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「おはよう」
人目に付かないように学校まで送り迎えをしてもらっているため、大抵の場合俺が一番初めに教室に着く。普段なら荷物だけおいてさっさと図書室なり美術室なりに行ってしまうのだが、次の日からその習慣を改めることにした。クラスメイトが登校するのを待ち、人が来ると口角をあげて挨拶をするようにしてみたのだ。
効果はすぐに現れた。
「と……藤堂くん? お、はよう」
うっすらと頬を赤らめていたのは、恐らく気のせいではないだろう。彼女の後に来た同級生にも同じような反応をされ、俺の美しさとやらは今だ衰えてはおらず、他人の感情を揺するに値するものらしいということを確認する。必要のない俺の美点。けれど、その他には何もない俺の価値。
ゆかり、お前が望むなら、これを存分に活用してあげようか。
「藤堂くん、今日はどうしたの。なんだか機嫌がいいみたい」
「そう? そう見えるなら嬉しいな」
「今日の授業は難しかったね、藤堂くん」
「難しかったけど、ちょうど予習してたところだったんだ。よかったらノート貸そうか」
「一緒にお昼食べない?」
「次の移動教室一緒に行こう」
蝶のように煌びやかに飾り纏った少女たちが、俺の周りで自分勝手に話し出す。その煩さはむしろ蛾という方が相応しく、耳をふさぎたいという念に何度も駆られた。だがここで無愛想に戻っては、ゆかりの理想の藤堂明良になれない。俺は精いっぱい口の両端を引き上げて、それらの呼びかけに応えていった。
彫像が笑っている。
美しいだけだったはずの俺が感情を表に出している、と口さがない生徒たちは陰で言いあった。別に今更傷つくでもない。ゆかり以外の人間の話すことなんて、俺の心の片隅にさえ引っかかりもしなかった。その代わり、彼らに向かって不敵に微笑む。彼らより優位に立っているのだと示すために。
入学したての頃は、皆が物言わぬ玩具として俺を見ているようで、学校の人間が怖くて仕方がなかった。整っていると称される顔を武器にすれば、何かが搾取されるのではないかと怯えていた。他人に優しくしたら、本当の自分が死んでしまうのだと思っていた。なんて馬鹿馬鹿しい妄想をしていたのだろう。今ならわかる。ゆかりに否定される以上に恐ろしいことなど、この世のどこにもないのだ。
ゆかりが望むのなら、俺はどんなことだってしてみせる。優等生の仮面を被ることだって躊躇わない。
地元では他者の目線に敏感になって過ごしてきたから、人の心を掴む術は身についている。数日もすれば陰で悪く言う者はいなくなり、代わりに俺の机の周りには人だかりが絶えなくなった。教室の空気は俺を中心に流れるようになった――ただ一人を除いて。
「沼野さん、俺に何か用?」
友人と共に俺の近くへ来たゆかりを、目を細めて冷たい言葉で迎える。しん、と教室に妙な間が流れた。クラスメイトの視線は、俺たちを交互に巡回する。
孤立させようとしたわけではない、と言ったら、嘘になるだろう。俺は、確かに怒っていた。他人からの評価を気にして、俺を否定したゆかりに。報いを受けてもらいたいと思った。愛しくて愚かなゆかりは、自分がどれくらい俺を傷つけたのか知るべきなのだ。
だから、少しくらい。これくらいなら、意趣返し程度にはなるだろうと今まで通りに接してみた。けれど、思った以上に彼女は衝撃を受けたらしい。
「あき……藤堂くん」
ゆかりの瞳が、ゆらりと泳いだのがわかった。表情は凍り、予想外の俺の態度に脳が上手くついていかないのだろう、瞬きばかりしていた。
その様子を見て、俺はふつふつと暗い愉悦が湧きおこるのを感じた。罪悪感よりも歓喜の方が大きかった。ゆかりは、他の誰でもなく、俺の言葉にショックを受けている。この子を悲しませているのは俺なのだ!
少しだけ、のつもりだった意趣返しは、もう少し、に変わった。もう少しゆかりの目に俺を映しておきたい。もう少しだけ彼女を傷つけたい。欲望はどんどん膨らんでいく。
すでに教室では主導者としての立ち位置を築いていた俺が、たった一人の地味な女生徒に冷たく当たればどうなるか。水が上から下へ流れるよりも自然に、教室中の、いや、学年中の生徒がゆかりを敵視するようになった。
そんな中、あの美術室でだけは、俺は本当の藤堂明良として過ごした。俺が原因で学校内での立場が悪くなっているにもかかわらず、優しく慰めれば「ありがとう」と言って頭をもたせかけてくるゆかり。愚かで無知で愛しいゆかり。本当のところ、彼女が真実に気が付いていたのかどうか、俺には分からない。けれど、ゆかりが俺に文句を言うことは決してなかった。
「明良、明良だけは、私のことを嫌わないで」
彼女に対する噂は日増しに酷くなる一方で、僅かにいた友人たちも巻き込まれるのは御免と離れていってしまったらしい。ゆかりには文字通り俺しか頼るべき相手はおらず、しかし俺がいることによって学校を辞めるという考えには及んでいないようだった。
「勿論。ゆかり以外に好きなものなんて、何にもないんだ」
そんな俺に対して、曖昧な笑みだけが返ってくる。只の慰めだと思っているのだろうか。そんなことないのに。そんなはずがないのに。
「ゆかりはなんにも悪くないんだ。クラスの奴らなんて関係ない」
ゆかりを直接的に傷つけているのは生徒たちだ。けれど、その裏で俺の行動が起因していることは確かで、なんだかひどく滑稽だった。結局、俺が苛めて俺が慰めているに他ならない。なのに、ゆかりは元凶の男以外に依る術なく、安心した表情で求めてくる。彼女の好きだった花の模写も、いつしか行われなくなった。本当に、俺だけ。ゆかりの眼には俺だけが映っている。
もっと俺に頼ればいい。自分で自分に俺しかいないと刷り込んで、俺以外の奴を嫌えばいい。藤堂明良は決して沼野ゆかりを拒まない。ゆかりが望むなら、誰も傷つけないふわふわの真綿に包んで、一生面倒を見よう。置物のようにぼんやりとしていても、朝から晩まで、なんの不安も不満もないように心を砕こう。綺麗なものだけを周りに置いて、薄汚れたすべての人間を排除しよう。
恐らく、彼女がそう願うのも時間の問題だ。
しかし、そんな俺の目測は見事に外れ、何か月経ってもゆかりが俺に助けを求めることはなかった。中途半端に慰めたせいで、彼女に自立心が生まれてしまったらしい。
「ゆかり、辛くないの?」
「大丈夫。美術室があるから、私は平気」
そう言って現実に立ち向かう彼女に、俺は「失敗した」と言いそうになった。失敗した。ゆかりは自分でどうにかしようと考え始めてしまっている。その証拠に、一時期向かっていなかった画用紙に、再び鉛筆を走らせるようになってしまった。
駄目だ。やめてくれ。俺だけを見て。
「藤堂くんって、美術部なんでしょう」
クラスメイトの少女にそう問われて、俺は曖昧にうん、と返した。確かこの子は俺と同じ委員会をやっていたはずだったが、名前が曖昧だ。そんなことよりもゆかりが立ち直り始めていることのほうが俺には何十倍も大切で、次々と繰り出される問いかけに曖昧な返事で流した。が、一つの発言に意識が囚われる。
「じゃあさ、今日友達と部活見学に行ってもいい?」
部活見学。
今までそれを希望してきた人間は何人もいたが、ことごとく断っていた。俺とゆかりだけの大切な空間に、誰が好き好んで部外者を立ち入れさせるというのだろう。ゆかりが望んだって却下したというのに、どうして毛ほども興味の湧かないクラスメイトの言うことに耳を傾けることがあるというのか。
そう思って、俺は例によって断ろうと口を開く。しかし、言葉が音になる直前で、一つの計画を思いついた。
このまま放っておいても、ゆかりは自分で何とかしようと努力する一方だ。俺との距離も再び開いてしまうだろう。だったらいっそ、すべてを壊してしまおうか。2年間誰も立ち入らせなかった聖域に、ゆかりの敵を侵入させてみようか。その方が。
俺は嗤う。目の前の少女に対してではなく、楽園の置物を想って。
「うん。是非来てみてよ」
大変に遅くなりまして申し訳ありません汗
今回は少し短め。
次話で完結です。




