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針ぼくろ  作者: 左藤 握
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1/9

一

 橋を二つ渡ってから曲がるのか,二つ目の橋の手前を曲がるのか。道を教えてくれた男は,手前のほうやと笑い,念のため,曲がってから目にする家を一軒ずつ挙げてくれた。おれは途中で分かりましたと言う機会を失ったまま,菓子屋の裏にある柿の木がよそより早く実をつける話まで聞いていた。まだ五月である。帰るまでに柿が熟すことはあるまいし,また道を尋ねることになっても構わないのだが,せっかく詳しく話してくれる相手の善意を,必要なところで切り上げるのは難しい。


 男が荷を担ぎ直して行ってしまうと,隣にいるはずのしずりがいない。


 おれも二つ目の橋の手前で,山側へ曲がった。道の先に白い日傘が見える。そこまで五六間ほど歩くと,別の道と交わる辻に出て,脇に石で囲った浅い水鉢があった。山から家々の脇を通って来た細い流れが,鉢へ注いでいる。しずりが立っているのはその注ぎ口で,白い単衣(ひとえ)の袖を,石に触れないよう片手で押さえていた。鉢の低く切られた縁から溢れた水は,おれの歩いて来た道に沿う水路へ落ち,橋のほうへ下ってゆく。


 笹伏(ささぶせ)は水の冷たい町やそうや,と誘ったのはおれだった。着くなり水を見に行くのも,彼女には当然のことなのだろう。ただし,宿の女将に伝えてある到着は昼前であって,水に納得してからではない。


「しずり,宿はもうそこらしいで」


「見えておる。あの格子の家じゃろ」


 辻を挟んだ向こうに,折庭屋(おりにわや)と書いた看板が出ている。おれが道を聞いている間に,しずりは水も宿も見つけていたらしい。


「荷物を置いて,また来よか。ここやったら,すぐや」


「この舟を流してからにする」


 水鉢の縁に,小さな紙の舟が載っていた。底の折り目を挟んで両脇の紙が立ち上がり,中央に差した細い竹には赤い旗がついている。底の片側は,もう水を吸って黒ずんでいた。その舳先(へさき)を摘まんでいた少女が,しずりを見上げた。


「浮かべても,横向いてしまうねん」


「旗の竹が傾いてるんや。ちょっと貸してみ」


 答えたのは少女の隣にしゃがんだ少年だった。十五,六だろうか。木綿の着物の袖をたくし上げ,膝に紙の切れ端を載せている。舟から水が切れるのを待ち,傾いた竹を立て直して,差し込んだ穴の脇へ小さく畳んだ紙を挟む。手を離しても旗は傾かず,少年の指にも迷うところがない。簡単そうに見えるのは手を出さずに済んでいるからで,おれなら,直してやると言った手前,新しい舟を一艘作るところまで引き受けることになる。


「これでええ。真ん中から,そっと離してな」


「今度はほんまにまっすぐ行く」


「見てたら分かるて」


 少女は舟を胸の前に抱えるようにして,しずりの脇から水へ寄った。その慎重さと背丈から,舟遊びを喜ぶ年ごろはもう過ぎたのかと思ったが,舟底が水に触れたとたん,そんな見当をつけたこちらが少し恥ずかしくなるほど顔が明るくなった。手を離しても,指先だけは舟についてゆきそうに開いている。


 舟は石の縁と並んで進み,細い水路へ出るところで,旗を大きく傾けた。


「庄吾(しょうご)ちゃん,行った」


「下で取らな。橋の下へ入るで」


 庄吾と呼ばれた少年が立ち,少女は裾を摘まんであとを追う。しずりもその後ろへついたので,おれは宿の格子へ目をやった。彼女が舟を追っている間に,先に宿の人へ挨拶だけしておけそうだ。そう考えて足を向けかけると,しずりが少女の肩に手を置き,走るのを止めた。


「そこは石が濡れておる。兄に取ってもらえばよい」


「お兄ちゃんと違うねん。いとこやねん」


「そうか」


 それだけで少女は満足したらしく,歩幅を狭めた。少年が橋の手前で水へ手を入れると,向かいの荒物屋から男が呼んだ。


「庄吾,竹箒の包み,数だけ見といてくれ」


「今行く。小枝(さえ),舟は置いとき。底が柔らかいさかい,このまま流したら破れるわ」


 小枝は差し出された舟を両手で受け取った。その左小指に,針先ほどの赤い点がある。爪の付け根ではなく,薬指と反対側の側面で,舟を支えるために指を曲げると,こちらからよく見えた。小枝が舟を胸へ寄せるまで,おれはその点を見ていた。


「夕方,また来てくれる」


「仕事が済んだらな」


「ほんまに」


「済んだら,て言うてるやろ」


 怒ったほどの強さはない。小枝もそれ以上は聞き返さず,舟を水鉢の乾いた縁へ戻し,旗の竹が傾かないよう両脇から紙を寄せていた。少年は店へ走り込むと,男の横にしゃがみ,箒を一本ずつ数え始める。妹分の遊びにつき合う手と,商売の荷を扱う手が,同じ速さで働いていた。


 しずりは水鉢へ戻っていた。その背後には,小さな石の地蔵がいる。大人の腰にも届かない高さで,角の欠けた屋根石の下に両手を合わせていた。顔の白い塗りは剥げ,口に残った赤だけが,水の照り返しを受けて見える。


「あれが針地蔵か」


「娘に教わった。主(ぬし)が捜しておるのはこれであろ」


「水のほうは,どないやった」


「よい。石の下から出たばかりなら,もっと冷たかろう」


 しずりの目は,鉢へ注ぐ細い流れを山側へ辿っている。水のある町へ連れて来たのだから,これで同行の礼は済んだ,というわけにはいかないらしい。おれも連れて来るときには,眺めてすぐ帰るつもりで誘ったのではなかった。帰りの汽車を気にするより先に,そのくらいは思い出してよい。


 しずりは人ではない。だから冷たい水を好むのだと一言で片づけると,たいていこちらの予定が狂う。冷たければどこでもよいというものでも,一人で行けば足りるというものでもない。それを何度か教わったおれは,まだ彼女が日傘を畳まないうちから,この水の出るところまで人の通れる道があるかどうかを考えていた。


 昭和二年五月十二日。穂波生命(ほなみせいめい)から調べを命じられたのは,六日前にこの町で死んだ宿の主人についてだった。被保険者の死亡が怪異に因るときは,保険金を支払わない。その条項のため,煙管(きせる)を一服吸って息を詰まらせた老人の死が,大阪から来たおれの用事になっている。


 怪異があるという噂と,怪異が人を死なせたという事実は違う。宿の主人が指切りをしたというだけで,家族の受け取るはずの金を留め続けるわけにはいかない。とはいえ,針地蔵の前でする指切りには赤い印がつくという噂を聞いて来て,今,そこで遊んでいた子に同じものを見た。挨拶に先立って水鉢へ寄ったことは,会社には道草と書かずに済みそうだった。


 宿へ向かう途中,小枝が舟を置いておれたちを追い越した。玄関へ駆け込む声が,土間から奥へ響く。


「お母ちゃん,お客さん来はった」


 出て来た女の人は,まず小枝の袖口を直し,それからこちらへ頭を下げた。おれは帽子を取った。宿へ駆け込んだ少女の息は,まだ少し弾んでいた。

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