エピソード5:一分前の意味
ほんの一分。
たったそれだけの時間でも、人は誰かに迷惑をかけたり、誰かに助けられたりする。
現実は、時間にとても厳しい。
それでも、その一分の中には、
数字では測れない出来事が、静かに積み重なっている。
「あっ!」
やってしまった。
駅を乗り過ごしていた。
一駅や二駅どころじゃない。
いつの間にか、もう十駅も過ぎていた。
こんなこと、初めてだ。
慌てて電車を降りる。
会社へ向かってひたすら走る。
息を切らしながら、会社へすべり込んだ。
社員証をかざす。
「ピッ!」
表示は、出勤一分前。
「間に合ったー!!」
そう思った瞬間だった。
「湊くん?」
ちょっとトゲのある声が飛んできた。
振り向く。
経理の明菜さんだった。
「今、何時だと思ってるの?」
「九時です…。」
「社会人として、それはどうなの?」
「最低でも、五分前じゃないの?」
少し、言葉が詰まる。
さらに続く。
「私は、毎日一時間前には来てるよ。」
何も、言えなかった。
自分でも、分かっていたからだ。
その時、同じ部署の中村さんが笑いながら入ってきた。
「まあまあ。」
「いつもは、こんなんじゃないんですよ。」
「今日は、何か事情があったんじゃないですか?」
少しだけ、空気がやわらぐ。
でも、中村さんも笑いながら続けた。
「でも、社会人なら十五分前には来たいよね。」
明菜さんが、
「そうでしょ?」
と言って、小さく笑う。
「すみません。」
それしか言えなかった。
その言葉を聞くと、明菜さんは少しだけ表情をやわらげた。
「まあ、分かればいいのよ。」
「いつも、頑張ってるしね。」
そう言って、そのまま持ち場へ戻っていった。
悪い人じゃなかった。
ただ、自分が余裕をなくしていただけだった。
そう思った。
でも、ふと別のことも思い出していた。
(なんでこんなことになったんだっけ…?)
(ああ、そうだ….)
受験で失敗した。
就活にも失敗した。
見かねた親が可哀想に思ったのか親戚に頼み込んで、おじさんのつてでなんとか入れてもらった会社。
世間ではいい会社と言われている。
せっかく入れてもらったんだから、ありがたく思わないといけない。
周りは、みんな口をそろえてそう言う。
だから、もう誰にも文句は言えなくなっていた。
興味もない。
やりたいことでも、ない。
生活するために、仕方なく働いてる。
ただ、毎日をやり過ごしてる。
楽しみといえば、毎週『少年バンプ』を読むことぐらいだ。
こんなことをして、何になるんだろうか。
毎日、そう思っていた。
その時、中村さんが肩を軽く叩いた。
「湊くんも、気をつけてね。」
「はい。」
「さっきは、ああ言ったけど、次は三十分前には来れるといいね。」
中村さんも笑う。
「中村さん(笑)」
「そうですよね(笑)」
僕も笑った。
自分の席へ向かった。
前に聞いたことがあったけど、中村さんには『静かな虎』っていう異名があるのをすっかり忘れてた。
本当は、結構怒ってたのかもしれないな。
でも、この時の僕には、それよりもルミビアのことの方が、ずっと大きくなっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、夢ではなく現実の一日が中心になりました。
会社という場所。
そこで交わされる何気ない言葉や、小さな気遣い。
主人公は、まだ自分の居場所を見つけられていません。
けれど、人とのやり取りの中で、少しだけ救われる瞬間もありました。
そして、その心のどこかには、いつもルミビアがあります。
現実を生きながら、もうひとつの世界を忘れられない。
その感覚は、これから少しずつ主人公を変えていきます。




