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針ぼくろ  作者: 左藤 握
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2/9

二

 女将の枝井(えだい)きよは,おれの名刺を受け取ると,眼鏡を取りに立とうとした。印南眞平(いなみしんぺい)と申します,と名乗り直してみたものの,既に廊下へ半身を向けている。読めない字をそのままにして,人と話したくないのかもしれない。これは急がせることではないと思い,戻って来た彼女が名刺の名を確かめてから,おれも座布団へ腰を下ろした。


「遠いところを,すんまへん。部屋の仕度も遅うなりまして」


「こちらこそ,お取り込みのところを。まず,ご主人の亡くならはった晩のお話から伺えますか」


 辰蔵(たつぞう)は六十歳だった。実の年です,と女将が断るのは,保険の書類にそう書いてあるからだという。年齢を一つでも違えれば金が出なくなると心配しているようなので,今回はその点を調べに来たのではないと伝えると,ようやく眼鏡を外した。掛けたままでは庭を見るにも具合が悪かったらしい。


 障子が開き,狭い庭を挟んだ離れが見える。縁側の右手は炊事場に続き,先ほど玄関へ出て来た女の人が,そこから座敷へ上がった。小枝の母,間瀬(ませ)なつ。父が倒れたときのことを話すために呼ばれたのだという。


 なつは大阪へ嫁いだ次女で,長女ののぶは辻の荒物屋,布井屋(ぬいや)へ嫁いでいる。水鉢にいた少年は,のぶの子だった。ここまで聞けば,いとこやねん,という小枝の言葉が,見知らぬ家の中でもきちんと場所を占める。


「夕飯の前でした。お父ちゃんは,この敷居のすぐ外の縁側に座ってました。小枝は膝の横にいて,うちはここから煙草盆を出したんです」


 なつが盆を押し出す形に手を動かした。煙草もそのときに持って来たのかと聞くと,首を振る。


「昼に庄吾が届けてくれて,包みは縁側に置いてありました。近所の碁仲間が来はって,お父ちゃん,昼の片づけをしたあとからずっと話し込んではりました。庄吾には朝から買うて来るように言うてたんで,待ってたんですけどな」


「その間,煙草の包みは開けずに置いてあったんですか」


「お茶を替えに行ったときは,まだ封をしたままでした。あの方はいつも煙草を吸わはらんので,煙草盆も出してまへん。夕方,あの方が帰らはってから,やっと一服できる,言うて,お父ちゃんが自分で封を開けはったんです。煙草入れも空になってましたから,そこへ移して」


 女将が箪笥の脇から煙草盆を持って来た。火入れの炭はとうに冷え,盆に煙管はない。角の焦げに目が留まった。倒れた拍子に火が落ちたのなら,辰蔵は盆のこちら側へ傾いたのか。顔を上げて確かめようとすると,なつが,それは前からありますねん,と教えてくれた。まだ指も差していないのに,聞きたかったことは分かってしまうらしい。おれは頷き,盆へ目を戻した。焦げの古さまでは,見ても分からなかった。


「お父ちゃんが火皿へ詰めて,炭で火をつけはった。そこは見てました。吸うてすぐに,咳かと思うたんですけど……」


 なつは,空いた縁側へ顔を向けた。松の下の手水鉢が,辰蔵の座っていた場所の正面にある。なつには父の倒れた場所が見えていて,おれは,そこで何があったかを彼女がまた話し始めるまで待っていればよい。同じ庭を見ながら続きを聞くつもりでいる自分の気楽さに,話が途切れてから気づく。


「お水持って来るわ,て言うたら,こっちへ手を出さはって。声は出えへんのに,喉ばっかり掻かはるんです。小枝もそばを離れへんし,うちが台所から水を持って戻ったら,お母ちゃんが背中をさすってました」


「その前に,何か召し上がっては」


「夕飯はまだです。口に入れたんは煙管だけでした」


 女将が,煙草盆の灰吹きに手を添えた。


「口を開けさせても,何も見えしまへん。誰かが外へ声をかけて,庄吾が来てくれました。医者を呼びに走ったんは向かいの家の人です。けど,先生が来はったときには,もう」


 女将は灰吹きの竹筒を少し回した。それで収まりがつくらしく,離した両手を膝で揃える。おれには,回す前のどこがいけなかったのか分からない。


「針地蔵のことは,その晩から言われたんですな」


「昼間,あの子と指切りしてましたよって。地蔵さんの前で小指を掛けて,自分の名と約束を唱えますやろ。そしたら,ここへ赤い点が見えるんです。針ぼくろいうて」


 女将は左小指を立て,薬指と反対側の側面を,右手の爪で示した。小枝の指で見たのと同じ場所だった。


「針で突くわけやないんですか」


「穴なんぞありまへん。平たい点が,いつの間にか。うちも子供のころ,手毬を晩までに返す言うて,ついたことがあります。返したら消えました。いつまで何をする,いう約束やったら,その時分まで守り通しても消えます。破ったら,喉へ針を千本飲まされるんやと聞かされました」


「ご主人も,それをご存じで」


「そらもう。ただ,あの人は何も唱えてへんのやそうです。小枝が言うただけやから,わしの約束やない,て」


 女将の説明では,唱えた者に点がつく。それなら,あの小指は小枝自身の約束の印になるはずだ。子が何かを禁じたから,祖父が死んだ。それでよいと思って来たわけではなかったが,町の人の知っている決まりを聞いても,唱えなかった祖父の死が説明できない。


「小枝ちゃんは,何を約束したんでしょう」


「煙草をもう吸わんといて,いうことやと。煙が嫌いやったさかい。細かい文句は,あの子に聞いていただかんと」


 女将が小指を伏せる横で,なつが口を挟んだ。


「お父ちゃん,お昼過ぎに自分の指を見て,また庄吾に赤いのつけられた,て笑うてはりました。昨日は自分の指で,今日はわしに悪戯しよった,て。そのときは,うち,お膳を運んでて,近くでよう見てまへんのです」


「その前の日にも,似たことがあったんですか」


「ええ。節句の朝です。けど,まず小枝から聞いてやってください。あの子,地蔵さんに怒られたと思うたら,大阪へ帰っても怖いやろし。庄吾も,向こうまではついて来られへんのですから」


 帰るのは,本来なら八日だったという。この家では新暦の五日に節句を祝い,母娘は四日から来ていた。娘は実の年で十一歳,尋常六年生。長く学校を休ませるつもりはなかったのに,父の死と葬儀で日が延び,なつは先生へまた手紙を出したところだった。水辺で見た笑顔からは分からない用事が,母のもとにはいくつもある。


 小枝はいま昼寝をしていると女将が言ったので,先に医者を訪ねることにした。起こさずに済むと知って,なつが庭に面した障子を半ばまで戻す。その手を掛けたまま,五日の朝の話をしてくれた。


「庄吾が旗を塗る赤で,自分の小指へも点をつけましてな。地蔵さんの約束は絶対や,おれの指を見てみ,言うたそうです。小枝は,それほんまか,て,お父ちゃんを呼びに来たんです」


「お祖父さんに,確かめに」


「お父ちゃんが,ちょっと指を貸してみ,言うて,濡らした手拭で拭いたら,赤いのがそっちへ移りまして。これなら地蔵さんも要らんがな,て。小枝も笑うてました。あのときは,お父ちゃんも一緒になって舟を見てたんですけどなあ」


「庄吾君は,腹を立てはったんですか」


「いいえ。筆を洗いに行って,また舟を作ってくれました。お父ちゃんは初孫の庄吾を可愛がりましたから。喧嘩になんか,なりません」


 喧嘩はなかった。それは分かったが,筆を洗いに立ったとき,庄吾はどんな顔をしていたのだろう。そこを聞いたつもりで,おれはただ,腹を立てたかと尋ねている。聞き直すにしても,何と聞けばよいのか。なつは,庄吾の母の妹に当たる。姉の子と父が喧嘩をしたことにしたいのではないかと,そう受け取られては,ますます聞きたいことから遠ざかる。障子に手を掛けたまま待っている彼女に,おれは,また舟を作ってくれはったんですね,と,さっき聞いたところを繰り返した。


 *


 白尾敬助(しらおけいすけ)の家は,宿から二つ目の辻にあった。最後の患者が帰るのを待つ間,おれは帽子の埃を払っていたが,しずりは庇の陰から通りの向こうを見ていた。医者の家と向かい合う家の床下へ,細い水路が潜っている。水の音だけは聞こえるのに,その家の裏の,どこから流れ込むのかが見通せない。


 宿の了解を得て来たことを伝えると,先生は診察室へ通してくれた。辰蔵が煙管を咥えたまま倒れたのか,吸い口で喉を突いたのではないかという問いには,傷の具合からはそう見えなかったという。


「針のようなものも,口から見える範囲にはありませんでした。首の引っ掻き傷は本人の爪やと考えています。眼の裏には小さい出血もありましたが,息の詰まった場合にも,ほかの急死にも出ます。それだけで死んだわけを決めることはできません」


「煙草に何か入ってた,いうことも」


「吸うてすぐやから,そこを調べる用はあります。残りの煙草と包み,煙管と煙草入れは警察へ渡していますよ。異常な亡くなり方やと,こちらから届けましたから。ただ,わたしが毒を見つけたという話ではありません」


 来る前は,煙草の疑いが薄れれば,その分だけ地蔵の話に近づけると思っていた。ところが,調べるべき煙草は警察にあり,喉の針も,先生が見られた範囲にはなかったというだけ。どちらから先に聞けばよいのか,また分からなくなる。指はどうだったのだろう。喉の奥と違って,あれなら目で見える。辰蔵の小指の点に気づかなかったかと,おれは尋ねた。


「小枝ちゃんのは,あとで見ました。辰蔵さんの手は,そのときは気づきませんでしたな。指の印を捜しておったわけではないので」


 点がなかったという返事ではない。息をしなくなった人を診ている間,小指の小さな赤に気づかなかったとしても,それを落ち度とは言えないだろう。おれが左手を膝に置き直すと,先生の目も,まだ何もない小指へ動いた。


「あの地蔵さんで,お確かめになるつもりですか」


「今のところ,そう決めてはおりません」


「あそこでは,子供でも守れん約束はせんもんです。どうぞ,そのおつもりで」


 外へ出ても,しずりは水路の続きが気になるらしかった。医者の家の庇から離れず,向かいの家の床下へ消える細い流れを指す。


「上へ行く道が,ここからは分からぬ」


「あの下をくぐって行くわけにはいかんな。宿で聞いてみる。歩いて行ける道があるかどうか」


「そうしてくれ」


 おれの調べが終わってから,という留保のつかない返事だった。小枝の唱えた文句と,この水の湧くところへの道。宿へ戻って道を聞かずに部屋へ上がれば,しずりは自分で水を辿ってしまいそうで,その場合,おれが床下を通らずに済む保証はなかった。

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