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針ぼくろ  作者: 左藤 握
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6/9

六

 女将は昼を少し回ってから戻った。玄関で,どの家へ何を返したかをなつに伝え,草履を脱いで上がろうとするところへ声をかけると,少し待ってください,と頭を下げた。おれも座敷へ戻り,昨日と同じ場所で待つことにした。


 庭には物干し竿が一本渡され,洗った白布が風をはらんでいた。裾が手水鉢の水へ近づくたび,しずりの目もそれを追う。竿へ戻してやればよいのか,かえっておれの手で汚すことにならないかと迷ううちに,女将が来た。こちらへ座る前に庭へ下り,布を竿へ二重に掛け直す。待たせたことを詫びられ,おれは,急がせたのはこちらです,と答えた。


「主人の手のことやそうですね」


「はい。お支度をなさったとき,小指に何か見えませんでしたか」


「あの点のことですか」


 女将には,おれが小指の何を聞きたいのか,すぐに分かったらしい。昨日,孫の文句は本人に聞かなければと言って,女将が小指を伏せたことを思い出す。今思い出せるからといって,昨日も察していたわけではない。おれは,ご主人にも赤い点があったのですね,と確かめた。


「左の小指に,皮の中へぽつんと。汚れやったら落ちるやろと思うて,湯で洗うて,布で擦りました。けど,傷口もないし,布にも何もつかしまへん。五日の朝に庄吾が塗ったいう赤とは,違いました」


 今朝,おれが見た点と同じ性質だった。小枝の唱えた名と文句が祖父を縛り,夕方,禁じた煙草を吸ったことで約束を破った。遺体に点があったという話を,昼から夕方までの順の中へ置くと,そこまで考えられる。首に針が見つかったかどうかだけを捜していては,この小指へ戻れなかっただろう。


「先生には,お伝えにならへんかったんですか」


「そのときには,もう帰ってはりました」


 女将はそこで黙った。だから後日にも言えなかった,とは続かない。続きを促すつもりで向けていた顔が,待っているだけでも責める顔になることがある。おれは庭の白布を見た。風に膨らんでも,今は水へ届かない。


「小枝が,自分で考えた文句やありません」


 女将のほうから口を開いた。


「煙草やめてほしいとは言いましたけど,名まで入れるのは庄吾が教えたんでしょう。本人は,お祖父ちゃんに長生きしてほしゅうて。何を言うたかばっかり聞かれたら,あの子はどう思うでしょう」


「怖がらせたことは,すんまへん。ただ,言うた言葉と,誰かを死なせようと思うたことは,同じではありません」


「町の人は,同じにしはります」


 そんなことはないでしょう,という言葉を喉で止めた。まだ二日しかいない町について,住んでいるこの人に保証できることがあるはずもない。返事を待たず,女将は膝を少し進め,畳に両手を置いた。


「お金は,もう結構です。あの人が長いこと掛けてたもんですさかい,いただけるならと思いましたけど,小枝が祖父を殺したんやと,誰か一人でも言い始めるんやったら,もう要りません。請求は取り下げます」


 会社には都合のよい申し出だった。請求がなくなれば,支払うかどうかの決定も要らなくなる。しかし,おれが来て孫のことを尋ねた挙句に,女将が金を諦める。これで仕事が済んだと二階へ上がるのか。少なくとも明朝まではここにいるのだから,今すぐ返事を受け取らずに済むではないか。おれは膝に置いた両手を少し楽にした。一晩待つくらいのことなら,会社へ断りを入れなくてもできる。


「今日ここで決めてしまわんでも,よろしいんです。明日の朝までお考えになっても」


「考えました。朝から,道具を返しに回りながら」


 朝から。おれが点のついた時刻を尋ね歩いている間にも,女将は請求を取り下げるかどうか考えていたのだ。夫の手を洗い,赤が落ちないのを見たのは,おれが来るより何日も前である。


 それなら,明日の朝に改めて。そう言いかけて,続きを失った。今の返事を,明日も聞きに来るつもりか。女将は両手を畳についたまま待っている。楽にしたはずの膝がまた窮屈になり,おれは少し座り直した。


「承知しました。取り下げのお気持ちは,そのまま会社へ伝えます。ただ,聞いたことを,なかったことにはできません」


「小枝の名も,書かはるんですね」


「誰が何を言うたかは書きます。けど,小枝ちゃんが殺そうと思うて言うた,とは書けません。そういう事実を確かめたわけやありませんから」


 女将は両手を畳に置いたまま聞いていた。言い足せば足すほど,金を失わせる側の弁解をしているようで,おれはそこで口を閉じた。彼女は,町へ言って回るのでなければ,とだけ答えて,手を膝に戻した。


「あの子には,もう地蔵さんで遊ばんように言います」


「なつさんと一緒に話してもろたほうがええと思います。指の点は絵の具です。それが消えても,小枝ちゃんが約束を破ったことにはなりませんから」


「絵の具やいうのは,なつから聞きました。庄吾が,あの子を宥めるためにしてくれたんですね」


 久弥と独楽の指切りをしたときから,庄吾は黙っていても約束に縛られると知っていた。その少年が,六日には祖父へ煙草を届けている。おれが「宥めるためやと,庄吾君からお聞きになったんですか」と尋ねると,女将は首を振った。「あの晩は,うちらも主人のことで精一杯でしたさかい。小枝のそばに,誰かいてやらんと」と言う。女将は,少年から聞いた理由を答えたのではなかった。女将たちが相手をしてやれない間,庄吾は小枝を引き受けてくれた。そのことへの礼も,宥めるためにしてくれたという言葉にはあるのだろう。


「庄吾君にも,その説明について聞きます。小枝ちゃんには,なつさんのおるところで,点のことで怖がらんでもええように話します」


 女将は立ち,箪笥の脇へ行った。煙草盆をしまうのかと思ったが,取ったのは立て掛けてあった細い杖だった。手で握るところだけ濃い飴色になり,下の先端には,新しく削った木肌が出ている。


「小枝が来る前の日に,この先を削ってました。歩きながら小石を突くもんやから,ささくれて。小枝に危ない言われるから直すんやて」


 おれは,その杖を使って歩く辰蔵を一度も見ていない。知っているのは,黙って指を組み,煙草の封を開け,息を詰まらせた男ばかりだった。小枝が来ると,何か危ないところがないか見て回るのだろう。それを承知で先に杖を削っておき,節句の朝には少年の絵の具を拭って孫娘と笑う。こちらが聞くことを選んでいる間にも,そういう老人が一人,この家からいなくなっていた。


 女将が杖を戻すと,しずりの目もその手元から離れた。庭の白布は,もう水へ触れそうにならない。


 部屋を辞したあと,廊下の向こうで小枝が読本を読んでいる声を聞いた。言葉を読み違え,母に直されると,文の初めからやり直す。叱る声でも,怯えた返事でもない。祖母が残したいと思ったのは,こういう午後なのだろう。おれはまだ,自分の来たことが,そのための助けになっていると言えるほどのことをしていなかった。


「会社の仕事は,ここで終わるかもしれん」


 二階への階段に足を掛ける前に言うと,しずりが立ち止まった。


「主は,明日帰るのか」


「いや。庄吾君に聞いてからや。それに,あの子へ話す用もある」


「では,部屋をもう一晩頼むがよい。女将は片づけを始めるぞ」


 おれは階段から引き返した。請求がなくなれば,用のなくなった客が,いつ発つかも言わずに二階へ上がるところだった。女将は明日の米や,干す布団のことを決めなければならない。こちらの考えがまとまるまでは家じゅうの用事も待ってくれる,という顔をしていては困る。勝手口へ向かう背中に,今度はもう一晩泊めてもらうよう頼むために声をかけた。

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