八
庄吾は店の奥から低い腰掛けを持って来て,おれに勧めた。自分は上がり框へ腰を下ろし,配達先から戻して来た空の籠を足元に寄せる。把手に絡んだ紐があり,挨拶をしている間にも,指先はその結び目をほどこうとしていた。
「お祖父ちゃんのことで,何遍もすんまへんな」
少年のほうが先に詫びた。大人の客を待たせたときの言い方なのだろう。謝らなくてもよい,こちらから聞きに来たのだと返しながら,おれは,この顔へ何を言えばよいかを考えていた。杉の下では,今度は自分が問いかける側になるつもりで戻って来た。腰掛けまで出してもらえば,結局はまた,答えを待つ客でしかない。
「久弥君から,独楽の話を聞いたんや。地蔵さんの前で指切りして,庄吾君の指に点がついたと」
「覚えてます。あれは怖かったです。ほんまに赤うなるとは思わんかったさかい」
「自分では唱えんと,久弥君だけが言うたんやな」
「はい。おれが返さんかったんで」
結び目がほどけ,庄吾は紐を把手に巻き直した。そこまでは,あっさり認めるのか。おれは聞き直すつもりでいたが,久弥の話と食い違うところはない。三年前には怖かったという。その怖さを,小枝に文句を教えた日にも覚えていたのだろうか。
「小枝ちゃんには,お祖父ちゃんの名を入れた文句を教えたそうやな。何も言わんでも相手の名で縛られることは,辰蔵さんに話さへんかった」
「そんな昔のこと,そのときは思い出しませんでした。小枝が煙草やめてほしいて言うて,お祖父ちゃんは,唱え方なんかもう忘れた,て。それやったら小枝だけ言うたらええやん,言うたんです」
少年は,別におれから目を逸らさなかった。思い出さなかった,か。その答えなら,さっきしずりと話したときにも考えた。こうして正面から言われると,おれのほうが次の言葉に困る。おれは,そのあとで煙草を買いに行ったことを確かめた。
「朝から頼まれてましたから。いつものお使いです」
「煙草をやめてもらう約束を勧めて,吸う物も届けた。それは気にならへんかったんか」
「お祖父ちゃんが,頼んだ煙草どうした,て言わはりますさかい。吸うかどうかは,お祖父ちゃんが決めはることやと思いました」
籠を重ねていた庄吾は,そばの籠を引き寄せかけておれの顔を見た。おれは,今の問いが気に障ったのかと,籠から離れた手を見た。膝にその手を置いた庄吾は,大人の客の話を聞くために仕事をやめたようでもある。
吸うかどうかを決めるのは祖父だ。その祖父が何を知らないかを,少年が知っていたとしたら,同じ煙草を届ける手が,まるで別のものになる。おれは同じことを聞きかけたが,膝の上の手を見ているうちに,今朝の筆先を思い出した。小枝が返事をするまで,少年は筆を少女の小指につけなかった。祖父はもういないのに,塗り直しは今も続いている。
「小枝ちゃんの指へ塗った点のことも聞きたい。消したら,自分も死ぬかもしれんと教えたんは,何でや」
「死ぬていうか,おまじないです。あの晩は,家じゅう取り乱してましたし。赤いのがあったら安心するんです」
「小枝ちゃんは,教わるまで自分が死ぬとは思うてなかったそうや。今は点が薄うなると怖がってる」
庄吾は少し眉を寄せた。しかしそれも,困った客から新しい注文を受けたときと同じ程度のものだった。
「ほな,小枝には,そうならんように言うときます」
また,彼が宥める役を引き受ける。この問いに対してすら,手伝いを申し出ることができるのだ。おれはここへ来てから初めて,次の問いを探すのをやめ,こちらが何をするかを告げた。
「その話は,おれから小枝ちゃんのお母さんと一緒にする。庄吾君からは,色が消えると危ないとは,もう言わんといてほしい」
「分かりました」
少年は頷いた。戸口に立つしずりにも聞こえていたが,彼女は口を挟まなかった。庄吾も,そちらへ別の答えを求めるようなことはしない。
奥から栄次が包みを運んで来た。手が空いたらでよいと板へ置くのを見て,庄吾が,もう行ってもよろしいですか,と尋ねる。まだ聞きたいことはある。祖父を殺せば,小枝が君の言うことを信じると思ったのか。その一つを聞くために,ここまでの話をしたとも言えた。
しかし,いいえと言われたら。
おれは,まだ聞いてもいない返事を嘘だと決めかけていた。否定したというだけで,その返事を嘘と決めることはできない。栄次の置いた包みは,まだ板の上にある。庄吾から仕事へ戻ってよいかと聞かれたことに,おれは答えていなかった。
仕事の邪魔をしたと詫びて立つと,庄吾は籠を隅へ寄せ,新しい荷を抱えた。包みの隙間から束子が落ち,膝で荷を支えながら拾い直す。気をつけて,と言いそうになる自分が,おれには少し意外だった。
*
小枝と話すときには,なつにも隣に座ってもらった。母の手が届くところに,少女の両手もある。朝に塗り直された点は丸く,この赤を洗い落として見せれば話は早い。昨日は色が擦れただけで,小枝は小指を右手で覆った。今はその小指を見せてくれている。おれは座ったまま,小枝が地蔵の前で唱えた文句を確かめた。
「小枝ちゃんが地蔵さんの前で言うたんは,お祖父ちゃんが煙草を吸わへん,いうことやな。そのあと,店で塗ってもろた赤い色を,ずっと残しとく約束はしてへん」
「塗ってもろただけやで」
「ほんなら,この赤が落ちても,小枝ちゃんが約束を破ったことにはならへん。舟の旗に塗るのと同じ絵の具や。それがあるかないかで,小枝ちゃんが死ぬとは,おれは考えてへん」
小枝が左手を母のほうへ向けると,なつがその手を受けた。おれもその赤い点を見るが,手を洗ってみようとは言わずにおく。なつはおれへ頷いてから娘に言った。
「庄吾ちゃんは,あの晩,急いで安心させようとしてくれたんやね。それが逆になってしもうたんやわ」
また,安心させるためか。なつの掌には,小枝の左手がまだ載っている。母にも,娘が嫌がらなければ,その赤ごと手を洗ってやってほしかった。おれは,嫌なら今すぐ消す必要はないが,薄くなるのを,怖い約束を破ったことと考えないでほしい,と小枝に言った。
「庄吾ちゃんに,聞いてもええ」
「聞いてもええ。お母ちゃんと一緒に聞いてな。おれの話を疑うてもええんやで」
小枝は頷かない。説明を続けようか,と思ったところで,おれは自分の言ったことを思い出した。疑うてもええ,とは,ずいぶん余裕のある言い方をしたものだ。おととい来たばかりなのに,今日はこちらの話を信じてもらえると,もう待ち構えている。なつが娘の手を離しても,小枝はすぐには膝へ戻さず,赤のついた側を上にして見ていた。
母娘は,翌朝,大阪へ帰ることになった。学校を休ませた日も長くなり,元から延ばしていた滞在を,これ以上延ばさないという。おれたちと同じ汽車に乗ると聞いて,駅まで一緒に歩くことにした。小枝が荷物を出しに立つと,おれはなつへ向き直った。
「地蔵さんの前では,大人も指切りをせんといてください。本人が唱えへんかったら安全やとは,考えんといてほしいんです。それと,庄吾君と小枝ちゃんが二人だけになるのも,しばらくは避けてもらえますか。点のことで,また違うことを教わったら困りますさかい」
なつは庄吾の名に少し目を見開いたが,明日には離れるし,今日は自分の目の届くところに置くと答えた。ありがたい。少年が何を望んだかを今この母に納得してもらえなくても,娘を一人で行かせないようには頼める。おれはその返事に頷いた。
*
駐在の巡査は,表で自転車の荷台の紐を直していたが,おれが会社の名を告げると,白尾先生からも聞いていると言って中へ招いてくれた。庄吾を疑う理由を話す前に,おれ自身が確かめたことを伝えておきたい。自分の指で試したことから話し始め,しずりが唱えた間,おれは一言も声を出さなかったと伝えた。
巡査は,机に置いていた左手の小指へ目を落とした。赤などあるはずもないが,薬指と反対側を,親指で撫でる。
「子供には,できる約束だけにしなさい,と言いますな。そう言うておけば,大人は注意してやったつもりになる」
「おれも,初めはそれで済むと思うてました」
「名を言われただけで,その子に効くんやったら……。何も言わん子のことも,見てなあかんのですな」
巡査は,子供たちの約束を聞いて,それならよいと許してやったこともあるのだろう。おれはそのことを尋ねず,なつと話したことを伝えた。
「今までと同じ用心では足らんので,大人にも,あそこで指を組まんように言うてきました。小枝ちゃんは明日,母親と帰ります。今晩,宿へ寄って,点のことで困ってへんか聞いてもらえますか。母親には,庄吾君と二人だけにせんよう頼んでます」
巡査は頷き,左手を机の下へ引いた。おれが庄吾を疑う理由と,本人に尋ねたときの返事を伝えると,彼は少し考えてから口を開いた。
「庄吾が,辰蔵さんは吸うたら死ぬと知って,煙草を持っていった。そうお考えなんですな」
「はい。故意やと疑う理由があります。ただ,本人は昔の指切りを,そのときには思い出さんかったと答えてます」
「その返事も含めて,署へ伝えます。医者も死因を言い切っておらんし,遺体の指はもう調べ直せません。煙草を運んだのは間違いなくても,何を知って,どうするつもりやったかは,別に確かめななりませんから」
巡査は小枝の帰る日と,今夜も母のそばにいることを確かめ,宿へ寄り,少年の話も聞くと答えた。おれは会社にも疑いを含めて書くと伝え,玄関で帽子を取ったまま礼を言った。
庇の陰から出て来たしずりは,日の当たる通りを見て,裏の水路沿いへ帰ろうと言った。そちらは少し遠い。おれが黙っていると,まだ急ぐ用があるかと尋ねられた。
「ない。そっちから帰ろ」
これでよかっただろうか,と聞くために名前を呼びかけて,やめた。巡査に伝えることを決めたのはおれだし,今答えをもらえば済む問いでもない。しずりはおれの半歩前を,軒から水路の陰へと歩いていた。追いつくために少し足を速めると,彼女も角のところで待った。
その晩,女将の取り下げに続いて,庄吾による殺害を疑う理由を報告に書き,昔の指切りを思い出さなかったという本人の返事を添えた。階下から聞こえてくるのは,母娘が明日持って帰る品を確かめる声だ。小枝が何かを忘れたと言うと,なつは,まだ間に合う,と答える。




