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針ぼくろ  作者: 左藤 握
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5/9

五

 女将は朝から,葬儀に借りた道具を返しに出ていた。遺体の手を洗ったのは母です,と,朝の膳を下げに来たなつが言う。自分は湯を運んだだけだったというので,女将が戻ったら知らせてもらうことにし,先に小枝の指について尋ねた。


「六日のお昼に,地蔵さんから帰って来はったとき,赤い点はありましたか」


「あの日からですさかい,あったと思います」


「そのときに,なつさんは見はったんでしょうか」


 彼女は空いた皿を重ねかけて,手を止めた。皿の縁を揃えるように合わせ,少し考えてから首を振る。


「昼は,うち,お膳を出してました。そやから,よう見てへんかったんでしょうな。あの地蔵さんで指切りしたら,つくものやと思うて……」


「お父さんが倒れはるまでに,ほかに見た方は」


「姉さんのとこへも寄ってますよ。庄吾と帰って来る途中で。また舟を見せてたんやないでしょうか」


 もう見ているものは,いつからでもあったように思える。なつは,見たと言い切ったあとで引っ込めたのではない。初めから「あったと思います」と言っていたのだ。こちらが確かめたかったところを,聞いたつもりで受け取らないよう,おれは皿を持つ彼女の手が空くまで待って礼を言った。


 布井屋では,父親が笊(ざる)の縁を直していた。布井栄次(えいじ)と名を返し,庄吾は配達に出たという。妻ののぶも得意先へ行っていて,すぐには戻らないらしい。


 六日の昼に小枝が来たのは覚えているという。舟を見せに寄った,と聞いて,おれはそれを両手で持つ少女を思い浮かべた。それなら小指も見えたのではないか。赤い点がなかったかと,尋ねてみる。


「舟は見ましたけどな。指までは。晩に来たときのことと,一緒になってしまいますわ。あの子,何ぞ手を怪我したんですか」


 昼の指か,晩の指か。重ねて尋ねれば思い出してくれるかもしれないが,こちらが欲しいほうを選んでもらうことにもなりかねない。怪我ではないと答えると,栄次は膝の笊へ目を戻した。割れた竹を差し替える仕事らしく,細く削った端が足元に溜まっている。横には荷の包み紙から無地のところだけを切り取った束があった。小枝の舟の紙もそこからかと聞けば,捨てるものなら息子に好きに使わせている,という返事になる。


「絵の具は学校で使うてた残りです。品物を潰されたら困りますけど,あれもそのくらいは分かってます。数えで十六ですから」


「高等のほうも出てはるんですな」


「二年通うて,去年の春に。店へ入って,もう一年ちょっとですわ」


 父の口から出る息子の年は,昨日の水辺でつけた見当と合っていた。尋常から八年通って店へ出たというから,実の年なら十五だろう。新しく掛けで売る話と値引きは,まだ自分に聞かせているという。


 材料の出どころも,庄吾の毎日も分かってくるのに,昼の小指だけが誰の話にもない。店を出て,また見ていない人を捜すのか。せっかく息子の話をしてくれているのだ。店の外の遊びのことも,この父親は知っているだろうか。


「庄吾君は,地蔵さんの指切りをようしてはりましたか」


「そこまでは知りません。嫁は,危ない約束だけはするな,言うてましたけど」


「一緒に遊んだ同じ年の子で,今も町にいてはる方は」


 栄次は削りかけの竹を止め,川沿いの桶屋を挙げた。そこの加戸久弥(かどひさや)が同じ級だったらしい。いない息子に代わって昔の遊びを聞ける相手を,こちらから頼んで,やっと教えてもらえた。


 店を出ると,しずりが水鉢を見ていた。桶屋の久弥のことを伝えながら,おれもそちらへ目をやった。小枝がいる。今度の旗は昨日より幅が広く,少女はその赤を朝の光へ透かしてから,舟の中央へ竹を差し直した。


「先に桶屋か」


「その前に,小枝ちゃんに聞く。昼についた点を誰が見たか,ばっかり捜してたけど,昼についたかどうかも,まだ決まってへん。初めて点を見たのがいつなんか,そっちからや」


 しずりと並んで水鉢へ寄ると,小枝は舟を掲げて見せてくれた。


「今日のは,うちがここ折ったん。庄吾ちゃんに教わって」


 舷(ふなべり)の角が片方だけ低い。そこを直してくれと差し出したわけではないので,おれは見たままに,昨日より広い舟だと答えた。少女は頷き,水へ下ろす。舳先のほうへしゃがみ直しながら,舟が回らないよう,しばらく片手で追っていた。


 旗が傾き,舟は水の出ていく口の石へ斜めに寄った。少女は左手を水へ入れ,舳先を押して向きを変えようとした。その小指が,濡れた石の縁を擦る。手を上げたとき,点の丸い輪郭の片側がなくなり,指の付け根へ向かって薄い赤い筋が延びていた。


 小枝は舟を引き上げて石の縁へ置き,右手で左小指を覆った。顔を向けた先は布井屋で,店に見えているのは父親だけだった。


「痛かったんか」


「痛うない」


「その指,見せてもろてもええやろか。無理に拭いたりはせえへん」


 返事の代わりに,小枝は舟へ目をやった。濡れた紙を旗の重さが引っ張り,底が裂けかけている。しずりが竹を抜いて舟の脇へ置くと,少女は旗を取ろうと右手を伸ばした。覆いを失った左小指に,さっき見た赤い筋が残っていた。


 水に濡れただけで色がなくなったのではない。石と擦れたところで,皮膚の上の色が動いたのだ。今朝のおれの点と同じに扱うことはできない。とはいえ,少女はそれを隠して騙そうとしたのではなく,消えることを恐れているらしい。おれは左手を取らずに尋ねた。


「これは,誰かにつけてもろたんか」


「庄吾ちゃん」


「何でつけてもろたん」


「旗の赤。小皿に溶いたのん」


「塗るところも,見てたんやな」


「見てた。じっとしとかんと,丸うならへんねん」


 最初はいつかと聞くと,祖父が倒れ,庄吾の店へ連れていってもらった晩だという。母が迎えに来るまでに,舟も作ってもらった。晩だったのか。地蔵の前では,と聞きかけて,小枝の話には初めからそんな場面がなかったことを思い出した。昨日は唱えた文句を教えてくれて,あとは,赤があるから大丈夫だと言った。それでおれは,この点がついたところまで聞いたつもりになっていたのだ。


「その晩に一遍つけたのが,今も残ってるんか」


「薄うなったら,またつけてもろてる。舟作るとき,一緒に」


「薄うなると,困るんやな」


「庄吾ちゃんが,消したらうちも死ぬかもしれんて。ちゃんとついてたら大丈夫やて」


 小枝は左手をまた右手に納めようとしたが,そちらには旗を持っている。少女が旗を石に置き,両手を重ねるまで待って,おれは,できるだけさっきと同じ調子で尋ねた。


「そう言うてもらう前から,自分も死ぬと思うてたんか」


「ううん。お祖父ちゃんはどうなるん,て聞いてた」


「誰に聞いてたん」


「庄吾ちゃんに。お祖父ちゃんが倒れて,庄吾ちゃんが来たとき」


「それで,あとから,自分のことも教わったんやな」


 小枝は頷いた。倒れた祖父が助かるかを知りたい子に,よく知る従兄が何かを言った。なつの話では,その後に店へ連れていき,怖がる子の相手をしてやったのだった。けれど,今聞いた順序は違う。庄吾が慰める前から,この子が自分も死ぬと思っていたわけではない。まずその危険を教え,続けて,危なくならないよう自分が塗ってやると申し出たことになる。


 怖がらなくてよい,とすぐに言えば,小枝には大人の一人が違うことを言ったとしか伝わらないだろう。おれはこの子が実際に唱えた文句を思い返した。


「点が薄うなっても,それだけで約束を破ったことにはならへん。指切りしたとき,赤い点を消しません,とは言うてへんやろ」


「そんなん,言うてへん」


「ほんなら,その点のことで慌てんでもええ。お母ちゃんのおるとこで,もう少し話そか」


 すぐに手を離してくれるとは思っていなかった。それでも小枝は自分の小指を見て,次におれの左手を見た。


「おっちゃんの指には,ついてへんね」


「今はな」


 おれにもあって消えた,と続けるのはやめた。消えることと死ぬことを結びつけている子に,短い説明でこちらの安堵だけを渡しても仕方がない。小枝が舟を持ち,しずりが抜いた旗を渡し,おれたちは辻を越えた。


 なつが初めて点を見たのも,六日の夜,店へ娘を迎えに行ったときだった。


「うちは,あのときからついてたんやと思うてました。昼の指切りから」


 死ぬ前の指切りと,死んだあとの塗り物。大人たちが小枝の手を見なかった数時間の間に,この二つが一つの出来事になっていた。祖父の約束の印ではなさそうだと伝えると,なつは娘に,その指を見せてほしいと言った。


 小枝が舟を畳へ置き,左手を母に差し出す。無理に拭かないでほしいと頼むと,なつは掌に載せるだけにしてくれた。筆で塗った赤い筋を少し眺めてから娘の手を離し,背を撫でる。ひとまず母の心配が晴れたのを見て,おれは,小枝に自分も死ぬかもしれないと教えたのが庄吾だという話を,まだ切り出せずにいた。


 小枝は右手に残っていた旗を,母の膝へ置いた。


「なあ,この旗つけたら,舟が速うなるて。庄吾ちゃん言うてたけど,ほんまに」


「風が吹いたらやろ。重とうなったら,沈みやすうもなるで」


「ほな,つけんほうがええの」


「今みたいに濡れてるときは,外しとき。庄吾ちゃんも,面白うしてやろと思うて言うたんやろけど,何でもほんまやと思わんと,分からんかったらお母ちゃんに聞き」


 小枝は母の膝から旗を取らず,畳の舟の両脇をそっと広げた。なつが下へ乾いた紙を敷いてやると,娘はその上で,折れかけた舳先を爪で起こす。遊びの続きを気にできるならよかったと思った。出る前に,どこを自分で折ったのかを教えてもらい,おれは今度は,舟の大きさでなく,その角をちゃんと見た。


 *


「桶屋は下流や。湧口への道を見るより先に,そっちで話を聞きたい。つき合うてもらえるか」


「よい。湧口へは,帰る朝に行くのじゃからな」


 栄次に教わった道へ向かい,橋を渡ってから川下へ折れると,二軒目の店の裏に,古い桶を伏せて並べた庭があった。


 久弥は,そこで桶の箍(たが)を外していた。庄吾より背が高く,立っているところだけを見れば年上に思えたが,栄次にここだと教わったことと,おれの会社の名を告げると,何かしたかと聞いてくる。


 いや,君が何かしたという話やない。そう答えてから,宿の主人が地蔵で指切りをしたと聞いて,どんな決まりか尋ねて歩いているのだと話した。久弥は手から竹屑を払い,指へ本当に点がつくことなら自分も知っている,と言う。栄次には昔の遊びまでは分からなかったが,この子は,そう聞かされたという言い方をしない。


「庄吾君と試したことがあるんか」


「尋常を出た春やから,三年前や。おれの独楽を貸したら,返す返す言うて返さんさかい,指切りさしたんや」


 先を急がせず,誰が何と言ったかを尋ねた。昨日までなら,独楽を返す約束で点がついた話として,そこを聞き流していたかもしれない。


「おれが言うた。庄吾は今日の日暮れまでに,おれに独楽を返す,て。あいつ,指は貸したるけど何も言わへん,言うてたのに,庄吾のほうだけ赤うなってな」


「久弥君にはつかへんかった」


「うん。二人で見たで。あいつ水で洗うて,まだついてるから,走って取りに帰りよった。独楽をおれの手へ載せたら,赤いのがなくなってな。何遍も指の横を見たわ」


 久弥は,独楽を受け取ったほうの掌を差し出した。おれには何も載っていない手が見えるだけだが,庄吾はこの手へ独楽を返して,自分の指の赤が消えるのを見たのだ。黙って指を貸すだけならよい,という知恵は,そこで役に立たなくなったはずである。そのことを,小枝に教えるときも覚えていたのか。三年の間,ほかにも誰かと指切りをしていれば……。


「そのあとも,指切りはしたんか」


「おれはせえへん。独楽は返してもろたし。けど,それ,辰蔵さんと何の関係があるん」


「黙って指を組んでても約束になるんか,確かめたかったんや。辰蔵さんは,黙ってはったらしい」


 久弥は,そうか,と言い,外しかけの箍を持ち直した。小枝に文句を教えたのも庄吾だ。「庄吾君やったら,そういうことも」と言うと,久弥は箍を置き,「どういうこと」と聞き返す。黙って指を組んだ相手も約束に縛られると知りながら,小枝にあの文句を教えること。三年前に独楽を貸した子に,庄吾ならやりかねないと言ってもらえたら,おれは何を確かめたつもりになるのだろう。おれが「いや,あれからも指切りしたんかと思うて」と言い直すと,久弥は「それは,さっき言うたやろ」と答え,おれのほうを見ずに箍を外し始めた。


 今も庄吾と遊ぶのかと,帰り際に尋ねると,もうあまりな,と笑った。


「あいつ,年下に怖い話してるほうがええらしい。去年の夏も,子らが,そんな話知ってるわ,て笑うたら,もう聞かんでええ,て皆帰らしよった。子供相手に何をむきになってるねん,言うたら,おれにも帰れやて」


「子らは,それでもまた来るんやな」


「舟も凧もよう作るさかい。あいつも次の日には折り方から教えてる。喧嘩いうほどのことやない」


 その程度の不機嫌なら,おれにも覚えがある。聞きたくないなら帰れとまでは言わなくても,聞いているつもりの相手が別のものを見ていて,急に話すのが嫌になったことはある。子供のころだけ,と断るには,いまの自分の聞き方にも心当たりがありすぎた。


 *


 駅へ行く道の煙草小売所では,小窓の内側に女の顔が見えた。辰蔵の名を出すと,女は手を止め,この前も巡査が来た,と言う。保険の調べで来たのだと説明しかけたところで,封は切ってまへんで,と続けた。


「お爺さんの銭を預かってる言うて,いつもの刻みを一包です。こっちで開けたりしてへんことは,お巡りさんにも言いました」


 封は,夕方に辰蔵が自分で切った。なつの話とも合う。けれど,朝から包みを持ち歩いて昼に届けたのでも,昼に買ってすぐ届けたのでも,封は同じように残る。女は小窓から半ば身を引きかけている。おれは,もう少しだけ,と頼んだ。


「封のことは,なつさんからも聞いてます。庄吾君が,その一包を買いに来た時刻はお分かりでしょうか。朝から頼まれてたそうなんですけど」


「昼ですわ。うちが昼飯を食べて,この窓を開けたすぐ。そやから,よう覚えてます」


「それより前,朝にも来てはりませんでしたか」


「来てまへん。あの日,あの子に売ったんは,その一包だけです」


 指切りよりあとに買った。それで順が決まったつもりになり,おれは開いた小窓を見直した。この人が昼飯を終えるころ,折庭屋ではもう昼飯が済んでいるのか。そこまでは聞いても分かるまい。二軒の昼を,おれの中で勝手に一つの時刻にしている。礼を言って宿へ戻る間,小枝と一緒に帰って来た庄吾の手に,煙草の包みもあったのだろうかと考えていた。


 なつは庭の縁側にいた。庄吾が煙草を持って来たときのことをもう少し聞きたいと頼むと,お昼過ぎに来てくれたんです,と答える。


「お父ちゃんが朝,買うといてくれ言うてたんです。小枝がああ言うても,やめるつもりはなかったんでしょうな」


 また昼だ。しかし今度は,あの子の指切りを見送った家の昼である。


「小枝ちゃんが地蔵さんから帰って来たときと,煙草を届けに来たときは,一緒やったんでしょうか」


「いえ,別です。小枝を連れて戻って来たときは,煙草はまだこれから買うて来る,て。小枝は,これで煙草やめてもらえる,て喜んでましたけど」


「そのときには,こちらのお昼の食事は,まだでしたか」


「お膳を出してるとこでした。煙草と釣銭を届けてくれたんは,うちらが食べ終わってからです。そのときの庄吾は一人で。小枝はもう,こっちにいましたさかい」


 お膳を出していたから,小枝の指をよく見ていない。今朝は,その続きを聞かずに布井屋へ行った。同じ配膳の話でも,今のおれが待っているのは,指の赤ではない。小枝が禁煙を喜んで帰ったとき,庄吾にはまだ煙草の買物が残っていた。


 庄吾は,まだ済んでいない使いの前に,小枝へ唱え言葉を教えている。祖父は煙草を待ち,小枝はやめてもらえると喜んでいた。どちらの用も順に済ませただけ,と見れば,親切な少年なのだろう。黙っている祖父にも約束が効くと知らなければ,だ。三年前には,自分の指の赤を消すために独楽を取りに走っている。


 なつが,母はもう戻りますから,と座敷を勧めてくれた。縁側には煙草盆が置かれている。昼に煙草が届いてから,夕方,祖父が火をつけるまでにも時間はあった。庄吾が祖父の喫煙を止める機会は,一度だけではない。そのどこでも,本当に約束を忘れたままでいられただろうか。

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