三
小枝は,母の隣で読みかけの本を閉じた。学校の読本だった。袂から取り出した紙を栞にし,頁の角を揃えるまで待って,おれは地蔵の前で祖父と遊んだ話を聞かせてほしいと頼んだ。
「遊んだんと違うで。煙草やめてもらうんやで」
「そうやったな。すんまへん。そのとき,何て言うたか覚えてるやろか」
小枝は母の顔を見てから背筋を伸ばし,膝に置いた本の背を指で押さえた。人に読んで聞かせるときにも,こんなふうに姿勢を直すのだろう。
「枝井辰蔵は,これから先,煙草を吸いません。嘘ついたら針千本飲ます。指切った」
言い終えると,本から手を離し,左手の上に右手を重ねた。赤い点は見えなくなったが,指の先だけが右手の陰から出ている。
「そのとおりに言うたんやな」
「うん。もっとゆっくり。途中で笑うたらあかんて,庄吾ちゃんが言うたさかい」
「お祖父ちゃんの名も,庄吾ちゃんに教わったんか」
「お祖父ちゃん,だけやったら,誰のお祖父ちゃんか分からへんやろ。地蔵さんは町じゅうの約束を聞かはるんやて」
なつが小さく笑った。
「うちも,名はちゃんと言わされましたわ。お父ちゃんの名を教えてもろてたとは思いませんでしたけど」
枝井辰蔵,という名まで,この子は習って来たのか。おれには書類で見知った名だったから,さらさら言われるままに聞いていたが,小枝なら,お祖父ちゃん,で済む相手である。教わった文句を名から順に覚えて,笑わずに言う練習までしたのだろうか。おれは手帳に言葉を書き留めてから,祖父が何と答えたかを尋ねた。何も,という返事に続き,小枝は,お祖父ちゃんの指の代わりやで,と自分の右小指を立て,自分はこう,と左小指をそこへ引っ掛けて見せた。
「こうしただけ。お祖父ちゃんも左の小指やったけどな。庄吾ちゃんが,お祖父ちゃんは言わんでええよ,て言うて。お祖父ちゃんも,わしは指だけやで,て」
「小枝ちゃんのほうは,自分が何かする,とか,もう何かせえへん,とかは言わへんかった」
「うちのことは言うてへん。煙草だけ」
その前かあとに,もう何か言わへんかったか。口にしかけて,おれは手帳の文句を見た。祖父の名と,祖父の煙草。唱えた小枝自身が守ることは,どこにもない。だから覚え違いなのか。それなら,どこが違う。おれが正しいことにしているのは,女将からさっき聞いたばかりの言い伝えだった。女将がそう教わったのも,小枝がこの文句を教わったのも,おれには同じ,今日初めて聞いた話なのに。
「なあ,煙草を吸うたん,ほんまに一遍だけやったん」
小枝はおれではなく,母に尋ねた。なつは娘の肩を抱く。
「そうや。先生も,長いこと苦しまはったんと違う,言うてはったやろ」
「そやけど,うちは途中で庄吾ちゃんのとこへ行ったさかい」
「あれは庄吾ちゃんが気ぃきかしてくれたんや。小枝はお祖父ちゃんのお顔を見たがって,ずっと離れへんかったんやから」
医者が来たところで,庄吾は小枝を抱くように立たせ,店へ連れていったという。それまでは少年の袖を掴み,祖父を覗こうとしては,庄吾の顔を見上げていたらしい。自分にも見慣れた誰かがそばにいてほしい場面だと,おれは思った。なつも,そうしてもらわなければ娘の眠れない晩がもっと増えていただろうと話す。
「今も,怖がらはるんですか」
母へ聞いたつもりの問いに,小枝が先に答えた。
「庄吾ちゃんが,これがついてたら大丈夫やて」
左小指を少しだけ立てて,すぐ右手に隠す。なつによれば,六日からこうしてあまり触らせたがらないのだという。昼は庄吾が相手をしてくれるので,さっきのように元気に遊ぶのだが,夜になれば母の布団へ入って来る。
六日から,というのは,昼からでも夜からでもよい言い方だ。地蔵から戻ったときの指を,母か祖母は見ていなかったのだろうか。なつのほうへ向き直りかけると,小枝が本の背を押さえ,もう片方の手を表紙の端へ掛けた。おれは開いていた手帳に鉛筆を挟んだ。長いこと,ありがとうな,と礼を言って立つと,母が読本を開いてやり,小枝は栞を抜いた手で,なつの袖を握った。
*
夕食が済んで二階の部屋の窓を開けると,向かいの屋根が月の光を受けていた。地蔵のある辻は宿の角に隠れているが,水の音は,昼よりも近くから聞こえる。人の声が減っただけで水のほうが来てくれるのなら,しずりには夜が都合よいだろう。
彼女は窓の外へ腕を差し出していた。おれが隣へ寄ると,その腕を室内へ引き戻し,おれが並んで立てるよう,脇へ寄る。襟もとは昼と変わらず,人間なら肌寒いと思い始める時分に,ようやく外へ顔を向けていたいらしい。おれは,昼に女将となつから聞いた話と,小枝の唱えた文句を順にしずりへ伝えた。
「小枝ちゃんが,自分のことも約束したのを忘れてるんやろか」
「なぜ,忘れたことにする」
「唱えた子に点がある。それやったら,その子を縛る約束を言うたはずやと思うて」
「女将は,自分の名を唱えて,自分の指に点がついたと言うた。小枝が唱えたのは祖父の名じゃ。その違いを先に考えぬのか」
女将が返すと誓ったのは,自分で借りた毬だった。話す人と,名を呼ばれる人が同じ。それでどちらが効いたかは分からない。小枝に尋ね直そうとしたときにも,おれは同じように,一つの言い方だけを正しい位置へ置いていた。
「名を言われた人が縛られるんやったら,辰蔵さんが黙ってても意味はないな。昼に指の赤を見てはるし」
「だが,雪も主も,その赤は見ておらぬ」
しずりは,自分を雪と呼ぶ。
「前の日の庄吾君の赤もあるさかいな。亡くなったあとに手を洗うた人にも聞いてみる。ただ,小枝ちゃんの点は見てる。二人とも赤うなったんやろか」
しずりは窓枠の上へ右手を置いた。小指は細く,白い。これを借りることを考えたのはおれも同じだったが,医者の忠告を聞いたばかりで,こちらから口に出すのには少し時間がかかった。
「明日の朝,確かめたい。おれが名前を言われるほうになる」
「雪が唱えるのであろ」
「頼めるか。何も起こらんかったら,しずりの声では約束にならへんのかもしれん。それやと,名を言われたほうを縛る,いう考えが違うとは言われへんけど」
「うむ。主に点がつけば,黙っておる人にも効くとは分かる」
人間同士でやれば,それぞれに点がつくかどうかまで見られる。だからといって,試したことのない決まりに,町の誰かの指を借りようとは思わなかった。こちらへ来るときの誘いに,指切りまで入っていたわけではない。その相手が承知してくれた以上,せめて,言う文句はおれが責任を持って選ばねばならない。
「すぐ済むことにしよ。誰かに物を借りるとか,誰かが来てくれなできへん用とかは避けたい」
「地蔵の頭に触れればよい。主一人で済む」
「屋根石の下へ手を入れて,頭まで届いたんか」
「舟を流す間に,頭へ触れてみた」
なるほど。おれが手を入れて届くかどうかも,明るくなれば確かめられる。どこを離れる前に触るのかまで言葉を決めると,しずりは窓の外へ向き直った。彼女のほうには,まだ聞きたいことがあった。
「水の出るところへ行く道は」
「聞いた。町の裏から畑沿いに上がって,杉のあるところを曲がるんやて。ゆっくり歩いても,半時間はかからんそうや」
「では,帰る朝に行こう。日が射す前がよい」
半時間はかからない,道はすぐ分かる。道を教える側にだけ確かな話かもしれない。しかも,行けば同じだけ戻る用がある。おれは帰る日の朝食と,駅へ発つ時刻を順に考えた。しずりは外の暗い屋根を見ている。その視線の先に,汽車が走っているとは思えない。
「夜明けから出てもええけど,朝飯までには戻りたい。それと,水路の中を歩くんは勘弁してくれ。靴を濡らして大阪まで帰りとうない」
「畑の道があると言うたではないか」
「途中で,こっちのほうが涼しい,て言うやろ」
「そのときは,主は道におればよい」
「ほんなら,おれまで行くことはないんと違うか」
しずりがこちらへ顔を向けた。おれは,ひどくもっともなことを言った気でいたが,そう言った途端,いっそ一人で行けと勧めたことに気づいた。それは,誘ったときのつもりとは違う。
「湧いたところの水へ,主にも触れてもらいたい。ここの水より冷たいはずじゃ」
「冷たいかどうか,おれに言わせたいんか」
「そうじゃ。雪がよいと思う場所を,主は通り過ぎることが多い」
仕事へ向かっているからだ,という弁解は,今回は使えなかった。帰る朝の話をしているのだし,その仕事が済んだら歩こうと思ったのはおれでもある。時刻ばかり先に数えて,まだ見たこともない場所を,長くいてはいけないところにしていた。
「分かった。水に入らんでも手の届くところまで,一緒に行こ。その代わり,曲がるところは詳しゅう聞いとくで。杉いうても,一本か林かで違うさかい」
「雪は,地蔵から水を辿って行くつもりでおった」
「それやと人の家の裏へ入ってしまうやろ。おれの通れる道を,聞いときたいんや」
「では,道のことは主に頼もう」
ごく普通に任せられると,心配を増やしているのはおれ一人のようにも思えてくる。けれど彼女は,明朝の地蔵の約束を細かく決めることにはつき合ってくれた。散歩にも同じくらい気を回す者なのだと,ここでは認めてもらおう。
窓を閉めかけると,しずりが眉を寄せたので,半分を開けておいた。彼女の腕が,また夜気へ出る。おれは窓枠から手を下ろし,明日には赤くなるかもしれない左小指を,掌の中へ折った。




