3.一つずつ
「あなたの私物を隠したのは私だという確証はありますか?」
「……はい」
ソフィアの返事とともに、聖印の金色がさらに失われていく。最初はわずかに滲んでいただけの黒い濁りも、今でははっきりと分かるほど濃くなっていた。周囲から聞こえる囁き声も、先ほどよりはっきりしたものになっている。
「では――」
私は一度言葉を切り、次の質問を口にした。
「私があなたへ、殿下との距離を少し慎むよう申し上げたことはありますね?」
それまで質問のたびに言葉を詰まらせていたソフィアが、今度は迷わなかった。
「はい」
はっきりとした返事が大広間へ響く。何人もの視線が、ほとんど同時に彼女の胸元へ向かった。しかし、何も起こらない。
すでに浮かんだ黒い濁りが消えることはなかったものの、それ以上色が濃くなる様子もない。残された金色の輝きも変わらず、静かに光っていた。
その違いに気づいた者たちの間から、小さなどよめきが起こる。
「確かにこの件については申し上げたことがございます」
私は周囲にも聞こえるよう、落ち着いて続けた。
「婚約者のいる殿方と必要以上に親しく振る舞えば、たとえ双方にそのつもりがなくても、周囲からあらぬ誤解を受けることがあります。聖女様は人前へ出られる機会も多い方ですから、お気をつけになった方がよいのではないかと一度だけお話しいたしました」
それを聞いた周囲の反応は、先ほどまでとは明らかに違った。
「それなら……」
「苦言というほどでもないのでは?」
「婚約者として注意するのはおかしくないわ」
「むしろ聖女様のためでもあるでしょう」
声こそ抑えられているものの、レティシアが聖女へ嫉妬して責め立てたという話とは随分印象が違う。特に婚約や社交の事情を理解している令嬢たちは、納得したように頷いていた。
「ほら見ろ!」
その空気を一声で打ち破ったのはアルベルト殿下だった。
「やはりソフィアへ私に近づくなと言っていたのではないか!」
一瞬。大広間が妙な静けさに包まれた。期待していなかったとはいえ、私は思わず殿下を呆れた目で見る。
「……殿下。今のお話をお聞きになって、そのように受け取られたのですか?」
「他にどういう意味がある!」
自信満々に言い切る殿下とは対照的に、周囲の者たちは何とも言えない表情を浮かべており、私もそれ以上説明するつもりもない。
「では、続けます」
私は再びソフィアへ向き直った。先ほどの問いには迷わず答えた彼女が、私の視線を受けて僅かに表情を引き締める。
「その際、私はあなたを人目のない場所へ呼び出し、殿下へ二度と近づかないよう脅しましたか?」
ソフィアは口を開くが、何かを言う訳でもなくまた閉じる。あれほど迷いなく答えた直後だからこそ、その沈黙がひどく目立った。
彼女の視線がゆっくりと下へ落ち、胸元で重ねていた手が僅かに震えている。
「ソフィア?」
「……」
アルベルト殿下が呼びかけるが、返事はなかった。
「どうしたんだ? 先ほどと同じだろう。何も恐れる必要はない」
優しく言い聞かせるような声だった。けれどソフィアの表情は、むしろ苦しそうに歪む。
「君は真実を答えればいい。私がついている」
その言葉が背中を押してしまったのか、ソフィアは一度だけ目を閉じ、やがて覚悟を決めるように息を吸い、私へ顔を向ける。
「……はい」
その瞬間。黒がまた広がり、残されていた金色の光が目に見えて小さくなる。
「ソフィア!」
アルベルト殿下が今度こそ彼女の胸元を凝視した。何が起こっているのかは分かっていない。けれど、最初は眩しいほど金色に輝いていた聖印が質問へ答えるたびに少しずつ黒く濁ってきている。
そして、先ほど一度だけ何も起こらなかった。そこまで見れば、知識がなくとも何か異常なことが起きているくらいはようやく理解できたのだろう。
「これは……何なんだ?」
アルベルト殿下の声から、それまでの勢いが失われていた。ソフィアも周囲の人間も答えない。
私は慌てふためくアルベルト殿下をよそに、彼女の胸元を確認してから静かに口を開く。
「では、次に」
その言葉を聞いた瞬間、鋭い声が大広間へ響いた。
「待て!」
私はゆっくりアルベルト殿下を見る。殿下は私ではなくソフィアを見ており、顔には先ほどまでなかった焦りが浮かんでいる。
「もういい。これ以上、ソフィアに答えさせる必要はない」
「なぜでございますか?」
「なぜって……」
アルベルト殿下の視線が再び聖印へ落ちる。そこに何かあるというのは分かったのだろう。けれど、理由を説明することはできない。
なぜ聖印が黒く濁っていくのか。その理由も何一つ理解していない。
それでも、何か取り返しのつかないことが起きようとしている。その程度の危機感だけは、ようやく抱いたようだった。
殿下はソフィアを庇うように一歩前へ出る。
「もう十分だろう。これ以上続けるな」
先ほどまで、ソフィアへ真実を話せと言い続けていたのは殿下自身だ。それなのに、聖印に異変が現れた途端、今度は答えさせるなと言う。私はそんな殿下をしばらく見つめたあと、静かに口を開いた。
「ですが殿下。これは、私が聖女様へ行ったとされる行為を確かめるための場ではございませんか?」
「それは……」
「殿下は先ほど、聖女様に『真実を話せばいい』とおっしゃいました。それに私を国外追放するほどの罪なのでしょう?」
アルベルト殿下の表情が強張る。けれど、まだ何かを言い返そうと考えているのは目に見えてわかる。
ほんと、いつまでも自分勝手。
「はぁ……ではあと一つだけです」
その言葉を聞いた瞬間、アルベルト殿下の張り詰めていた表情が僅かに緩んだ。
あと一つ。それで終わるのならば、これ以上止める必要はないと思ったのだろう。先ほどまで何か言い返そうとしていた口も閉じられ、わずかに肩から力が抜ける。
「本当に、それで最後なのだな?」
「ええ。私も嘘をつきませんから」
私が笑って答えると、アルベルト殿下は訝し気にしながらも小さく息を吐いた。しかし、ふとソフィアへ向けた視線がその胸元で止まる。
最初は眩しいほど金色に輝いていた聖印も、今は黒い濁りに覆われ、わずかな光を残すだけになっていた。
アルベルト殿下は未だ拭いきれない不安を感じ、何かを言おうとして――結局、口を閉ざした。
そんなアルベルト殿下の後ろで、ソフィアは胸元の聖印へそっと手を重ね、小さく息を呑んだ。




