4.聖女の力が消えた日
アルベルト殿下がそれ以上何も言わなくなったのを確認し、私はソフィアへ向き直った。
彼女の胸元に残されている金色の輝きは、もうほんの僅かしかない。先ほどまで一度だけ安堵したように見えたアルベルト殿下も、その聖印を改めて目にすると、また落ち着かない様子で私たちを見比べていた。
けれど、もう止める言葉は出てこなかった。
「では、聖女様。最後の質問です」
ソフィアの肩が僅かに揺れる。
これまでの問いにも何度も迷っていた彼女だったが、今度はすぐに俯かなかった。胸元で重ねていた指先へ少し力を込めながら、真っ直ぐこちらを見ている。
「私があなたを階段から突き落とした証拠はございますか?」
その問いに、返事はなかった。大広間の誰もがその沈黙の意味を探るようにソフィアを見つめている。質問へ答えるたび聖印が黒く濁ってきた以上、事情を知らない者でさえ、彼女が次に何を口にするのか気になって仕方がないのだろう。
アルベルト殿下も同じだった。
「ソフィア……」
先ほどまでとは違い、答えを促す声には迷いがあった。真実を話せと言い続けていた自分と、これ以上答えさせたくない自分。その二つの間で揺れているのが表情を見るだけでも分かる。
ソフィアはそんな殿下へ一度だけ目を向けたあと、再び私を見た。唇が僅かに震える。それでも彼女は逃げなかった。
「……はい」
静かな返事が、大広間へ落ちた。残されていた金色の光が、ゆっくりと失われていく。聖印の黒い濁りはさらに深まり、やがて最後の一筋まで消えた。
その瞬間だった。
――パリン。
どこか遠くで巨大な硝子が砕けたような音が響いた。
大広間にいた者たちが、一斉に窓の外へ顔を向ける。
王都の上空。
これまで空気の一部であるかのように広がっていた淡い金色の光に、一本の亀裂が走っていた。
それは瞬く間に枝分かれし、空を覆っていた結界を端から崩していく。光の欠片が雪のように舞いながら消えていく光景を前にして、誰もすぐには声を出せなかった。
「……結界が」
ようやく漏れた誰かの声をきっかけに、大広間が大きくざわめいた。
「消えている……」
「まさか、聖女様の力が……?」
聖女ソフィア・エルフェルトが張った結界は、この国に暮らす者にとって、もはや当たり前に存在するものになっていた。
魔物の侵入を抑え、瘴気による被害を軽減し、特に辺境では多くの人々がその恩恵を受けている。それほど重要なものが、今まさに目の前で消え去ったのだ。
そして、その中心にいるソフィアの聖印には、もう金色の輝きが一つも残っていない。
「ソフィア!」
アルベルト殿下が我に返ったように彼女へ駆け寄り、両肩へ手を置いた。
「結界を張り直せ! すぐにだ!」
ソフィアは顔を伏せたまま動かなかった。殿下の手に力が入り、何度も名前を呼ばれても、彼女はすぐには答えようとしない。その沈黙が長くなるほど、周囲のざわめきも少しずつ不安を帯びたものへ変わっていった。
「ソフィア! 聞いているのか!」
アルベルト殿下の言葉に、多くの人がソフィアに注目を集める。彼女は青い顔をし、黙って首を横に振る。そんな彼女の様子にアルベルト殿下の表情が固まる。
「まさか……できない……のか?」
ソフィアは答えなかった。ただ俯き、黒く染まった胸元の聖印へそっと手を添える。
「無理をおっしゃらないでくださいませ、殿下」
私はソフィアと殿下の間へ視線を向けながら、静かに告げた。
「見ての通り聖印は黒くなり、先ほどまで国を覆っていた結界も消えております。今の聖女様をご覧になれば、何が起きたのかはお分かりになるでしょう?」
「そんな……」
アルベルト殿下だけでなく、黒く濁った聖印と消え去った結界を目の当たりにしたこの場の誰もが、同じ結論へ辿り着いていた。
聖女は力を失ったのだ、と。




