第17話 もしかしていずみ先輩には見えないのですか?
去っていく車を見送りながらいずみは「はぁ……」一度だけため息を吐いた。
折れてしまった、マキナちゃんの純粋すぎる思いに。あああ、なんてお人好し、雨強すぎ、寒すぎ、ここどこ。
悪いことに「帰りも呼べますか?」と降車時に聞いたところ「雨強くなるからね、ここだとどうか」と曖昧で危険な返事をされた。
そして食い下がる暇もなくマキナに引っ張り出されたのだった。
「せめて普通のご家族であってほしい……タナちゃん、お家はどこなの?」
「そこぉ!」
タナちゃんは登っている道路の、やや左を指さした。ガードレールの外側、位置的には完全に空中だ。
しかしそこにはあった、あってほしくないものが建っていた。なにかこう人工的に作られたと見える、鉄板のような土台の上に家があった。
雨に濡れた木造建築。屋根はトタンで一部剥がれ落ちている。まるで薄暗闇に突然現れるボロアパートのような見た目。風が吹くたびに、建物全体が揺れていた。
駐車場や庭なんてものはなく、ただぽつんと平屋が空に浮かんでいる。大きさだって、公衆トイレくらいしかない。山小屋だってもう少しは体裁を整えている。
いずみは目を閉じた。雨風でバチバチと顔を叩く髪の感触を十分に味わってから、目を開けた。
……よ……いやいやいやいやいや、あれはマズイ洒落にならない。本当に死んじゃう。
「タナちゃん、それジョーク?」
「タナちゃんのお家ぃ! はいっていいよぉ!」
駆け出したタナちゃんは、その家らしき建物の中へと消えていった。
隣にいたマキナが、一歩踏み出した。
「では行きましょうか」
「行きましょうかじゃなくて! く、くずれたら死んじゃう」
マキナは振り返った。
「いずみ先輩、それはタナちゃんに失礼なのですよ」
「正論もいいからっ、雨、風、山、ぼろ――古風なお家、どう考えても平気じゃないからね!」
「なるほど、強度がご心配だったのですね。その点はマキナにとっても懸念事項でした。しかし簡易調査の結果、構造上の問題は認められず、補強もされているために直ちに倒壊などの危険はないと推察されます」
「そ、それ本当……?」
急に雨の勢いが強くなって、マキナの顔がノイズにまみれているように見えた。
「はい。人数にもよりますが、本日中の倒壊確率は約3%程度と思われます。これは悲観的観測なので、実際のリスクはそれよりもやや低下することでしょう」
「そ、そっかあ……なら濡れてるよりは……」
あれでも3%って結構高くない? まあ、よし、97%のほうが高いもん。平気に決まってる。マキナちゃんが言うんだし、なんか信頼できる気がする。
「はい、このまま屋外にいるよりはよほど安全かと。最悪の場合は、マキナが救助するのでご安心ください」
いずみは本日何度目かの重大な決断を下した。
冷静に考えて本当に死ぬわけないよね、私ったら小心者なんだから、などと思いながら。
そして、ようやく一歩を踏み出すのだった。
「おじゃましますです」
「おじゃましまぁす……」
頭を下げながら玄関をくぐると、早速板張りの床がぎぎと鳴いた。
気にしないことにした。
中は暗く、照明が付いていなかった。
土間には木材の切れ端が散乱していて、靴の置き場がほとんどなかった。棚には熊の置物、マトリョーシカ、片腕のもげた犬のぬいぐるみ……等、統一感のない小物が置かれていたが、そちらもまた気にしないことにした。
短い廊下を抜けると、6畳ほどの部屋に出た。
明るくはないものの、こちらは小ぶりなシーリングライトが設置されていて、部屋の中央から光が広がっていた。
キャンプ用のランタンほどの光量しかなかったが、いずみはそれを趣があると解釈した。
壁に、黒い影が浮かび上がった。どこかから戻ってきたタナちゃんの頭だった。
「いらっしゃいませぇ、タナちゃんのぉリッチなお屋敷にようこそぉ」
リッチ? 思ったが、声には出さなかった。タナちゃんなりのジョークなのだろう。
「みてよぉこのカッシーナのソファ、パパのオキニなんだぁ」
タナちゃんが手で指し示したのは、バス停から拾ってきたようなベンチだった。
「はは、わーおしゃれ……ええと、ご家族はお留守?」
ベンチを向いていたタナちゃんの頭が、ぐるっと回転した。獅子舞のように口を大きく開けて、軽くはにかんだ。
「タナちゃんパパはぁ、カッシーナでごくつろぎちゅぅ」
ねえパパァ、と、タナちゃんは高級ソファを自称するベンチに駆け寄っていった。
胸を張って「パパは無口だけど、とぉっても優しいんだよ」などと発言している。
困る冗談だ。ノッてあげればいいのかな、でもやりづらい。やっぱり奇妙だよ、この子。
「は、はは、そうなんだー」
いずみが頬を痙攣させていると、パッとタナちゃんの顔が明るくなった。
部屋の隅にあるドアに顔を向けて、叫んだ。
「おにいちゃんただいまぁ!」
タナちゃんは助走をつけて、そのお兄ちゃんに飛びついた。身体中を使って抱擁し、頬をこすりつけている。
ようにしか見えない動作をしていた、なにもない場所で。
「ただいまぁ、遅くなってごめんなさぁい、でもね、でもね、お話してたマキナちゃんと、いずみ姉さんをご招待したんだよぉ」
タナちゃんは目を閉じて、頭でも撫でられているかのように気持ちよさそうな顔をしていた。
脇の下に汗が滲んで、全身に鳥肌が広がった。無意識に呼吸が早くなった。
いずみは軽く息を吸って、マキナに耳打ちした。
「ね、ねぇ、タナちゃんあれ、遊んで――」
マキナは膝に手を置いて、深くお辞儀をした。
「マキナと申しますです。本日はお招きいただき感謝します、です」
それからベンチの方に向き直って、もう一度。
「お父様も、よろしくお願いしますです」
その一連の挨拶を終えてから、マキナはいずみを見た。
「ごめんなさい、なにか言いましたか?」
呆然としていたいずみは、気を取り直してまた耳打ちをした。
「た、タナちゃんっていつもこうなの……? ご両親やお兄さんって、えと、いないわけじゃないよね」
マキナは一歩下がって、軽く目を細めた。
「もしかして、いずみ先輩には見えないのですか?」
「……ん?」
「タナちゃんのご家族です」
ツーンと耳鳴りがした。窓が光って、雷鳴が遅れて轟いた。
「おにいちゃんだいすきぃ」
タナちゃんは、なにもない場所に頬を擦り寄せ続けていた。




