四
翌朝,宿の人が雨戸を開け始めたころ,おれたちは辻へ出た。空は明るく,向こうの山の木も一本ずつ見分けられるのに,家並みの下までは日が届いていない。通りを横切る靴音が思いのほか響き,地蔵の脇まで来れば,それも水の音に紛れた。
頭と屋根石の間には,拳を縦にしても入る隙間がある。おれは両足を揃えてから少し屈み,右手を差し入れて,地蔵の頭のてっぺんへ触れてみた。ざらついた石で,欠けたところはない。この場所に立ったままなら,人の手も道具も借りずに済む。右の人差し指についた石の粉を払い,その足の位置でしずりを待った。
「この地蔵の前から離れるまでに,右手で頭へ触る。名はおれだけで頼む」
「主は何も唱えぬ。それでよいな」
頷いてから,おれは左手を明るい空へ向けた。小指の両側に赤いところも傷もない。しずりにも見てもらい,次に彼女の右手を確かめる。自分で試し,自分で結果を言う以上,せめて,初めからついていた赤をあとで見つけるようなことは避けたい。見せ合った二本の小指は,どちらも白いままだった。
おれの左小指へ,しずりが右小指を絡める。その冷たさに気を取られかけ,おれは地蔵の顔を見た。白の剥げた額と,閉じたままの赤い口。昨日,小枝が舟を浮かべていたときと,少しも違わない。
「印南眞平は,この地蔵の前から離れるまでに,地蔵の頭へ右手で触れます。嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
おれは口を閉じたままでいた。しずりが指をほどき,手を下ろす。残ったおれの小指に,赤い点がある。
色が浮いてくるところを見たわけではない。互いの指が離れたら,さっきまで何もなかった側面に,針先ほどの赤が一つできていた。指を斜めにしてみても,皮膚はその部分で盛り上がったり窪んだりしていない。穴も,表に出た血も見えず,薄い皮の下へ一点だけ色を置いたようだった。
喉は痛まない。息もできる。
それを確かめている自分に,おれは少し困った。触ると約束し,まだ触っていないだけのことだ。誰かに無断で手を取られたわけでも,思いがけない文句を唱えられたわけでもない。全部自分で選んだことなのに,赤があると分かっただけで,飲み込んだ唾の通り方まで気になってしまう。
「しずりのほうは」
初めて出した声は,予想より低かった。彼女が右手を広げる。小指のどちら側にも点はなかった。
「主だけじゃ」
「洗ってもええやろか。手拭へ移るか,見たいんやけど」
「洗わぬという約束はしておらぬ。ただ,頭に触れる前に,ここから離れてはならぬ」
水鉢は地蔵のすぐ脇にある。それでもおれは足を動かさず,腰を折って手を伸ばした。どこまでが地蔵の前なのか。昨夜,文句を作ったときには気にも留めなかった範囲が,今は靴一足分の違いまで問題になる。触ってから洗うのでは,点が水で消えるかどうか分からなくなるから,この順序は変えられない。
左手を流れへ入れると,皮膚が冷え,指全体の赤みが引いていく。その中で一点だけは変わらない。手拭の端を濡らして,小指の赤いところを繰り返し擦り,布を朝の光に広げても,赤い色は移っていなかった。
もうええ。そう口にしてから,おれは右手を屋根石の下へ入れた。指の腹には,さっきと同じ石のざらつきがある。右手を引き戻し,左手を返すと,小指の点は消えていた。
さっき赤のあったところを,親指の腹で撫でてみた。傷も,色の薄く残ったところもない。
「済んだな」
しずりが日傘を取り上げる。おれは手拭を畳もうとして,まだ濡れているのを思い出した。昨夜は,頭に触るだけでよいのかとさえ思っていた。今は,あの文句を選んだ自分に礼を言いたい。簡単すぎるぐらいで,よかったのである。
「おれは一言も唱えてへん。それでも,名を言われたら点がついた」
「娘も同じように,祖父の名を唱えておる」
「辰蔵さんが何も言わへんかったから,約束にならん,とは言われへんな。指を組むところまでは,引き受けはったんや」
声を出した者と,約束を守らねばならない者。この町では,自分の名を唱えるかぎり,その違いを考えずに済んでいた。祖父は小枝の相手をしただけで,自分では誓わなかった。昨日聞いたその説明が,祖父を守る条件にはならないことを,今のおれの手は知っている。
ただし,しずりの指に点が出なかったことを,そのまま小枝へ当てはめることはできない。人間の子なら唱えたほうにも印がつくのかもしれないし,そもそも小枝の点は別のものかもしれなかった。自分の点が消えたからといって,小枝の手を取り,その赤を洗ってみようとは言えなかった。
「遺体の支度をした人に聞くわ。それと,辰蔵さんが亡くなる前に,小枝ちゃんの点を見た人を捜す。もし昼から二人についたんやったら,おれらがまだ知らんことがある」
「娘の手も,水に濡れるところは見られるじゃろ。あの子は舟を流しに来る」
「無理に洗うたりはせんといてな。おれとは,承知してることが違う」
「舟を見に行くのじゃ。主も来ればよい」
それで,おれも自分の目で見られる。彼女だけに任せて,結果を聞けば足りると考えたのは,今しがた自分も赤い点を持ったというのに,気楽な話だった。
宿へ戻る前,しずりは水路の上手へ少し歩き,家と家の間で止まった。畑へ抜ける細い道が見える。
「散歩は,まだやで」
「分かっておる。道へ入る場所を見ておくだけじゃ」
彼女はそれ以上進まず,畑の上の明るい空を見ていた。おれは時計を出しかけた手を離す。地蔵での用は済んだのだし,ここで少し待ったから誰かを困らせるわけではない。しずりが戻って来るまで,濡れた手拭を広げておくことにした。




