第10話 これは深刻なバグなのです
新居――街での生活拠点となるセーフハウスは、六畳二間の古いアパートだった。部屋は両方畳で、ところどころささくれている。
2階建ての2階で、歩けば床が振動し風が吹けばトタンの壁がカタカタと揺れた。データによると家賃2万円、築45年の建物だという。
選定者である天草は、窓枠に肘を置いて外を眺めながら、このように説明した。
「潜入任務ってのはそういうもんだぜ」
よくわからなかったが、合理的な理由に基づく選定ではなさそうだった。
マキナは畳に正座し、少佐に連絡を入れた。定時にはまだ早いが、今日は任務の完了を伝えなくてはならなかった。
例によって1秒もせずに受話器は取られた。
『やあマキナ、おめでとう。無事中尉を救出したようだね』
「ありがとうございます。ですが、お褒めの言葉は返上させていただきます。この度は大変ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありませんでした」
マキナは、深く頭を下げた。
少佐は即答した。
『それこそ返上させてもらうよ。謝罪など必要ない、君は君の思ったままに行動すればいいんだ。面倒な事後処理は、全てこちらで受け持とう』
「しかし」
マキナの言葉を少佐は遮った。
『ならば命令だ。任務についている間、金輪際、人の顔色を伺ってはならない。君はその男と一緒に、毎日を自分で選び取るんだ。わかったね?』
「……はい、最優先命令にインプットしておくのです」
「よし」
短い一言ながらも、その声色から少佐の機嫌が良さそうなのがわかった。
「それじゃあ、初日の報告を聞こうか。色々とあったが、世は事もなし。全ては丸く収まった、責任など感じずに、素直な気持ちを話してごらん」
膝の上に置いた手に、なぜか力が入った。
ぎゅっと拳を握りしめて、マキナは頭に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「かわいい、という感情を理解する目標は未達成ながらも、代わりに別の感情を知ることができた……かもしれません。タナちゃんと出会えたこと、一郎を助けられたこと……マキナの誤解でないのなら、本日は嬉しい日だったと思うのです」
また、まただ、胸の奥に正体不明の熱源を感じる。
エラーの一種だろうか、機械的な不良だろうか。診断プログラムは異常を発見できず、原因は判然としない。
ただ、主観的には悪くない、どころか、心地いいとすら思えてしまう。
これはとても深刻な、バグなのです。
『そうか……それはそれは……なにより……う』
小さなうめき声を漏らしたかと思うと、少佐は黙り込んでしまった。
10秒、20秒、30……時折鼻をすする音が聞こえるだけで、一向に発言してこなかった。
2分が経過。少佐は深く息を吸って、ようやく声を発した。
『すまない……風邪の治りが悪いようだ……』
初耳だった。対面時にもそのような兆候は一切見られなかったが、見落としていたのだろうか。
マキナが身を案じると、少佐は平気だと答えた。
通信を終えようとして、突如、思い出したというように少佐は付け足した。
『ああ、そうだ、その男にも話がある。悪いが、天草に繋いでくれ』
マキナは通信を天草の端末に転送した。すぐに二人の会話が始まった。
いくらか社交辞令的なやり取りの後に、少佐は言った。
『マキナを、よろしく頼む。さんざん厳しい言葉をかけてしまったが、本当は君にも期待しているんだ、ぜひとも彼女に社会というものを教えてやってくれ』
「へ? あ、は、はい。プロとして、誠心誠意任務を遂行する所存です、ハイ」
『頼む。本来であれば自身で努めを果たさねばならなかったのだが、立場がそれを許してくれなかった。君だけが頼りだ、君だけが……とにかく頑張ってくれ』
「は、はあ、そいつはどうも」
天草は眉間にシワを寄せて、ちらちらとマキナを見た。ばつが悪いといった様子だった。
「なんで泣いてるんだよこの人」と小声で聞かれたので、「風邪なのです」と事実を伝えた。
しばらく会話が続いた。20分以上にもなって、ようやく少佐は締めに入った。
『うむ……今日はこのあたりにしておこう……』
「お忙しい中、いやぁ、本当に少佐の気持ちはよく伝わりました。ええ、安心してください、今日はちょっとヘマしちまったんですけど、明日からは、期待に、いや期待以上に働いてみせます」
『ああ……そうだそうだった……その件なんだが』
少佐は言った。
『君は減給だ……では、引き続き励んでくれたまえ』
ガチャ、と受話器を置く音が響いた。




