第9話 ハードボイルドは川の匂い
なんとか追手を撒いた天草は、屋根裏を降り、女子トイレを通って廊下に戻った。
便器に片足を突っ込んでしまったり、利用していた一般女性と鉢合わせてしまい酷く混乱させてしまったりと軽微なアクシデントはあったが、ようやく追跡網をかいくぐることに成功した。
警察官たちは、見当違いの場所を捜索しているようだった。
天草は階段は使わず、建物の窓から外に出た。下を見ないようにして、縁に指をかけて3階から慎重に降りていった。
ひさしを足場にし、窓枠を利用し、苦労しつつもついに地面へと降り立つことに成功する。
すぐそばにドブ川の流れる裏庭。落下防止用なのか身長よりも高い金網が見えているが、あれを越えてしまえばもう外の世界だ。
駆け出そうとして――鼻が煙の匂いを嗅ぎ取った。
「そこを動くな。へっ、先回りが正解だったみたいだな」
天草はその場で足を止めた。
両手を上げつつ振り向くと、覚えのある刑事が拳銃を構えていた。
「ようやく相談に乗れるな。ここなら誰の邪魔も入らない、コンプラなんてガキどもにしゃぶらせとけってんだ、なあ」
「……まったく、あんた同類かもな」
銃口を睨みつけると、タバコを咥える口元が歪んだ。
夜に染まる裏庭。男たちは5メートルの距離で相対していた。
テーザーでも、ゴム弾でもない、あれは正真正銘の実銃だ。
「なんだその目は。兄ちゃん、死ぬのが怖くねえのか」
天草は深く息を吐いた。
両手をゆっくりと下ろし、拳を握り、身体の前で構えた。
ぬるい風が吹き抜け、雑草が一斉に音を立てた。高い空から満月が見下ろしている。心と身体が乖離したような、不思議な高揚感。銃口が、むしろ生を感じさせてくれる。
こんな夜をずっと望んでいた。
一度くらい死んでみるのも悪くない。
「命二つ、この世に生を受けたとき、そして死に臨むとき」
銃身が、ピクリと跳ねた。刑事は目を見開き、タバコを吐き出した。
「そいつはいい、最高だぁ兄ちゃん! さあ来いよ、望みを叶えてやる」
「いくぜ」
敵の動きに全神経を集中させる。
姿勢を低く、飢えた獣のように睨みを効かせ――
すぽん、と抜けた音が響き渡った。
なにか丸いものが、金網を越え放物線を描いて飛んできた。
「一郎! その引用は細部が間違っているのです!」
「マキナっ!? おまっ、いまご……ぎゃあっ」
パンっと耳をつんざくような音がしたと思えば、次の瞬間、強烈な閃光が天草に襲いかかった。
「ぎゃあああ目が、耳がああ、あああ」
天草はその場で転倒し、のたうち回った。
顔を抑え、耳を抑え、遠くで刑事も同じように倒れているのがなんとかわかった。
「あっ、ごめんなさい、伏せろと言うのを忘れていたのです」
ガシャンと金網を蹴る音が聞こえ、気づけばマキナが天草のすぐ前に立っていた。
なぜか全身びしょ濡れで、ドブ川の悪臭が鼻に漂ってきた。
「ま……マキ……おま……ぇ」
「助けに来ました、一郎。さあ、行きましょう、もう安心してくださいです」
マキナはものすごい力で、天草を米俵のように担ぎ上げた。胃がシェイクされ、胃液が逆流しそうになった。
マキナは煙幕を張りつつ金網を飛び越え、あっという間に警察署から遠ざかっていった。
目が痛い、耳鳴りが酷い、気持ち悪い、臭い。なんだこれは、なんなんだこれは。ちくしょう、意味わかんねえよ、ハードボイルドを返せ、俺の覚悟を返せ、だったらもっと早く来い、ふざけんなふざけんなぁああああ。
「無事で本当に良かったのです、一郎」
嬉しそうにそんなことを言われても、天草は「ゔええ」とゲップのような返事をするのが精一杯だった。
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天草を抱えたまま人目につかないように住宅地まで移動し、マキナは屋根伝いに新居であるアパートを目指した。
安全確認を徹底、明るい場所を避け、アスファルトの生活道路へと降り立つ。
警察署よりおおよそ15キロメートル。現時点では周辺に警察の動きは確認できなかった。
背中から下ろすと、天草は千鳥足になって、そのまま地面に座り込んだ。
一言「平気ですか?」とマキナが尋ねると、「平気なわけねえだろこの野郎……」と返ってきた。マキナはそのやり取りを天草なりのスキンシップと判断、コンディションに大きな異常はないと判断した。
小声で要領を得ないことをつぶやき続ける天草を尻目に、マキナはリクさんと回線を繋げた。
「無事一郎の救出を完了したのです。ご協力感謝するのです」
『了解。基地に帰投させてもら、おっと、うぉ、ひ、ひ、ひひ、おぎゃあ!』
頭の中にリクさんの絶叫が響く。音が割れ、通信にノイズが混ざった。
『こ、こいつぁ……ちくしょ……ひ、ひひ』
マキナはやや早口になって、問い詰めるように言った。
「どうかしましたか、通信が不安定です、曹長、状況を報告してください」
回線の向こうから、リクさんのものではない少女の笑い声が聞こえてきた。
『くっ、くっくっく、こんばんはマキナちゃん』
「その声、タナちゃんですか……?」
『そうだよぉ、よく、わかったね。伝えなきゃいけないことがあるから、おじさんにお願いして電話機を貸してもらったんだ』
小刻みな笑い声が混ざる、低い声。
普段のタナちゃんとは似ても似つかず、まるで大企業の重役のような威圧感を放っていた。
「タナちゃん? なんのことですか、曹長はどうなったのですか」
『ふふふ、おじさんなら隣にいるよ、今は大人しくしてもらってるけどね。ねえマキナちゃん――』
少し溜めて、タナちゃんは言った。
『――タナちゃんはお家に帰るから、また今度遊ぼうねぇ』
「お家、ですか。それは一体どういうことなのですか」
『おじさんがね、家まで送ってくれるって。だからタナちゃんのことは心配しなくていいよぉ』
急に明るい声に戻ったタナちゃんが言うと、遠くの方からリクさんの声が聞こえてきた。
『なんて逃げ足の早いいたずら娘、ほうら、怒ってないから戻ってきなさい。な? それ壊されると困るから、そうだ、帰り道にケーキ買ってあげよう、だからもうくすぐったりは――』
『ケーキぃ!?』
上ずった声でタナちゃんが叫び、ドンガラガッシャーン、どうやら端末を取り落としたようだった。
プツっという単音を残し、そこで通信は終了した。
ブロック塀にもたれかかっていた天草が、虚ろな目でマキナを見上げた。
「な……なにかあったのか……?」
「いいえ、なんでもありません。ただのスキンシップなのです」
今のやり取りもまた、人間流なのだと思う。きっと意味を考えなくてはならないほどの、深い理由など存在しない。
そういうことは、少しだけ理解できた。




