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針ぼくろ  作者: 左藤 握
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7/9

七

 翌朝の布井屋には先客がいた。竹箒を五本揃えて,明日の昼までに届けてほしいという注文だった。庄吾は店先の束から一本ずつ抜き,穂の先を確かめながら並べていく。五本目を置くと,明日の昼までに持って行けます,と答えた。


 客は,奥で荷を開けていた栄次へ顔を向けた。


「五本,あるんやな。明日の昼まででええんやろか」


「ええ,揃うてます。明日の昼までに持って上がります」


 父の答えを聞いて,客は頼むわと言い,帰っていった。息子の言ったことは何も違っていなかった。値を下げる話でも,初めての掛けの頼みでもない。おれが少し気にしたのは,庄吾が五本の柄へ縄を回したまま,父の返事が終わるまで結ばずにいたことだった。注文が決まってから縛る。それだけなら,むしろ当然の手順である。


 おれに気づくと,庄吾は縄の端を切り,奥の父を呼ぼうとした。君に話を聞きたいのだと告げると,そばの別の包みへ目を落とす。今日届けるものがまだあるらしく,栄次が,昼まで待ってもらえれば,と横から言った。


「それまでに,湧口への道を教えてもらえますか。杉のところを曲がる,と聞いたんですけど」


 そこへ小枝が,店の横手から入って来た。母に,ここで少し本を読んでいると言って来たらしい。昨日も読んでいた読本を抱え,店の脇の板へ載せると,庄吾に左手を差し出した。


 栄次は戸口へ出て,町の裏へ抜ける道を指してくれた。二つの畑の間から上がり,一本だけ立った杉を目当てにする。おれはその方角を見てから,隣で小皿を出す少年へ目を戻した。昨日,石へ擦れた赤が,小枝の指にはまだ薄く残っている。


「もう薄なってるやん。じっとしてな」


 庄吾は筆先を濡らし,小皿の底の赤を溶いた。


「これで,ほんまに大丈夫なん」


「大丈夫やて。昨日も,その前も,何ともなかったやろ」


 小枝が顔を上げ,庄吾の筆が止まる。指を動かしたから塗れないのかと思ったが,少女の手が板の上で静まってからも,筆先は触れなかった。彼女が「うん」と言うと,ようやく少年は小指へ赤を置いた。小さく,丸く。余った色を皿の縁で落とし,乾くまでそのままにしておくよう言う。


「杉の向こうで道が二つに分かれますさかい,低いほうを行ってください。上がると別の山道になります」


 栄次が説明を終え,おれは礼を言った。


「ほんなら,昼に来るわ」


 庄吾は小皿へ水を足しながら,はいと答えた。小枝の読本を開いてやり,途中に挟まっていた紙を横へよけてから,配達の包みを担ぐ。小枝は筆のほうをもう見ておらず,彼が出ていく間も頁を追っていた。


 しずりに,道の分かれるところまで歩いてみたいと伝えると,湧口まで行くのは明朝なのだな,と確かめられた。


「そうや。今日は明日迷わんために,道を見るだけ。昼には店へ戻る」


「それならよい」


 彼女は日傘を開いて軒を出た。明朝は,ここから二人で湧口まで行く。曲がり角を見ておくだけでも,しずりを途中で待たせずに済むだろう。


 *


 町の裏へ出ると,家と家の間を流れていた水が,畑沿いの細い溝になった。二人並べる幅の道はあるが,低い畦がところどころ張り出し,雨の残りらしい水溜まりもある。しずりは畦を踏まず,足もとを濡らす心配もせずに進むので,おれは何度か置いていかれた。


 杉の下で道が分かれ,一方は山裾へ上がり,もう一方は石垣に沿って低いところへ続いていた。湧口のほうから来る水が,幹の脇の石の間を抜け,浅い溝へ落ちている。しずりは日傘を閉じ,流れに指を浸した。


 おれは帽子を取り,汗を拭いた手拭を濡らそうと,しずりの指より上流の石の間へ両手を入れた。水を掬うと,おれの手より下流にあるしずりの指へ届く流れが細くなる。


「そこで水を堰くな」


「手拭を冷やすだけや。すぐどける」


「下でも冷やせる。ここは指の間を水が抜けて,よいのじゃ」


 同じ水のどちらへ手を入れてもよいと思っていたのは,おれのほうだった。掬った水を流し,しずりの指より下流の窪みで手拭を濡らす。彼女はもう何も言わず,細い流れに指を浸していた。おれも冷えた布を首筋へ当て,杉の根元の乾いたところに腰を下ろした。汗が引くまでは,まだ少しここにいることになる。


「庄吾君が仕組んだんやと思う」


 ほかに聞く者のいない場所まで来て,ようやくその言い方ができた。しずりは水から手を上げ,聞いていた。


「小枝ちゃんには祖父の名を教えて,辰蔵さんには指だけ貸したらええと言うた。三年前,自分が何も言わんでも点がついたのを知ってたのに,そのことは教えへんかった。約束を作ったあとで,煙草を買うて届けてる」


「三年前のことを忘れておったとは考えぬか」


「それは本人にも聞く。けど,自分が慌てて独楽を返しに走ったことや。指切りそのものを忘れてたんやったら,小枝ちゃんにあんな文句を教えへんやろ。名を言わなあかんところは覚えてて,黙ってても名を呼ばれたほうに効くところだけ忘れた,いうことになる」


 おれは左小指を伸ばした。久弥の話がただの聞き違いなら,昨日の朝,自分に起きたことと,こんなに同じになるだろうか。赤い点を洗って,まだ残っているから約束を果たす。手順まで同じなのだ。おれの場合は,地蔵の頭に触るだけで済んだ。


「辰蔵は,その赤を庄吾につけられたと言うておったな」


 しずりの言葉に,おれはなつの話を思い出した。昨日は自分の指で,今日はわしに悪戯しよった。


「前の日に塗った赤を拭いてるさかい,今度も同じやと思うたんやろな。自分は何も誓うてへんし,それで十分やった。庄吾君は,昼に祖父を縛る文句を教えたあと,その人が吸うもんを届けに行った」


 朝の頼まれものだから,家の誰にも咎められない。むしろ,忘れず届けてくれたと礼を言われる。けれど,庄吾は届ける前に指切りをやめさせることもできたのに,小枝にゆっくり言わせ,祖父には何も言わなくてよいと教えるほうを選んでいる。


「五日の悪戯も,初めからそのつもりで」


 そこまで言って,おれはやめた。拭い取られることまで承知の仕込みなら,少女が祖父を呼びに行くことも予定しなければならない。五日の少年は,自分の赤を見せて地蔵の約束を信じさせたかっただけなのだろう。自分まで本物の約束を作らずに,赤い点だけを見せればよい。それを祖父が拭い,翌日の昼には,自分の指にも同じ悪戯をされたと話している。祖父の思い違いを当てにできるのは,赤を拭われたあとなのだ。


「あそこで辰蔵さんと小枝ちゃんに笑われたのが,よほど腹に据えかねたんやろ。せやから次の日は,ほんまの指切りをさせた。今度は笑えんように」


「腹が立っただけなら,娘に今も点を塗るのは,なぜじゃろう」


 おれは手拭を畳むのをやめた。祖父はもういない。では今朝,あの筆で何をしていた。殺した理由まで分かったと思い,店へ戻って何を聞くかを考え始めていたのに,今見て来たばかりの手が残っている。


「そこが,仕返しでは済まへんのやな。辰蔵さんが亡くなったあと,小枝ちゃんが怖がるようになったさかい,塗ってやってる……」


「娘は祖父がどうなるかを聞いておった。自分も死ぬかもしれぬと教えたのは,誰じゃ」


「庄吾君や。おれが,また順を違えてる」


 小枝は,初めからそう話していた。祖父のそばを離れて店へ行き,赤を消したら自分も死ぬかもしれないと教わった。その上で,消えないように塗ってもらう。宥めるだけなら,祖父が死んでも君まで死ぬわけではない,でよかったはずだ。おれは広げた手拭を膝へ置き,しずりのほうへ向き直った。


「怖うなったら,自分を頼ってくる。そのために,今も塗ってるんやろか」


「娘なら,怖くなる前から来ておった。舟を作ってもらいに。五日にも,筆を洗ったあとで作ってくれたと,母親は言うておったな」


「そうや。久弥君の話でも,追い返された子らが,翌日には折り方を教わりに戻ってる。小枝ちゃんかて,辰蔵さんが生きてても舟を持って来る。それで足りてへんのか」


 五日,小枝は赤を見せられて,祖父を呼びに走った。地蔵のことを教えたのは庄吾なのに,本当かどうかは祖父に聞く。今朝の客も,箒は五本揃う,明日の昼までに届ける,という返事を聞いてから,奥の父へ顔を向けた。栄次の答えも同じなのに,客が帰ったのはそれからだ。父が答え終わるまで,庄吾は五本の柄に回した縄を結ばずにいた。


 それから小枝の手。板の上で動かなくなっても,庄吾はまだ塗らなかった。指が静まるのを待っていたのではない。「うん」と言うまで,筆先を浮かせていたのだ。


「庄吾君が言うたら,それで信じてほしかったんや」


 おれは手拭を絞り直した。もう首は冷えていたのに,何か手ですることがほしかった。


「去年の夏にも,話を笑われて子らを帰しておる」


「決まりは,その二年前から知ってた。けど,辰蔵さんを死なせることまで考えたんが,いつかは分からん。五日の朝に思いついたんか,煙草を頼まれた朝か」


 しずりは再び水へ指を入れた。先ほどおれが堰いた場所へ,細い流れが戻っている。


「小枝ちゃんには,点が偽物やと分かってもろたら——」


「塗った点だとは,初めから知っておる。消えるのを嫌がるのは,そのためではなかろう」


「そうやな。色が落ちることと,約束を破ることは違う。そこを,母親と一緒に聞いてもらう」


「主が言えば,それでよいのか」


 昨日,少女の手がすぐに開かないことを,もどかしいとは思わなかったか。おれが大丈夫だと言っているのに,という思いが全くなかったとは言えない。急いで助けたいという口実をつければ,こちらの言うことには疑いを挟まなくてよいと教えかねないところだった。


「おれの言うことも,母親に聞いて確かめてくれたらええ。自分で洗うて,何ともないことを見てもええ。あの子が自分で決められるようには,したい」


「では,それも娘に言うのじゃな」


 頷いた。しずりが代わりに言えば少女も納得する,という都合のよい方法は,おれたちの間にはない。彼女は小指を貸し,水を見ながらおれの話を聞いた。戻って何と言うかは,まだこちらに任されている。


 引き返す道には日が当たっていて,手拭を首筋へ当ててみても,さっきほどには汗が引かない。しずりは日傘を開いて少し足を速めたが,水溜まりの手前では,おれが靴を濡らさずに通れる外側へ回った。礼を言うほどのことかと迷っているうちに,彼女が,明朝ならこの道も冷えている,と言った。


「そうやな。あの水,朝はもっと冷たいんやろ。明日は夜明けから出よ」


「雪は,もう少し暗いうちでもよい」


「おれには,道が見えるようになってからにしてくれ」


 しずりは歩きながらおれの靴を見た。暗がりでは水溜まりを避けるにも時間がかかると分かってくれたのか,それ以上早く出る話にはならなかった。ぬるくなり始めた手拭を首から外しながら,杉のところであの冷たさなら,湧いたばかりの水はどれほどだろうと思う。明日の朝は,しずりに起こされるより先に目が覚めるかもしれない。

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