九
十五日の朝は,しずりに起こされずに済んだ。目が覚めたときには,彼女はもう部屋にいなかった。顔を洗って廊下へ出ても姿はなく,先に玄関へ下りて待とうと思ったが,階段を半ばまで下りると,白い袖が見えた。しずりはもう下にいて,日傘を持ったままこちらを見上げている。いつから下で待っていたのだろう。せっかく早く起きたので,聞くのはよしておいた。
女将に出かけると伝え,辻から畑の道へ入った。水鉢にも地蔵の前にも人はいない。昨日覚えた道なので,しずりは先へ行き,おれは呼べば返事の届くくらい後ろを歩く。水溜まりを避けても,草の先の露が靴へついた。この程度まで濡れないという条件に入れなくてよかったと思う。帰るまでには乾くし,何もかも避けていたら畑の向こうへ出られない。
杉から低いほうへ曲がると,しばらくして石垣が途切れた。重なった岩の下から,透明な水が流れ出している。上に枯葉が溜まっているので,初めは土から染み出すように見えたが,水の筋を目で辿れば,葉の下にも黒く濡れた石が続いていた。その隙間の奥から,細かな砂を動かしながら水が来る。
しずりは岩の脇に屈み,石に沿って片手を差し入れた。おれも隣に膝をつく。靴を水へ入れずに手が届き,袖もたくし上げておけば濡れない。昨夜まで気にしていた条件は,この場所では何の苦労もなく満たされた。
「ここならええ」
「そうじゃろう。触ってみよ」
指先をつけたときは,昨日より冷たい,で済んだ。掌まで入れると,思わず息を吸う。これは,少し。引き上げかけた手を止め,指を開いてみると,その間へ次の水が入り込んでくる。しずりはこの中へ,さっきから手を入れたままなのか。鉢に溜まった水なら,触っているうちに自分の手の周りだけはぬるくなるが,ここには次の水が来る。昨日,しずりの指より上でおれが堰いたのは,この流れだった。
「地蔵さんのとこより,冷たいな」
「うむ」
「けど,長う入れてたら,おれの指は動かんようになりそうや」
手を出し,両の掌を擦り合わせた。しずりは同じ姿勢で,ときどき指を少し開いている。そちらへも同じ水が流れているはずなのに,見ていれば寒そうには思えなかった。
「もう終わりか」
「まだおるよ。手ぇは,休ましてくれ」
「それならよい」
おれは膝を払って立ち,手拭で指の間を拭いた。宿へ戻ったら朝飯,それから荷をまとめて,女将に挨拶をして——。時計を出しかけ,まだ帰るとは言われていないことに気づく。おれも,まだおる,と答えたばかりではないか。手を上着の内へ入れて温めながら,しずりの手元を見た。水へ浸していた指が二本,順に浮き,少し遅れて,もう一本が動く。
「何か数えてるんか」
「鳥の声じゃ。終いにもう一つ,小さく鳴く」
高い枝の間で,また声がした。初めの二つは聞こえたが,あとは水の音に紛れてしまう。おれがそちらへ首を向けると,しずりの指がまた動いた。今のが三つ目らしい。
「こうか」
唇をすぼめて真似てみた。初めは口笛になったが,終いを小さくしようとすると,息ばかりが漏れる。しずりは水に手を入れたまま,おれを見上げた。
「そこは,短くても音を出すのじゃ」
「出すつもりやったんや。ほんなら,しずりもやってみてくれ。聞いたら分かるかもしれん」
彼女は口をすぼめ,二度,短く鳴らした。おれのより細い音だったが,そこで止まる。続きを待っていると,同じ二つが聞こえた。
「終いの一つは」
「鳴らぬ」
鳴らぬのは分かった。おれが試すと,今度は三つとも音になったが,枝の上の声よりはるかに長い。これで寄って来る鳥がいても,さっきの鳥とは違うかもしれない。
「何いう鳥か,知ってるんか」
「知らぬ。姿を見れば分かるかと思うておった」
おれも枝を捜したが,次に声がしたのは,少し離れた木の陰だった。二人分の口笛を聞きに来るつもりはないらしい。しずりはまた水へ目を落とした。おれも岩の脇へ屈み,温まった片手を,彼女の邪魔にならない下手の流れへ入れた。今度は,指先だけにしておく。
少しして時計を出すと,しずりが顔を上げた。
「もう帰る時刻か」
「決めたんは,もうちょっと先や。せやけど,来た道を上がると,そろそろ日が当たり始めるな」
「水の傍を下って,畑へ出る道はどうじゃ」
岩を回り込むように,細い道が反対側へ続いていた。どこへ出るかは聞いていない。遠回りならまだしも,水と一緒に人家の下へ入る道では困ると答えると,しずりは,畑が見えなければ戻ればよいと言った。
「戻る分まで考えたら,そろそろ出たほうがええな。次の曲がり角で何も見えへんかったら,元の道にしよ」
「では,そうしよう」
彼女は水から手を上げ,雫が切れるまで待ってから立った。おれに合わせて切り上げたという声ではなく,次に歩きたい道が決まった声だった。今度はおれが先に立ち,石の間から続く道へ入った。
曲がり角を一つ過ぎると,枝の間に畑が見えた。そこで戻るという条件がなくなり,次の角を曲がれば,昨日の水溜まりより下手へ出る。町はすぐそこだった。
「来るときにも,この道でよかったのう」
「来るときに言うてくれたら,こっちで来た」
「いま歩いたので分かったのじゃ」
それもそうである。自分の知らない道を選んだ相手は,もう行き先まで知っていたように思ってしまう。おれは畑へ出る曲がり角を覚えておこうとして,このあと歩く用事はもうないと気づいた。それでも,また来るなら,この道から上がれる。
家並みの陰へ入ると,しずりは持ち上げかけた日傘を開かず,脇へ戻した。朝食までにはまだ間があり,おれは自分で思っていたより腹が減っていた。
*
朝飯を済ませて荷を玄関へ運んだころ,庄吾が平たい包みを抱えて来た。小枝に持って帰ってもらおうと思って,と言い,なつがいる框の上へ紙を広げる。
無地の紙を揃えた束,細く削った竹,短い筆。赤い絵の具の乾いた小皿だけは,割れないよう別に包んであった。庄吾は竹の先を指でなぞり,丸くしてあるところを小枝へ見せた。
「旗を立てるとこは,先に穴開けとき。無理に突っ込んだら,底が破れるさかいな」
「これやったら,大阪でも作れるな」
少女は紙を一枚抜き,框へ広げて角を合わせた。舟に開くところで少し迷い,庄吾が指を出しかけたが,彼女は自分で両側を引いた。底の角が起き,左右に舷ができる。真ん中に竹を差す穴を開けると,ここに立てて,と舟と竹を庄吾へ渡した。庄吾が竹を立てて返すと,小枝はちゃんと舟になったと笑い,今度はなつにも見てもらうために,両手で差し上げた。
「このまま持って帰る。潰したらあかんで」
「ほな,ここへ入れよ。上に何ものせへんようにするさかい」
母は荷物の上を少し空け,乾いた舟を包む紙を出した。小枝が舟から竹を抜いて添えると,それも別に挟んでくれる。今朝は水へ浮かべる暇がないと分かっていても,舟を作った時間は,それだけでこの子のものになっていた。
小枝は小皿の包みをほどき,土間の水差しを指さして,少しほしいと言った。なつが皿へ水を垂らすと,娘は筆先で乾いた赤を溶いた。その左小指の点は昨日より薄く,丸い輪郭も欠けている。彼女は舌を少し出し,自分でそこへ小さな点を描いた。庄吾がつけたような丸にはならず,端が少し尖ったが,直してくれとは頼まなかった。
「まだ塗るん。もう,それがのうなっても怖がらんでええんやで」
なつが言うと,小枝は笑った。
「うん。分かってる」
同じ色を塗っていても,昨日までとは違った。庄吾に手を差し出して待つのではなく,自分で筆を持ち,少し歪んだ点もそのままにしている。怖くないという話を聞いたらすぐに塗るのをやめる,それだけが分かった証しではない。塗るかどうかまでこちらで決めずに済むよう,昨日おれは話したのだ。小枝は自分で決め始めていた。
大阪へ戻れば,この絵の具で旗もほかのものも塗るだろう。手にもつき,母と洗えば落ちる。そういう午後を重ねるための道具を,自分の荷へ入れて持って帰れる。庄吾の筆を毎日待つ暮らしは,ここで終わるのだ。おれは少女から筆を受け取ろうとはせず,土間へ自分の鞄を下ろした。
小枝が庄吾へ筆を渡し,少年は手拭で筆先を拭いた。なつが小皿を紙で巻き直すのを見ていると,学校から帰った小枝が,その包みを自分で開けて母を呼ぶところまで思い浮かぶ。旗ができるたび,なつは呼ばれるのだろう。奥の部屋から女将が忘れ物があると娘を呼び,なつは,もう出るよ,と答えながら隣の座敷へ入った。おれのすぐ横では,しずりも日傘を閉じたまま待っている。
「また来たら,舟作ろな」
庄吾が言い,小枝は頷いた。おれは土間に屈んで靴紐を結びながら,荷物のいちばん上にある舟を見る。これを流すころには,なつも一艘折って,二つ並べて競べるのもよい。しずりの通るところから鞄を足元へ寄せておく。小枝が袖を濡らしたら,なつにまくってもらえば,また遊べる。
腕一本ほど先で,小枝が庄吾の袖を引き,框の上で身を屈めた少年の耳へ口を近づけた。なつはすぐ隣の座敷にいるのだし,別れの挨拶ぐらい,急かさずに待ってやろうと思う。
「お母ちゃんもお祖父ちゃんみたいに殺してくれたら,もう誰にもほんまにって聞かんと,庄吾ちゃんの言うこと何でも信じたげる」




