第21話 天草一郎は、おとなになれない
『救援を求む。宴に水を差すのは実に忍び難く、外的要因による離席を敢行す。門限を破るようなことがあれば、少佐への申し訳が立たない』
マキナから天草の元にメッセージが届けられたのは、ちょうど雨が止んだ頃だった。
回りくどい言い回しをしているが、要するに、門限までに帰りたいけれど言い出しにくいので迎えに来てほしい、ということだと天草は解釈した。
『了解』とだけ返事をして、天草は麓に向かった。確かに家の中は盛り上がっているようだった。陽気な笑い声話し声、時折歌声までもが聞こえていた。
当初は元気がなさそうに見えたあの先輩――桜野いずみも積極的にタナちゃんの家族と会話しているようだった。
不思議とその家族の姿も声も一切確認できなかったが、マキナの姉が『画角とマイクの不調ね』と説明してきた。天草は深く考えず「そうか」とあくびなどをしていた。
そして一旦コンビニに立ち寄って、手土産の焼酎などを購入してから、今度は車でタナちゃんの家に向かった。
チャイムの類がなく困っていると、中に入っていいとマキナから連絡があった。
「おじゃまします。遅くにうちのがすみません」
挨拶をしてみたが、出迎えはいなかった。
仕方なく天草は家に上がらせてもらうことにした。見た目もさることながら、中も不気味な屋敷だ。廊下は照明が灯らず、ささくれが靴下を突き破ってくる。
しかし、部屋へと繋がる扉の向こうからは、談笑する声が聞こえていた。
楽しそうにしてんなあ。あんまり邪魔もしたくないが、これも仕事か。
「失礼します、お楽しみのところ――うっ、なんだこの臭い」
扉を開けると、くさやとドクダミの混合物のような腐臭が襲いかかってきた。
咄嗟に口を抑える。抱えていた一升瓶が腕から落ち、重い音を立てて地面に転がった。
テーブルに向かっていた三人娘が、一斉に天草の方を向いた。天板には透明なティーポットが置かれていて、紫色の液体が充満している。天草を見つめるいずみが持つカップにも、それと同じものが注がれているようだった。
なぜか目を見張っていて、口元は薄っすらと笑みが浮かんでいた。
マキナが言った。
「ようこそなのです一郎。ごめんなさい、少佐に連絡したところ、今日は特別だと門限破りの許可をいただいてしまいました」
「は、おまっ、そんなことより、ゔぉえ、な、なにしてんだよ」
「食後のティータイムなのです。一郎もいかがですか?」
マキナは、泥のような液体が注がれたカップを突き出した。
鼻を摘んでも、臭素が貫通してきた。間違いない、臭いの発生源はアレだ。ティー、茶、それってなんだ、毒か、化学兵器か、あんなもん飲んでたら死ぬぞ、正気じゃねえ。
いや、マキナはいい、こいつは大丈夫だ、だがタナちゃんと、この――「マキナちゃん、こちらの方が?」
「はい、保護者兼バディの一郎なのです。あ、戸籍上は兄にあたりますです」
「容疑者さんおひさぁー」
タナちゃんがテーブルに手をついて、空になったカップを掲げた。
いずみが言った。
「あれ……ああ、そっか、昼間もお会いしましたね」
「昼間……だと? マキナお前」
護衛のことを部外者にバラしたのか。それを咎めるつもりで視線を向けたが、マキナは左右に首を振った。
「それじゃ……桜野さんだったか」天草は呼吸を整えて、低い声で言った。「昼間ってなんのことだい、俺と君は初対面のはずだぜ」
いずみは目を細めて笑った。
「なんて言えばいいのか、自分でもわからないんですけど、わかるんです。え?」いずみは突然振り向いて、猫のようになにもないところを見つめた。「ふふ、そうかもしれませんね、お兄さんって結構ロマンチック、でも私、そういうの嫌いじゃないかも」
うふふとお上品に笑って、いずみは天草に向き直った。例の紅茶もどきを一口飲んで、話を続けた。
「糸があるんです。白い糸、黒い糸、緑、赤……お兄さんは赤い糸だって言ってましたけど、さすがにそれはちょっと、ねえ」
「ねえじゃないが」
いずみは左側に首をねじった。
「お父様も経験がおありなんですか? へぇ、すごい、お母様と、憧れちゃうなあ……」
天草を無視して、いずみはなにもないところと会話を始めた。
首を左に捻って、右に捻って、あるいは正面を向いて。発声とリアクションを繰り返している。
天草は背筋に薄ら寒いものを感じた。
なんだこのぶっ飛んだ女は、大丈夫か。
「な、なああんた、さっきから誰と話してんの? そういうノリ?」
「ご家族です」
「は?」
いずみは背中を丸めた。両手の指で頬を抑えて、天草を向いた。
「ああ……見えないんですね……かわいそうに」
眉を垂らし、半開きの目でいずみは天草を見つめた。
情けをかけられているような、慈悲を与えられているような、そんな気がした。天草はあとずさって、そろりとマキナを見た。
「お、おい、マキナ、んだよこれは」
「いずみ先輩は認識の相対性を理解し、新たな視点を獲得されたのです。……大丈夫ですよ? 一郎にも……きっと理解出来る日が来るはずです……きっと、です」
「なんでお前まで俺を哀れんでんだ!」
なんだよ、相対性ってなんだよ。新しい視点ってなんだよ、なんなんだ。
「大丈夫なのです。いずみさんは、理解されたようなのです。すぐには無理でも、きっと一郎なら、人間にのみ許された第3の瞳を開けるはずなのです……ですから……こちらでお話していきませんか?」
「い、いやだ、おま、おまえら、どうかしてるぞ」
立ち上がったマキナの手が、すっと肩に伸びてくる。万力に締め付けられているような圧力で、天草は身動きが取れなくなった。
肩がぷるぷると震える。ぶらさがるむき出しの電球が、バチバチと音を立てている。いずみが恍惚の表情で毒茶をおかわりしている。
胸元からマキナの顔がせり上がってきた。陰影がくっきりと浮かんでいた。
「それは短絡的な考えなのです。もしかしたら」
水晶のような瞳が、ぎょろりと見開かれた。
「どうかしてるのは、一郎の方なのかもしれません」
「やめろ、やめっ、あっ、ああああああ」
「はは、お兄さんってほんとひょうきんですねぇ、あはははは」
影の濃い部屋に、笑い声と悲鳴がこだました。




