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美術室シリーズ

美術室の獣

作者:新海莉子
「可愛い人、綺麗な人、美しい人が媒体の絵って、なんだかちょっと虚しいんだよね」
「どうして?」
「美しさって永遠じゃないから。美しい人が絵になるってことは、つまり『これがこの人の限界だよ』って決めちゃってるような気がするの。もうその人の未来は潰えたんだよ、って」

「じゃあ沼野さんは美人が嫌い?」
「そんなことはないよ。自分が美人に生まれてたら、って事あるごとに妄想する。だから、いろんな人に綺麗だって言われてる藤堂君が羨ましいよ」

「それは、」
「でも、藤堂君がすごいのはそこじゃない。自分の意見をしっかり持ってるところの方が、本当は羨ましいんだ」

       §

 公立高校を希望していたけれど、同級生の何割かがそうであったように、私、沼野ゆかりも受験に失敗した。受かっていたのは地元から 1時間以上かかる由緒正しい私立の学校で、私のような平凡で何のとりえもない人間が行くような高校だとは到底思えなかった。

 そんなところに行くことになったのは単純に私の勉強不足なんだろうけれど、周囲の人からどう思われるか考えるだけで胃が痛くなり、結局親しい友達以外には進学先を教えずに卒業した。

 同じ高校に行くという人はとうとう見つからなかった。

 だから、高校ではあまり友達が出来ないだろうと覚悟はしていた。でも、まさかこんな風にクラスから浮いてしまうとは、この時の私は思っていなかったのも確かなことだった。



 つつがなく入学式を終え、クラスで自己紹介もした。けれど、中高一貫の制度をとっている高校では私のような人間は「よそ者」でしかないらしく、特にこれと言った取り柄もない平凡な人間だとわかるや否や興味の対象からすっぱりと外れていった。

 私は自分に似たタイプのおとなしそうな女の子のグループに入れてもらい、ひっそりと学生生活をスタートさせた。

「ゆかりちゃん、部活は入るの?」
「うん、中学で美術部だったから、同じところに入ろうかと思って」

 グループの子の質問にかねてから考えていたことを伝えると、彼女は一瞬眉根に皺を寄せる。ちなみに中学からの持ち上がりの子で、私立校にありがちな「学校の特有ルール」は彼女が教えてくれた。

「美術部は去年問題が起きたから……。今、活動しているのかな」

 曰く、去年の 3年生が部室でタバコを吸っていたことがばれてしまい、問題になったらしい。受験のストレスからということで彼らに直接的な罰を与えることはなかったものの、その代わりに美術部が活動停止になってしまった。なんというとばっちり。

「そのあとすぐに再開の許可は下りたんだけどね。自分たちも同じようにタバコを吸ってるって思われるのが嫌みたいで、皆辞めちゃったの」

 私立の醜聞というのはそんなにもすごいことなのか。私にはよくわからないけれど、由緒正しい家の子ならそういったことも嫌がるのかもしれない。

 その足で放課後、職員室で話を聞いてみると、彼女が教えてくれた通り現在の部員はゼロだった。今年は休部という扱いだが、来年までに二人以上部員がいないと廃部になってしまうらしい。

 入部してもいいですかと私が問うと、美術部の顧問をしている先生は一瞬驚いた顔をしたものの、すぐに笑顔になって「勿論」と言った。

「でも、来年までにあと一人部員を作らないと廃部になっちゃうからね」

 そのときはそのときだ。別に美術部じゃないと絵が描けないわけでもないし、外部からの入学生は私だけでもないはず。そのうち集まるだろうと、そう思ってそのまま美術室に赴いた。部活動の日程は特に指定されなかった、ということは、好きに使っていいということなんだと思う。

 一番古い校舎の一階、最奥の部屋。渡されたカギを使ってこれまた古めかしい扉を開こうとしたその時、不意に肩を強くつかまれた。痛い。何ですか、という言葉よりも先に、驚きと動揺の混じった男の人の声がする。

「沼野……さん」

 顔を上げて声の主を見てみると、そこには。

「と、藤堂くん?」

 中学の同級生、藤堂明良が立っていた。



 お互いに驚いた表情のまま、とりあえず美術室に入って向い合わせに座った。校舎の見た目を裏切らず、随分と古い作りだった。普通の教室とそれほど変わらない大きさで、ここで美術の授業するのは些か不便なんじゃないかと思う。

「藤堂君もこの高校だったんだね、知らなかった」

 私がそう伝えると、彼は作り物のように美しい顔を下に向けて「俺もだよ」と言った。

「ここに入学することは誰にも言ってなかったから。でも、沼野さんは地元の高校に行くと思ってたんだけど」

「地元の高校に進みたかったんだけど、落ちちゃって」

と言うと、空気を読んだのか俯いたままそっか、という返事が返ってきた。

「藤堂君はもとからこの学校が第一志望だったの?」
「ああ。私立のしっかりした教育を受けてほしいっていう親の希望で」

 そういえば彼の家は地元では有名な医者の家系だ。クラスでもいつも大勢の人に囲まれていて、私のような教室の隅でじっとしている人間にはほとんど縁のない人だった。なのに、まさか同じ高校だったとは。でも、少し離れていても面倒見のいい私立の高校に進学させたいと思うご両親の気持ちは察せられる。

「俺も、本当は地元の高校に行きたかったんだけど、でも」

 その後の言葉は濁されて、うまく聞き取れなかった。

「沼野さんは美術部に入るの?」
「うん。部員は一人しかいなくて、すでに廃部の危機だけど」

 私は大まかに現状を伝えた。すると彼は小さく頷いて

「じゃあ、俺も入部していいかな?」
「え、いいの?」
「俺も、何か部活に入りたいって思ってたんだ。でも、どこに入っても途中入部で馴染めそうにないから諦めた。嫌じゃなければ」

 まさかそんな申し出があるとは思いもよらなかった。去年は同じ教室でもほとんど話すことなどなかったというのに、同じ部活のメンバーになるとは。目の前の端正な顔を見つめながら、私は一も二もなく「ありがとう」と返していた。大げさだけれど、見知らぬ地で一人で過ごさなくてはならないかもしれない、という時に彼に再会したことで、私はすごく安心したのだ。



 だから、気付かなかった。濁された「でも」の先にある言葉を。文武両道で誰からも慕われていた彼が「馴染めない」などと思うはずもないということを。

 この時に彼を拒絶していれば、何か変わっていたのだろうか。



 部活を開始していくらか経つと、彼は「ゆかり」と呼ぶようになった。

 初めは戸惑っていたけれど、あまりにも自然にそう呼ばれることが続くとそう気にならない。そしてよく私の名前を覚えていたな、なんてどうでもいいことを考える余裕ができ始めると、今度は彼のことも下の名で呼ぶように言われた。これには流石に抵抗したけれど、元より話術の巧みな彼と友達を作るのにも苦労するような口下手な私とでは、どちらの意見が通るのかは火を見るよりも明らかだった。

「ゆかり」
「どうしたの、明良」
「やっぱりこの呼び方が一番いい」

 私が銀杏の姿を画用紙に描きつける頃には、そうやって自然に笑いあっていた。

 クラスは離れているから普段の彼の様子は全く分からなかったけれど、毎日美術室に来て毎日雑談をして毎日一緒に絵を描いているうちに、彼が中学時代皆の中心にいた理由がよくわかった。彼はただ「頭がいい」のではなく、「聡明な」人間だった。話していて不快になることがない、そんな類の。

「明良は眉目秀麗成績優秀、おまけに運動もできるのね」
「顔は親の遺伝。自分の努力じゃないから、褒められてもピンとこないな。勉強も運動も人並みだけど、見た目のせいで勝手に上乗せされてるようなもんだ」

 そう言って馬鹿馬鹿しいと笑う姿はやっぱりどこから見ても美しくて、笑い顔を破顔と称するのはこの男では無理だと悟った。

 艶美。

 それだけのカリスマ性と言うのか、人を引き付ける力が彼には備わっていた。

「でもゆかりは綺麗な人が描かれた絵は嫌いなんだよな」

 だから穏やかなまま続けた彼の言葉を、初め何を言っているのか理解できなかった。

「え? どうしてそんなこと」
「ゆかりは覚えていないかもしれないけど、中学の頃そう言ってたんだ」

 いつのことだっただろうか、記憶にない。

「そう、だったっけ」
「忘れていても無理はない。ちょっとした雑談だったし」

 明良はそういって優しげに私の肩を撫でると、美術館に行きたいな、と空々しく呟いた。



 こうして、一年目の美術部はほとんどなんの問題もなく活動を終了した。文化祭などの公式行事は部員の少なさから断念せざるを得なかったけれど、それでも楽しく過ごせていたと思う。

 だから、二年生になってもこのまま仲良くしていけるのだ、と信じていた私は、本当に愚かだった。



 学年が変わってクラス替えをすると仲の良かった子は皆違うクラスになってしまい、一から人間関係を構築しなくてはならなかった。何度も言うようだが、私は地味で引っ込み思案で「新しいこと」をすんなりと始められない。手際が悪いともいえる。だから新しい教室に行くのが嫌で嫌でたまらなかったけれど、ふとクラス名簿をみると藤堂明良の名があって、それだけで憂鬱さはだいぶ薄くなった。明良がいるならこの一年は大丈夫だろう、そう思うくらいには、私は彼に依存していた。

 それなのに。

 教室の扉を開けるとすぐさま明良と目があって、私は小さく笑いかけた。普段なら彼の方から話しかけてくるのに、今日に限って目をそらされる。何となく不機嫌そうで、そんな明良を見たことなどなかったから胸の奥がスッと冷える感覚がした。

 なに、なんで。そう思いながらも下を向いて自分の席に着くと、隣の席の子が誰かと話している声が聞こえてくる。

「あ、あの黒髪の人カッコイイ。外部からの子だよね、見たことないもん」
「どれ?……ああ、藤堂君ね。去年同じクラスだったけど、あんまり話してるイメージないなぁ。いっつも難しそうな本読んでたし」

「へぇ、モテそうなのに」
「話しかけても全然反応されなくて、去年は何人も撃沈してたよ」

 あれはもしかして、もしかしなくても明良の話だろうか。けれど私の知っている明良はそんな人間じゃない。いつも人のことを気にかけていて、皆の人気者で話が上手くて、かわいい女の子から声をかけられていた明良しか知らない。美術室は常に穏やかな空気が広がっていて、言葉はなくてもお互いに相手を邪魔に思うことなどなかったはず。

「あの」

 気付いた時には隣の席の子に話しかけていた。怪訝そうな顔をされるがもう後戻りはできない。私とは違い、きれいに化粧が施された相貌が首を傾げる。

「藤堂君って、いつもあんな感じなんですか」
「あんな感じ?」
「あの、不機嫌そうな」

 私が軽く明良の背中を指差すと、間の悪いことに彼からの冷たい視線ともかち合ってしまった。まるで腐りかけた生ゴミを見るかのような、見たことがない顔。今度こそドン、と胃が下に落ちるような感覚がする。

「あ……」

 明良は絶対に拒絶などしなかった。例えば混ざりすぎて汚くなってしまった絵具や、途中で失敗してしまった作品や、私が間違えて彼の持ち物を汚してしまった時も。彼は少しだけ悲しそうな顔をするだけで、不愉快さを前面に出してくることなどなかった。

 なのに、彼は今、間違いなく私に憎悪の視線を向けている。

 隣の席の子たちは気まずくなったのかそのまま話は終了してしまい、担任が登場したこともあってその日は結局喋る機会がなくなってしまった。



 新学期初日は大してすることがない。普段の授業よりも早い帰りの時刻となって、三々五々に教室を後にする。私はどうしようか。大多数の生徒と同じように帰宅するか、それともいつものように古い校舎で絵を描くか。

 悶々と考えているうちに教室には私一人。

 ちなみに、箱入り娘や箱入り息子の多いこの学校では車での通学を許可しているらしい。らしい、というのはこの制度を教えてくれたのが他でもない藤堂医院次期医院長の藤堂明良様で、彼以外が車で通学しているのを見たことがないから。しかし、ドラマや漫画の様に、赤い絨毯を敷いて召使いウン十人というような派手なお迎えではなく、むしろひっそりと誰にも見られないように帰っている様子は、学校に無許可で送迎しているようにしか見えない。朝は誰よりも早く、帰りは誰よりも遅く。

 帰宅までに時間のかかる私は彼よりも早く部室を後にするし、したがって一緒に帰ったこともない。

 閑話休題。

 美術室に行っても明良が来るかわからなかったし、来たとしても本日の彼の虫の居所は相当に悪いようだから気まずくなりそうだ。そう判断して帰ろうとしたけれど、一年間の習性は恐ろしいことに、意識しないうちに私の足を美術室まで運ばせた。

 気付いたときにはすでに美術室の前で、ここまで来たのに引き返すのもおかしい。仕方なく立てつけの悪い扉を開けると、すでに明良は来ていて笑顔を向けられた。

 先ほどの目線などなかったかのような、誰をも魅了する笑顔。

「ゆかり」
「あ……き、ら」

 彼の態度の変容に頭が上手く追いつかない。どう反応すれば正解なのかわからずに魚のように口を開閉させていると「そんなところに立ってないでこっちにおいで」と手を引っ張られた。よかった、機嫌は直ったみたいだと安心したのもつかの間。まるで責めるような強い口調で

「何してたんだ?」
「え?」
「ホームルーム終わったのは随分前だろう? 友達と話でもしていた?」

 目には強い光が宿り、曖昧にはさせない、という意思が垣間見える。掴まれた手はふりほどけない。だから

「あ……ちょっと、図書室に」

 ……つい、嘘をついてしまった。

 けれど明良は「そうか」といって満足そうに微笑んだから、まあ、これはこれでよかったのだろう。

 それにしても、今日の明良は何かがおかしい。中学時代を含めてもこんなに感情に幅のある彼を見たことがないのに。彼は常に優しくて、少し大人びた雰囲気があって、不用意に人の内面に踏み込むことなんてなかったのに。

「ゆかり、数学は○○先生だったね、習ったことある?」
「ゆかり、明日は委員会とクラス係決めだって。なにをやる?」
「ゆかり、選択授業は何にした?」
「ゆかり」
「ゆかり」

 なんでこんなにも距離を詰めてこようとするのだろう。



 不思議だ、と思いながらも、何も対処しなかった私は大馬鹿者だ。もし少しでも彼の内面に触れようという気を起こしていたのなら、未来は全く違うものになったのかもしれないのに。



 学校のチーム決めは、時に残酷な一面をのぞかせることがある。それが、まだクラスの人間関係を把握しきれていない時期なら尚更。その中でも特に私は高等部から乱入してきたよそ者で、友達と呼べる人間もほとんどいないため、じわじわと骨身に沁みるものがあった。

 まあ、何が言いたいかというと、一緒に入ってくれるような人間がみつからず、次の日の委員会・クラス係決めで寂しい思いをしたということだ。空き枠が二人のところを希望してしまうと、仲のいい子同士が同じ委員会になれなくなってしまう。自然、決まった約束のない人は大人数のクラス係に配備され、私も例にもれず英語係という英語教師にこき使われるためだけの役職に就くことになった。

 実のところ、ほんの少しだけ期待していたのだ。明良も同じ委員会をやってくれるのではないかと。前日にそのような話題がちらりと出ていたし、昨日の不機嫌さは偶々だったのではないか、と。けれど蓋を開けてみれば今日も今日とて彼は私を無視し、当然のごとく違う役職に就いた。保健委員。

 枠が二つしかないその委員会は、明良が一つ空欄を埋めたことでものすごい人気になった、主に女子の。恐らく彼と同じ委員会に入りたいという理由なのだろうが、中学の時よりもあからさまな彼女たちの熱視線に、私は度肝を抜かれていた。こんなに好かれているんだ。

 私は美術室以外で明良に会うことはほとんどなかったし、彼の学生生活の拠点は私と同じく部室にあると思っていた。正直なところ彼についてそれほど知りたいとも思わなかった。誰よりも彼の内面を知っているのは私だ、トータルで考えれば、私はこの学校の誰よりも彼との付き合いが長い、という欺瞞が心の中に巣食っていたのだろう。だから、クラスでこんなに無愛想だということも、何にも知らなかったのだ。

 結局、保健委員には雰囲気の派手なリーダー格の女生徒が就くことで、事が決着したようだった。



 この日も学校は半日授業で、私はすぐさま部室に向かった。明良は多分もう少し後に来るだろう、放課後になるやいなや例の女の子に捕まっていたから。捕獲、という様子がピッタリだったけれど、私が助け船を出せるはずもなく、不機嫌さが全開の彼によく纏わりつけるなと感心しながら教室を後にしてきた。

「ゆかり、今日は早いね」

 数分後、彼が笑顔で美術室に来たことに、私は少なからずほっとしていた。昨日みたいにおかしな苛立ちはないみたいだ。いつも通り優しくて穏やかな明良だ。

 けれど。私が委員クラス係決めのことを話し出すと、彼の様子が少し変わった。

「英語係か、私の他は皆友達同士なんだよね。ちょっと憂鬱」
「……そう? そんなに仕事が多くないだろうから、あんまり関係ないよ」

「確かに、そうかも。明良はどうして保健委員に?」
「何となく、かな」
「ふうん。でも、一緒の女の子とさっき教室で話してたよね。仲良くなれそうでよかったんじゃない」

 私がそう言うと、彼は曖昧に微笑むだけで返事をしない。気に障るようなことを言ったとも思えなかったが、何となく不穏な空気を察して別の話題に切り替えその日は終わった。



 それから幾日と過ごすうちに、私は明良の希望が何となく伝わってきた。彼は教室で私と会話することを良しとしないのだ。仲良く会話する気が起こらない理由は不明だが、彼が拒むのなら私も同じようにしようと思った。またあんな冷たい目で睨まれるのは御免だったし、美術室では今まで通りの優しい明良でいてくれたから、別段困ることなんて何もなかったのだ。

 だから、新入生向けに勧誘ポスターを作るか、という話を持ち出したとき彼が首を横に振っても、それほど不満はなかった。

「もともと部員なんて欲しくなかったから、勧誘しなくてもいいよ。二人で十分だろう」

 少しだけ残念だったのは、私たちが卒業した後に美術部は間違いなく廃部になるだろうということだった。明良の言う通り、確かにどうしても部員が欲しいわけではない。けれど、明良と楽しく過ごしている思い出の場所が自分たちの代で消えるのは、ちょっとだけ悲しかった。

 それを明良に伝える術はなかったけれど。



 そのうち私は去年と同じように、教室では自分に似た地味なタイプの子と一緒にいるようになった。明良は基本的には一人で、けれど時々きらきらした女の子たちに囲まれている。同じ委員会の子が筆頭になって彼を取り巻いていたが、正直迷惑そうだった。その雰囲気は彼女たち以外にははっきり伝わっていたらしい。ある日私は同じグループの子が彼に対して心外な評価を下しているのを耳にした。

「藤堂くんって、ちょっと怖いよね」
「確かに、かっこいいけどいつも不機嫌だよね」
「よくあんな風に近づけるなあ」

 私は彼女たちに言ってやりたかった。本当の明良はとっても優しいのよ、と。どうして教室ではこんな風に冷たく振る舞っているのかまだわからないけれど、中学生の時は、そして美術室という小さな空間では、ずっと優しく穏やかな人間だ。彼の一部を垣間見ただけで、すべてを否定しないでほしかった。

 けれど、同時に「確かに」とも思ってしまった。教室での明良はとてもじゃないが話しかけたくなる雰囲気ではない。

「同じ保健委員同士、付き合ってるのかもね」
「美男美女カップルでお似合いだけど」
「いっつも放課後話してるし、本当にそうなのかも」

 嘘だ。明良は毎日部活に顔を出しているし、彼女の話なんて聞いたことがない。というより、彼の口から他人の名前が出たことすら一度もないのだ。かつてあの煌びやかな女の子が明良にチョコレートを渡したこともあったが、悲しいかな私の空っぽの胃の中に納まった。奪ったのではない。美術室で「これあげるよ」と平然と彼が渡してきたのだ。

「いいの、これ貰いものじゃ」
「俺はお腹減ってないから。それに、チョコレートはあんまり好きじゃない」

 だから、彼らが恋人同士だという可能性はほぼゼロだ。それはわかっている。しかし、言う手だて何もなかった。彼女たちの会話は続く。

「でも、全然個人が見えてこない人だわ」
「どういう家の子かわからないしね」
「高校から入って来るってことは、一般家庭の子なんじゃないの?」

 高校受験で失敗して、一般家庭なのに分不相応にこの学校に通わせてもらっているのは私だけだ。親の希望で私立に来たと言っていた明良の家は大きな病院で、我が家と違いかなり裕福だった。しかも明良はその一人息子。順当にいけば彼が次期医院長になるのは当然のことで、中学校ではそういった背景込みで付き合っている人間もいたように思う。

 まだまだ続く彼女たちの噂話と憶測に、私は何の反論もできなかった。悔しかった。私が彼についての知識をひけらかせないことよりも、明良が悪く言われていることの方が悔しかった。



 だから私はこれから数日後、とんでもない間違いを犯したのだ。今の私ならなにがあっても止めるだろうその言葉を、あの頃の沼野ゆかりは平然と口にした。それがすべての引き金になるとも知らないで。



「ゆかり、今日は何の絵描いてるの?」
「今日は紫陽花が咲いてるのを見つけたから、記憶を頼りにそれを」

 私は色を塗るのが苦手だったから、いつも下絵だけで終えていた。今日もそう。白黒で描かれる花弁は、もはやただの落書きにしか見えなかったけれど、それを咎める人間なんて誰もいなかったから別にいいだろう。しかも、梅雨に入るとじめじめした空気に紙が弱り、絵具が上手くのらない。明良も下絵を描くだけで終わるという日が多かった。もしかしたら私が帰った後に何か描いているのかもしれないけれど。

「知ってる? 紫陽花の花言葉。『あなたは美しいが冷淡だ』だって」
「初めて知った。どうして明良はそんなこと知ってるの?」
「たまたまだよ」

 それを聞いて、私は先日の友達たちの会話を思い出した。「ちょっと怖い」「かっこいいけどいつも不機嫌」。なるほど、では。

「明良みたいだね」

 そんな考えが、するりと、口から出てしまった。

「え?」
「あ、いや……そういうつもりじゃなくて」

 明良の機嫌を損ねてしまったかと、恐る恐る様子を窺う。が、思いのほか彼の横顔は穏やかで、私はほっと溜息をついた。よかった、怒っていない。と同時に、明良が問うてきた。

「冷たい、かな」
「中学生の時と変わったな、とは思う」
「どんな風に?」
「あっちの時の方が、優しかった。もっと話しやすかったし、私はあの頃の方がよかったな」
「今の俺より?」
「うん」

 そう言うと、質問を投げかけたはずの彼は「ふうん」と言ったきり黙りこんでしまった。

「ふうん、そうなんだ」と。



 馬鹿な私。あの時もっと気の利いたことを言えていれば、絶対にこんな未来にはならなかったのに。本当に馬鹿だ。彼が内心とても怒っていたということに、どうして気付かなかったんだろう。

 次の日から、明良は変わった。



 学校に行って、まず驚いたのが彼の机の周りに人だかりができていることだった。どうしてだろう、と思いながらも自分の席にかばんを置くと、いつも一緒にいるグループの子たちが私のもとに駆け寄ってくる。

「おはよう、どうしたの?」
「藤堂くんがね、すごい雰囲気変わったのよ。明るくなったっていうか……」

 明良が明るくなった、と言われても、私はにわかには信じられなかった。けれど、事実として彼の周りにはたくさんの生徒が群がっていて、そのなかに保健委員の彼女がいるのも見える、驚きの混ざった甲高い声が聞こえる。

「ええ、藤堂くんってあの藤堂医院の息子なの?」
「じゃあ将来はお医者さんだね」
「どうしてこの学校に?」
「どこに住んでるの?」

 それぞれの問いかけに対して、湧水のように澄んだ低い声が応答する。丁寧に、優しく、穏やかに。それは私の知っているものであって、教室では聞けるはずのない明良の声だった。

 なんで、今になって。もしかして昨日私が言ったから? でも、たったそれだけで。頭の中に疑問が渦巻くけれど、明確な答えは出てこない。

 ざわめきと共に人垣が割れた。顔を上げてみれば明良が移動したらしく、その後を金魚の糞のように男女さまざまな生徒がついて行く。廊下にでも出るのだろうか。

 その様子をぼんやりと見つめていると、不意に渦中の人物と目があった。ほんの一瞬の出来事、誰にも気付かれないような寸時。けれど彼は唇の端を少しだけ上げ、そしていつも通り――教室でのいつも通り、下らないものを見たという目をして去って行った。



 明良の様子が一変してから1週間ほどたってから、彼は新しく人当たりのいい人間としてクラスに降臨することにしたらしいと気付いた。言ってみれば、中学生の頃の彼に戻り、美術室以外でも本来の優しさを発揮するようにしたということ。

 誰に話しかけられてもにこやかに返事をし、時には笑う。初めは彼の急激な変化に戸惑っていたクラスメイトも日を重ねるにつれて慣れたらしく、今では教室の、いや、学年の中心人物のように扱われていた。もともと美しくカリスマ性のある明良だ、すべての人間関係をそつなくこなしているようだった。

 私は嬉しかった。望んでいた彼の姿は実現され、もはや明良を冷淡だとか不機嫌だとか言い表す人間はいなくなった。同じグループの子が「明良は優しい」という評価を下したときは、小さくガッツポーズをしたほどだ。もう悔しい思いをしなくていいと思った。

 けれど。

 明良は私に対してだけ、態度を変えなかった。美術室という小さな空間でのみその優しさは発揮され、教室では依然冷たい目で睨み続けた。むしろ、今までよりも振れ幅が大きくなったと言っても過言ではない。教室では見向きもされず、部室ではやけに距離を縮められる。それを疑問に思わないわけでは決してなかったが、臆病な私はなぜという言葉を胸の中にしまいこんだ。

 怖かったのだ。

 これ以上明良が変わってしまうのが怖かった。美術室ですら優しくされなくなったら、私はどうすればいいのかわからなくなるだろうと、現状維持ができるならそれに越したことはないと思った。部活の時間が永遠に続けばいいと願うことがあったのは、まあ、否定しないけれど。



 そんな私の思いとは裏腹に、クラスメイト達は子供特有の敏感さで私と明良の小さな溝を見つけ出したらしい。明良が私を嫌っているのではないか、という真実には程遠い事実を作り上げて、だんだんと私を遠巻きにし始めた。仕方のないことではあると思う。美術室での私たちを知らない人からすれば、人当たりの良くなった明良が唯一邪険に扱い続けるのがこの私なのだから。何かあるのだという身勝手な憶測がいかにもな噂になるまでに、そう時間はかからなかった。

 沼野ゆかりは藤堂明良のものを盗んだ、というものから、振られた腹いせにストーキング行為を繰り返しているという噂、果ては彼が不愛想になった原因だというわけのわからないものまで。様々なネタが飛び交い、冷たい眼差しにさらされ、いつしか私はクラスで完全に孤立していた。

「ゆかり、元気出して」
「ゆかりは悪くないよ」
「いつかそんな悪い噂も消えるからね」
「俺はゆかりのことが大切なんだ、信じて」
「ゆかり」
「ゆかり」

 私の肩を抱きながら、美術室で明良が慰めてくれるのだけが救いだった。涙は出なかったけれど、その分心に澱が溜まっていくのが自分でもわかって、絵筆を握ることもいつしか億劫になっていた。向日葵の姿を画用紙に残さないうちに季節は廻り、いつのまにか紅葉の季節になっていた。



「見学希望者が来たよ」

 文化祭の季節になっても、去年同様私たちの部活は何にも準備していなかった。する必要がないと思ったし、なにより私のクラスでの立場は日増しに微妙なものになっていき、先日はとうとう靴箱にゴミが詰め込まれていた。それどころではないというのが正直な意見だった。

 なのに、明良は部活に見学希望者が来たという。もうコスモスの季節だ、何で今更と思うと同時に、とうとうここまで追い詰められたか、という諦観の念も抱いた。むしろ、今まで明良のファンが部室に押しかけなかった方が有り難いことだったのだろう。私は頷くしかできることはなく、やかましく囀る声にいっそのこと今日はもう帰ろうかと思った。けれど、「これから少しだけ先生に呼ばれているんだ」と明良が部室を離れたことによってそれも叶わなくなり、自分とは明らかにタイプの違う少女たちと狭い部屋に居続ける羽目になった。

「あなた、美術部だったのね」
「藤堂くんに迷惑かけておいて、よく図々しく一緒にいられるわね」
「こんな汚い部屋でちまちまと絵を描いているの? だっさい」

 そして、私がかつて描いた絵を見て、「暗い」と一言告げて、ご丁寧に靴跡をつけて下さった。時間をかけて描いた、枯れた向日葵。うまくかけたと思っていたのに。

「藤堂くんも、なんでこんな部活入ってるんだろう」
「流石に無理だわ、服が汚れるし」
「この女が無理矢理連れて来たんじゃないの」
「だって、美術部ってタバコ吸って廃部になったんでしょ」
「うっわ、ケムイ。最悪」
「こんなとこにいたら内申悪くなるよ、家の名前にも傷がつくし」

 がやがやと文句を言いながら私を睨み付けてくるが、こればっかりはどうしようもない。絵具で服が汚れるのは注意力の問題だろうし、明良は自分の意思でここに入部した。煙草の不祥事云々は私たちがここに来る前の話で、もう過ぎ去った過去の出来事だ。

 けれど、彼女たちにはそんなことは関係ないらしい。その後もブツブツと文句を言って、その度に私を睨み付ける。そろそろ明良が帰ってくるのではないかと時計に目を遣ると、同じことを思ったらしい。最後に「無理、帰るわ」と言い捨てて、嵐のごとく去って行った。私に舌打ちすることを忘れずに。



「あれ、彼女たち、帰ったんだ。早いね」

 数分して帰ってきた明良は、私の足跡付きの画用紙を一瞥した後そうのたまった。帰ったんだ、じゃない。こんな短時間の間にも、色々と鬱憤を晴らしていらっしゃいましたよ。そんな嫌味を込めて、私は彼に問うた。

「なんで今頃見学したいって言ってきたの? こんな時期に入ってくるなんて、普通じゃないよね」
「だって、ゆかりは部員が欲しかったんだろう? 丁度いいと思ったんだよ」

 なんてことはない、という風に彼は返事をする。まるで私のためだと言わんばかりに。

 違う。私が望んでいるのはそんなことじゃない。嫌味はむくむくと悲しみになり、気持ちはか細い声になって漏れ出す。

「……私は、部室に誰も連れてきてほしくない」

 そうだ、私はこの世界に誰も呼びたくない。新入部員なんていらない。だって、ここは。

「ここは、ここだけは、私と明良だけの場所でしょう!」

 そう、床にしゃがみ込むと、すぐさまふわりと体に暖かい腕が回された。男の人の、細いけど筋肉質な腕。明良が私を抱きしめているのだと認識するのと、耳元で彼の声が嗤ったのはほぼ同時だった。

「そうだね。ここは俺たちだけの場所だ」



 次の日から、明良はまたもとの無愛想な明良に戻った。人から話しかけられても煩そうに邪険に扱い、取り巻きたちを邪魔だ、の一言で蹴散らす。クラスの人たちは急激に変化した彼の様子に驚き狼狽え、どう扱うべきか思案しているようだった。

 そんな中、ただ一つ変わったことがある。それは。

「ゆかり」

 明良は、今度は私にだけ優しくなった。その様子に度肝を抜かれたのは、勿論わたしだけではなかった。例の保健委員の彼女を筆頭とする華々しい少女たちが、私に寄ってたかって嫌がらせをしようとしたのだ。が、それは途中で頓挫した。どうやったかはわからないけれど、実害が及ぶ前にすべての計画を阻止したらしい。

 明良は優しかった。優しく優しく、壊れやすい人形を真綿で包むように、それ以外の物は皆敵だといわんばかりに重厚に守るようになった。私の周りは静かになり、友達はいないままだったけれど面倒な噂も掻き消えた。私には、以前同様明良しかいなかった。けれど、その内容は大きく違ったものになっていた。



「ゆかり」

 今日もまた、明良が私の名前を呼ぶ。心底嬉しそうに、心底楽しそうに。わざわざ名前を呼ばなくたって、私の周りにはもう、明良しかいない。クラスメイトの言外の視線すらなくなった。意地悪な女の子たちもいつの間にか消えていた。

「どうしたの、明良」

 それでも私は返事をする。私の世界にいるたった一人だけの大切な人を喜ばせるために。

「やっぱりこの呼び方が一番いい」

 明良は嗤う。心底楽しそうに、心底嬉しそうに。最近の彼はいつもこんな感じだ。なにかいいことがあったのかと聞くと、すべてがうまくいったから、という返事が返ってきた。――何を計画していたのかはわからない。でも、何にせよ。

「明良の思い通りになってよかったね」

 私は祝福する。私の世界にいる、たった一人だけの大切な人を喜ばせるために。明良はまた嗤う。そして、

「ねえ、ゆかり。お前は一生俺だけのものだよ。俺はお前だけが居ればいいし、お前も俺がいればいいんだ」

 美術室の獣は、幸せそうにそう告げた。
需要があれば明良視点も追加します。
読んでくださりありがとうございました。
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