9.少しの本音
「ところで、レティシア様はどうしてこんなところにいたんですか?」
泣き止んだソフィアからそう聞かれ、今度は私が困る番だった。適当に『庭園を見たかったから』とでも答えれば済む。けれど、目の前の少女は友人を傷つけたくないという理由だけであれほど悩んでいた彼女に、私だけが誤魔化すのは何となく嫌だった。
「……逃げてきたの」
「逃げて?」
「会場にいた令嬢たちから」
ソフィアが不思議そうに首を傾げる。そんな彼女の仕草にクスッと笑ってしまう。
生け垣の向こうに誰もいないことを確認し、私は少し迷いながらも話始める。
「皆、アルベルト殿下のことばかり聞くのよ。どこが好きなのかとか、どんな贈り物をいただいたのかとか」
「殿下のこと、お好きじゃないんですか?」
あまりにも真っ直ぐ聞かれて、思わず笑ってしまった。そんなことを面と向かって尋ねてくる人など、これまで一人もいなかったからだ。
「……好きではないわ」
口にした瞬間、胸が少しだけ軽くなった。
「殿下、勉強をなさらないの。それなのに私の方が良い成績を取ると、『俺より成績がいいのが気に食わない』って怒るのよ」
「ええ……?」
「酷いでしょう?」
「酷いです!」
即答だった。普通は『殿下にも何かお考えが』などと取り繕うところだろう。けれどソフィアは、本当に嫌そうな顔をした。
「それなのに結婚するんですか?」
「家同士で決められたことですから」
「嫌ならやめればいいのに」
「そんな簡単にはいかないわ」
王太子と公爵令嬢の婚約は、子供同士が好きか嫌いかという気持ちだけで決められるものではない。私とアルベルト殿下の婚約も、王家とヴァレンティア公爵家との関係を考えて決められたものだ。
気づいた時にはすでに殿下の婚約者として扱われていた。だから、結婚したくないと思ったところでどうにもならない。
そう説明すると、ソフィアは難しい顔をして黙り込んだ。
まだ幼い彼女には、家同士の事情や王家との関係と言われても、すべてを理解するのは難しいのだろう。それでも何とか考えようとしているらしく、膝の上で両手を組んだまま、しばらく俯いていた。
「だったら……」
やがて顔を上げたソフィアは、少し困ったように笑った。
「やめられたらいいですね」
あまりにも簡単な言葉だった。そんなことができるはずがないと笑うことも、貴族とはそういうものなのだと説明することもできたはずなのに、私は何も答えられなかった。
これまで私の周りにいた大人たちは、誰もが私の将来について同じような話をした。
王妃となるのだから、誰よりも礼儀作法を身につけなければならない。殿下を支えられるよう、政治も歴史も外交も学ばなければならない。いずれ多くの国民の前に立つのだから、どんな時でも公爵令嬢としてそして未来の王妃として恥ずかしくない振る舞いをしなければならない。
私もそれが当然なのだと思っていた。
頑張れば褒めてもらえたし、期待に応えれば両親も教師も喜んでくれた。だからこそ、嫌だと思うこと自体が間違っているような気さえしていたのだ。けれど目の前の少女は、私が殿下を好きではないと聞いても咎めなかった。
公爵令嬢なのだから仕方がないとも、未来の王太妃なのだから我慢しなければならないとも言わない。
ただ、私が嫌なのだと知ったから、やめられたらいいですね。と、それだけだった。
「……今の話、誰にも言わないでね」
気づけばそんな言葉が口から零れていた。そこでようやく私は、今日初めて会ったばかりの少女に、両親にすら話したことのない本音を打ち明けてしまったことに気づいた。アルベルト殿下を好きではないことも、結婚を望んでいるわけではないことも、今まで誰にも言ったことはない。
急に不安になってソフィアを見ると、彼女は私の心配など必要ないとでも言うように、大きく頷いた。
「もちろんです」
そして自分の胸元へ手を添えると、少しだけ得意そうに笑う。
「私も秘密にしてもらいますから。おあいこです」
「おあいこ……」
「はい。レティシア様は私の秘密を知っていて、私はレティシア様の秘密を知っています」
そう言ってソフィアが笑ったその時だった。
「ソフィアちゃーん!」
ソフィアがはっとして顔を上げる。
「あ、お友達です」
どうやらクッキーの感想を聞きに戻って来たらしい。私は邪魔をしない方がいいだろうと、生け垣の陰へ少し下がった。
やがて一人の少女がこちらへ駆けてくる。私の位置からは横顔が僅かに見える程度だったが、明るい声だけはよく聞こえた。
「クッキー、美味しかった?」
一瞬の沈黙のあと、ソフィアは空っぽの皿を見て答えた。
「一枚も残らなかったくらい!」
「本当? よかった!」
嬉しそうな声が返ってきた。生け垣越しにそのやり取りを聞きながら私は小さく笑った。どうやらうまくいったらしい。
私は彼女たちが楽しく話しているのを邪魔しないよう、静かに会場へと戻った。
茶会が終わり、公爵家へ戻ってからソフィアの言葉が頭の中に蘇る。
――やめられたらいいですね。
「そうね、やめられたらいいわね」
もし本当に、そんな日が来たなら。
この時の私は、ほんの一瞬だけそんな未来を思い描いていた。




