第20話 これでようやく、おとなになれる
「幼稚なのです」
マキナのその言葉が、いずみの脳内に反響した。
幼稚? 私は幼稚?
こんなに気を使って狂ったタナちゃんに何も言わないでいたのに、我慢して家に残ったのに、料理だってゴミ箱に捨てないであげたのに、先輩として、年長者として、後輩を傷つけないようにしてたのに。
幼稚。あ、あ、あ、あー、テーブルひっくり返したい。でも、我慢しろ、我慢、怒ったらそれこそ幼稚だ、怒っちゃダメ、怒れない……よし……よし……。
「そ、そっかあ、へえ……じゃあ、どうすればよかったの、かな?」
「はい。まずは歩み寄るべきです。一口だけでも料理を口にしてみてはいかがでしょうか?」
「一口だけでもって……」
テーブルを見る。ソテーらしき謎の肉料理には蝿がたかってるし、ピザのチーズからは毛が生えている。酸化臭と腐臭が混ざって悪魔合体している。
マキナは言った。
「もちろん腐敗した食物を口にすることで身体に異変は起きるかもしれません。しかしそれを口にすることでバイアスを排除してタナちゃんの見ている世界に触れられるかもしれない。まずは認知を改めるところから真のコミュニケーションが始まると文献にも記載されていたのです」
なんてめちゃくちゃ、この子はサイコパスなのかもしれない。
かも、しれないけれど、同時に、妙な説得力がある。確かにマキナは食事を口にしていたし、タナちゃんの家族が見えている。タナちゃん本人に至っては、これが日常なんだろう。
だとしたら、おかしいのはどっち、もしかして、いやまさかそんな。でも、普通とか、当たり前ってなんなんだろう。違う、普通は普通だし、私は――
「はい、バイアスや固定観念は人類の敵です」
「え? 言ってない……よね?」
「表情から明らかです」
マキナはほんの少し表情を崩した。
「口にしなければ伝わらないと思い込んでしまうこともまた、同じ問題構造なのですよ」
「固定……観念……」
「いずみ先輩ならきっと新しい扉を開けるのです。バイオノイドであるマキナには難しくても、人間であるあなたなら変われるはずなのです」
頭の中がぽわぽわして、マキナが何を言っているのかよく理解できなかった。
けれど、身体が軽い。胸に溜まっていたもやもやが晴れていき、目の前が明るく見える。
当たり前は固定観念。そんなの考えたこともなかった。
歩み寄るのが成熟した大人の姿なのだとしたら、今こそ幼稚な自分と別れるときなんじゃないか。マキナちゃんとタナちゃんを理解してあげたい。先輩として、大人として。
「ねえマキナちゃん、もし一口でも食べたら先輩として認めてくれる?」
「はい、もちろんなのです。タナちゃんもそうですよね?」
「うん、姉さん一生ついていくぅ!」
いずみは胸に手を当てた。深く息を吸って、心を落ち着かせた。
「よし」
箸を手に取り、右手を伸ばす。熟れた果実のように蕩けた肉をすくい取る。口元まで持ってくると、山奥のトイレのような匂いが鼻腔を刺激した。
タナちゃんは鼻息を荒く身を乗り出していて、マキナはいずみの一挙手一投足に注目していた。
口を開いたいずみは、震える舌を外に出した。腐肉を、そっと下ろしていく。
艷やかで淡いピンク色の舌先に、異物は接近し。
そして。
触れた。
「んっ……」
剣山が落ちてきたような感触に見舞われ、咄嗟に舌を巻き込んだ。
口を閉じると、汁っけのある固形物が暴れ出した。爆竹を放り込まれたのかと思う。ほんのり甘く、強烈に酸っぱく、やがてブルーチーズに炎天下に放置した牛乳をぶちまけたかのような味が口内に広がった。
警戒色に視界が明滅する。鳥肌が全身を駆け巡る。髪の毛がトゲになり、両目が通常の3倍も見開かれる。浮遊感、幸福感、歯が溶ける、舌が消えてなくなる、ドクンと心臓がひときわ大きく跳ねる。身体が反り返って、最後に全身の筋肉が弛緩した。
タナちゃんの顔が二重に見えた。黄色くぼやけていき、気が遠くなる。
そのとき、いずみは見た。タナちゃんの隣で、ニッコリと笑う赤っぽい髪の青年を。
これがあの子の世界。なんだか気持ちいい……かも……
脳内が多幸感に溢れ、食卓から、フローラルな香りが漂ってきた。
目の焦点が定まらないまま、いずみはまた箸を伸ばした。
これでようやく、おとなになれる。
彗星のような光がばっと弾け、世界が少しだけ明るくなった気がした。




