一緒にいられるわね。
こんな汚い部屋でちまちまと絵を描いているの? だっさい』
なるほど、これが彼女たちの本音らしい。俺がいなくなったことで箍を外したからか、壁一枚隔てていてもよく聞こえるような大声で罵倒を続ける。卑しい女たち。軽蔑を込めて様子を窺っていると、少しの間の後、再び下品な声が聞こえてきた。
『暗い。
藤堂くんも、なんでこんな部活入ってるんだろう。
流石に無理だわ、服が汚れるし。
この女が無理矢理連れて来たんじゃないの。
だって、美術部ってタバコ吸って廃部になったんでしょ。
うっわ、ケムイ。最悪。
こんなとこにいたら内申悪くなるよ、家の名前にも傷がつくし』
そういえば、美術部にはあまり良くない噂があったのだったか。どうでもいいと記憶から消し去っていたが、部外の人間にはなかなか忘れられない事案だったようだ。ゆかりが関係ないことなど承知の上だろうが、嬉々として詰っている。本当に呆れる。
対して、ゆかりの声は一切聞こえてこない。もしかしたら小声で多少の反論はしているのかもしれないが、大した効力を発揮していないのは容易にわかる。彼女は今、一体どんな顔をして理不尽な罵倒を受けているのだろう。悔しがっているのか、笑顔を張り付けているのか。早く見たい。
早くゆかりの顔を見たい。
その後すぐに煌びやかな少女たちは退出し、俺は悠々と美術室に帰った。残されていたゆかりは俺の予想に反して完璧な無表情で、少しよれた向日葵の絵を大事そうに抱えていた。恐らく踏まれるか何かされたのだろう、カワイソウに。
しかし俺は無邪気な微笑を浮かべて言い放つ。絶対の庇護者を失った、哀れな幼子のような彼女に向かって。
「あれ、彼女たち、帰ったんだ。早いね」
これには流石にムッとしたらしい。ゆかりは無表情を解き、不機嫌そうに眉を顰めて「なんで今頃見学したいって言ってきたの? こんな時期に入ってくるなんて、普通じゃないよね」と問うてきた。それに対し、俺は何の罪悪感も感じていないという様子で、飄々と答える。
「だって、ゆかりは部員が欲しかったんだろう? 丁度いいと思ったんだよ」
ゆかりのためだ、と言わんばかりの俺に、どう怒りをぶつければいいのかわからなくなったのだろう。怒りは行き先を失えば悲しみになる。彼女は下唇を噛みしめて、少しの間俯いた。
そして、ぽつりと。
「……私は、部室に誰も連れてきてほしくない」
ともすれば風の音にすらかき消されてしまいそうな、幽かな声で。次に、身を切るような悲痛な叫びを。
ゆかりは。
ゆかりは。
「ここは、ここだけは、私と明良だけの場所でしょう!」
堕ちた。
悲傷と大声を出した反動でしゃがみ込む彼女を、俺は即座に抱きしめる。薄くて小さな肩。この数か月間、ゆかりはこの細い肩に嫌がらせという名の重荷を背負って過ごしていた。
彼女は強い、とずっと思っていたけれど、そんなのは幻想だったのか。これ以上強く抱きしめたら折れてしまうと、誇張ではなくそう思った。
もう、大丈夫だ。今日が最後。これからは、俺がずうっとゆかりの傍で守ってあげるから。お前が望むなら、俺たちの世界に、金輪際何人たりとも立ち入らせはしないよ。安心して何も考えずに、置物のように生きればいい。
約束しよう。
「そうだね。ここは俺たちだけの場所だ」
次の日から、俺はやっと自分の思うままに過ごす日々が手に入った。俺しかいらないという結論にゆかりが辿り着いた今、どうしてわざわざ興味もない他人に愛想よくしていなくてはいけないのか。馬鹿馬鹿しい。
これで心置きなくゆかりと一緒にいられる。教室では休み時間毎に話しかけに行き、昼休みには二人、中庭で食事をするようになった。ずっと一緒にいてもお互いの琴線に触れるものはバラバラで、毎日話していても飽きるなんて感情は湧いてこなかった。
俺はゆかりだけでいいのだ、他はいらない。
そのつもりで再び「見るだけで十分」な藤堂明良に戻ったにもかかわらず、頭の悪い一部の人間はなかなか対応してくれなかった。どうして私たちと一緒にいてくれないの、とは例の見学に来た少女たちの言葉だ。煩わしくて無視していたが、次第にゆかりに手を出そうと画策するようになったので、お嬢様たちの高い鼻を根元から折ってやることにした。
ゆかりがいない空き教室に呼び出し、「俺たちに近づくな。美術室でお前たちがゆかりにしたことを、俺が知らないとでも思っているのか」と睥睨しながら吐き捨てると、いつかゆかりに冷たくあたった時よりもずっと大きな動揺が流れた。
何があったの、という様子で俺に触れようとするので、汚い手で触るなよ、と呟く。それでもなお「優しい藤堂明良」を妄信している馬鹿な彼女たちは、そんなこと言わないで、とすがりついてきた。
「触るな、って言ったのが聞こえなかったのか?」
そう言ってゆっくりと首に片手をかければ、相手も流石に気付いたようだ。自分の理想と目の前の男は、全く違う生き物なのだということに。
彼女自身で自分の気管が絞められていることを確認できるよう、緩い力で徐々に圧を加える。するとすぐに、怯えたように懇願された。
「は、放して、ください」
なんだ、まだまだ息はできるのに。俺は薄く微笑みながら解放してやった。予想外にあっけなく拘束が解かれたことに、ほっと彼女たちの空気が緩む。が。
「俺はお前たちが傷つこうが何しようがどうでもいいんだ。もしゆかりに害をなすようだったら、遠慮なくその首を折らせてもらうから、そのつもりで」
微笑を浮かべながらで宣告すると、ひっという音が聞こえる。どうやら俺の意思はようやく通じたようだ。そのまま空き教室を後にした。
「ゆかり」
「どうしたの、明良」
「ううん、やっぱりこの呼び方が一番いい」
すべてが順調、すべてが思い通りに動いている。中学生の頃から焦がれていた少女は、ようやく俺の手中に納まった。このまま卒業すれば、かつては無理だと諦めた、同じ人生を二人で歩むことだって夢じゃない。教室の人間だけではない。社会的にも法的にも、ゆかりは藤堂明良のモノだということを認めさせることができるのだ。
楽しそうな雰囲気がゆかりにも伝わったのか、何かいいことがあったのかと問うてきた。それに対して俺は答える。すべてがうまくいったからだよ、と。そう、俺はゆかりの何もかもを手に入れた。
彼女は言う。聖母のような慈愛を持って、天使のような無垢な心で。
「明良の思い通りになってよかったね」
ゆかり。
なんて、愚かで無知。
愛しい彼女は、自分の身に何が起こっているのか、いまだすべてを把握していないのだろう。それでいい。ゆかりは何も知らないまま、俺と一緒にいてくれれば、それだけで。
「ねえ、ゆかり。お前は一生俺だけのものだよ。俺はお前だけが居ればいいし、お前も俺がいればいいんだ」
何も考えぬ美術室の置物に、俺は優しくそう告げた。
藤堂明良は気付かない。沼野ゆかりが、小さく首を傾げたことに。
これにて『美術室の置物』は完結いたしました。その後の予定については、お手数ですが活動報告をご覧ください。
こちらではお礼を。
今話の素敵な挿絵を描いてくださった陽雨陽雨さま、お忙しい中たくさんの願いを聞いてくださり、ありがとうございました!
そして読者様。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
短編にもかかわらず投稿まで長い時間がかかってしまい、申し訳ありませんでした。
お気に入り・感想・評価等、どれも大変励みになりました。
本当にありがとうございました。