第19話 正直に申し上げまして、成熟した大人の姿ではないと思います【side いずみ】
裸の電球に照らされたテーブルには、カラフルな料理が並んでいた。
いずみとマキナが協力してこしらえた新鮮なサラダ、タナちゃんの焼いた表面が黒焦げになったグラタン、量も彩りも足りないからと冷蔵庫から引っ張り出してきた紫色の肉らしきもの、粉チーズの代わりにカビがトッピングされているピザ。
吐き気を催す腐臭と、ツンとした酸化臭が同衾していた。
エプロン姿のいずみは、タナちゃんの料理を見て立ち尽くしていた。
テーブルまでの一メートル半が、毒沼への緩衝地帯に思えた。
「ね、ねえ、マキナちゃん、ちゃんってば」
いずみは正面を見たまま、肘でマキナを小突いた。
本能がうずいて体中に冷たい汗が浮かんだ。タナちゃんの無邪気な笑顔が、獲物を誘い込む食虫植物のように見えてならなかった。
マキナは平然といずみを見上げた。舌をもつれさせながらいずみは言った。
「やっぱり、私ね、帰ろうって思うんだけど、急用を思い出しちゃって、その、タナちゃんに伝えておいて欲しいんだ、ね?」
いずみは返事も待たずに振り向いた。そしてその瞬間に窓が光って、数秒してから地響きを伴う衝撃音が轟いた。
カチャカチャと鳴る食器の音や、タナちゃんの軽快な足音が、トタン屋根をドラムのように叩きつける雨音に掻き消された。
「いずみさん。残念です」
起伏を感じない、平坦なマキナの声がいずみの耳に届けられる。
渇いた喉を潤すためにつばを飲み込むと、また窓が光った。マキナを見ようとしたが、目だけが精一杯で首は動いてくれなかった。
「観測データによれば当地域一帯は記録的な集中豪雨に襲われます。雨足が弱まる午後9時頃まではこの場で待機するのが賢明だと考えますです」
額から汗がしたたり落ちて、腐った床板が黒くなった。
いずみは干からびた唇を動かした。「傘、傘借りてね、走って帰ればなんとか――ひぃ」
マキナの頭が脇の下あたりから生えてきた。陰影のくっきりした顔が、表情なくいずみを見つめていた。
「死んでしまいますよ」
全身の血が凝固して、手足が冷たくなった。逆に心臓は元気で、どくんどくと暴れ回る。
声のようなものがいずみの口から出るが、ろれつが回らない。
「しぬっ、し、なんでぇ、だ、そんなこと言うのぉ」
「はい。ご説明します。山間部では豪雨の影響で土砂崩れや川の増水リスクが増大します。さらに視界は悪化し足下も崩れやすくなるために、滑落の危険性が高いです。よって総合的に判断しますと、家を出てから30分以内に遭難。悪天候のため救助活動は難航し、打ち切られ、後日遺体として発見される可能性が大です」
「れ、冷静に分析しないでよ!」
いずみが叫ぶと、マキナは5センチほど首を捻った。
「お兄ちゃんがいずみ姉さんと話したいんだってぇ」とタナちゃんの明るい声が聞こえてきたのはそのときだった。
「ささ」マキナはいずみの腰に手を回して、半ば無理矢理振り向かせる。
そしていずみは見た。なにもないところにいるお兄ちゃんを見上げて、ふわふわした笑顔を浮かべるタナちゃんの姿を。
絶対にいない、いるはずがない、何度見たって変わらない。
おかしいのは誰? おかしいのは私? おかしいのはタナちゃん? おかしいのは、この世界?
気が遠くなって、いずみの膝から力が抜けた。
マキナは軽くいずみを持ち上げ、さっと引いた椅子にストンと座らせた。
背中を押され、キィと脚が鳴き、逃げ場はなくなった。太ももまでがすっぽりとテーブル下に入り込み、眼前にはお供え物のように固くなったご飯が置かれていた。
紫色の煙の向こうで、タナちゃんが両手に箸を握っていた。説明によるとタナちゃんの隣に兄が、いずみとマキナの両サイドに、母と父がそれぞれ座っているとのことだった。
「あっー!」と突然タナちゃんが声を上げた。
「ダメだよぉパパァ、がっつくのはいただきますのあとでぇ。姉さんのサラダ食べる権利ぼっしゅ~」
ひょいと手つかずのサラダボウルを手元に寄せて、タナちゃんは笑い出した。
「いずみ先輩は喫茶店のプロですから、つい手が出てしまったのでしょう。食欲は抗いがたい人間の欲求なのです」
一瞬静まり返って、タナちゃんとマキナは同時に肩を揺らした。
場に似つかわしくないほのぼのとした笑い声が、響き渡った。
「でもぉ、はしたないのはマナー違反ぅ。ねぇ、姉さぁん?」
「私に振らないで」
いずみはただテーブルの何も置かれていない部分を見つめた。
「よし……生きて帰るぞ……よし……」
タナちゃんとは一切目を合わせず、時間の経過だけを待った。「いただきまーす!」と快活な声が聞こえてきても、形式的に合わせるだけで、食事に手を付けようとはしなかった。
目の縁の方でマキナの手が伸びるのが見えた。箸が戻ってくると、腐臭が鼻に突き刺さった。
マキナはこともなげにそれを口に運んでいるようだった。
「タナちゃん、これは美味しくありませんね。調理過程に問題があるのかもしれません」
「えー、辛辣ぅ、タナちゃん頑張ったのにぃ」
「ごめんなさい。しかし成長のためには優しさは毒になるのです。とはいえマキナには食べられないわけではありません、料理に込められた愛情……はなんとなく伝わってくるのです」
タナちゃんは「わーい、わーい」と歓喜の声を上げた。いずみは、単純だ……、と一瞬だけ思ったが、とにかく何も考えたくないので、頭を振って思考をかき消した。
タナちゃんのはしゃぐ声が、突然消えた。
「姉さんは食べてくれないのぉ?」
背筋が硬直する。重い首を上げて、無理やり口元だけで笑顔を作った。
「わ、私はお腹いっぱいで……そ、そうだサラダだけ」マキナの顔がすっと眼前に現れる「きゃっ」
「一般論で言えば、食事会で一切手を付けないのは深刻なマナー違反なのです。タナちゃんの料理が食べられないと言っているようなものなのです。一口だけでもいかがでしょうか?」
「いかがでしょうかじゃなくて」
「なぜ拒むのでしょうか? いずみ先輩らしくありません」
「うん、うん、そうかもね、でもごめんなさい、私普通の人だから発酵した料理は苦手だし、タナちゃんの家族も」見えないからもう帰るね、おほほほほ、と言いたかったのに、タナちゃんの泣き出しそうな顔が見えていずみは口を結んだ。
なんで言い出せないんだろう。こんなの無理だよバーカーバーカって逆ギレしちゃえばいいのに。
「どうして嫌がるのぉ……タナちゃん悪いことした……?」
したよ――「して、ないよ。ただちょっと普通じゃないかなって……」
マキナは浮いていた身体を引いて、椅子に腰を下ろした。
「いずみ先輩、普通とは一体何なのでしょう?」
「え、えっと、変だとは思わないっていうか……みんなと同じ」
「ではマキナは普通ではないのでしょうか? タナちゃんは異常なのでしょうか? いずみ先輩は普通なのでしょうか?」
マキナは目を伏せた。
「そう思いたい気持ちはよく理解できます……ですが考えてみてください、それは自分の思い込みなのかもしれないと。食事を忌避する、タナちゃんの家族を拒絶する、それはこの場において普通と言えますか?」
「ん、なにいってるのかな」
マキナはガっと首をいずみに向けた。
反応して振り向いてしまったいずみの目をまっすぐに見つめた。人差し指を立て、鼻先に突きつけてきた。
「あなたの見ている世界は、あなただけのものです。心苦しい指摘なのですが、自分だけが正常だと断定するその態度は」
マキナは目を切って、言い淀むような仕草をした。それから「大丈夫なのです、きっと先輩ならわかってくるのです」とつぶやいた。
また目が合った。
「正直に申しまして、成熟した大人の姿ではないと思います。あえて厳しい言葉をかけさせていただきますが、幼稚、なのです」
「え?」
いずみの胸に、大穴が空いた。




