5.国外追放、喜んでお受けいたします
大広間は騒然としていた。窓の外を確かめる者、ソフィアの聖印を凝視する者、隣にいる者と声を潜めて話す者。その誰もが突然失われた国の結界に動揺している。
そんな中、最も顔色を失っていたのはアルベルト殿下だった。
「待て……」
殿下は誰に向けるでもなく呟くと、何かを思いついたように勢いよく私へ振り返った。
「レティシア。先ほどの婚約破棄は撤回する」
あまりにも唐突な言葉に、周囲のざわめきが僅かに弱まる。
「……撤回、でございますか?」
「ああ。国外追放についてもだ。すべて取り消す」
先ほどまであれほど自信満々に私の罪を並べていた方とは思えないほど、殿下の声には余裕がなかった。
けれど、なぜ急に考えを変えたのかは聞かなくても分かる。
聖女の証言を根拠に私を断罪した。その聖女が力を失ったとなれば、自分の判断が正しかったとは言い張れない。
「私は知らなかったんだ」
殿下は言い訳をするように続けた。
「ソフィアが、その……事実と違うことを答えているなどとは思わなかった。私は彼女の言葉を信じただけだ」
胸の奥がすっと冷えていく。これまで何度、この方のこういう姿を見てきただろう。
勉強を怠って教師から叱責されれば、教え方が悪いと言う。公務で確認を怠れば、報告した者の説明不足だと言う。そして今度は、自分が大勢の前で下した判断をソフィアのせいにしようとしている。
以前の私なら、それでも婚約者として支えなければならないと考えていただろう。
けれど、もうその必要はない。
「つまり殿下は、聖女様のお言葉だけを根拠に、私との婚約を破棄し、国外追放まで命じられたということでございますね」
「だから、それについては撤回すると言っている!」
声を荒らげた殿下に、何人かの貴族が僅かに眉をひそめる。しかし、私にはもう怒りすら湧かなかった。
「ですが、おかしいですわね」
「何がだ」
「つい先ほどまで、聖女様の言葉こそが真実だとおっしゃっていたではございませんか。それがご自身にとって都合の悪い結果になった途端、今度は聖女様が悪いと?」
「そういう意味では――」
「では、どういう意味なのでしょう?」
殿下の言葉が止まる。別に私は答えを求めるつもりはない。だって、先ほどの私の問いにアルベルト殿下が答えなどないと知っているから。
それでも少し待ち、私は小さく息を吐いた。
「もう結構でございます」
長い間、アルベルト殿下の婚約者であることは、私にとって義務だった。公爵令嬢として生まれた以上、それは当然のことだと思っていた。殿下が勉学を嫌っても、公務を投げ出しても、私が補えばいい。いずれ国王となる方なのだから、その隣に立つ者として支えなければならない。
そう思い続けてきた。
けれど今日、その役目を殿下自身が終わらせてくださった。
「レティシア。戻ってこい」
アルベルト殿下から伸ばされた手を見て、私は一歩後ろへ下がる。
「嫌ですわ」
「……何?」
今度こそ、殿下が言葉を失った。こんなにも素直に自分の気持ちを口にしたのは、いつ以来だろう。
不思議なくらい胸が軽かった。
「婚約破棄を撤回していただく必要はございません」
「何を言っている。王太子との婚約だぞ」
「存じております。十年以上、殿下の婚約者を務めてまいりましたもの」
それだけの年月があったのに、惜しいとは思わなかった。むしろ、ようやく終われるのだと思うと、頬が緩みそうになる。
「それに国外追放についても、先ほど確かに命じられましたね」
「だから、それも取り消す!」
「いいえ、その必要はございません」
最後くらいは完璧な公爵令嬢として、私はドレスの裾を摘み、王妃教育で何度も教え込まれた通りに腰を落とす。
そして顔を上げた時には、もう笑みを隠す必要もなかった。
「国外追放、喜んでお受けいたします」
「レティシア!」
アルベルト殿下の声を背に受けながら、私は踵を返した。
大広間の扉へ向かう私を止めようとする者はいなかった。先ほどの出来事があまりにも大きすぎて、誰もがどう動くべきなのか判断できずにいるのだろう。
扉へ手を掛ける直前、一度だけ振り返る。
アルベルト殿下は呆然と立ち尽くし、その少し後ろでは、青ざめたソフィアが黒くなった聖印へ手を添えていた。
そしてほんの一瞬、彼女と目が合った。けれど私は何も言わず、そのまま大広間を後にした。
もう、王太子の婚約者としてここへ戻ってくることはない。そう考えると卒業の日に感じるはずだった寂しさよりも、これから始まる何かへの期待の方がずっと大きかった。




