第15話 おぢさんはダメ
夕方の喫茶わらびは10あるテーブル席の4までが埋まっていた。
学校帰りの高校生、新聞紙を広げる年配の男性、買い物袋を空席に置く声の大きい二人組の女性。
ほんのり漂うコーヒー豆の香りと、主張しすぎないジャズミュージック。いつもと変わらない、夜と昼の狭間のゆったりとした時間が流れていく。
「それ一口ちょうだぁい」
「いずみ先輩、お客様にお出しするカップの方向は西向きでしょうか、東向きでしょうか、オペレーションに不備があってはならないので、迅速な情報共有を求めます、です」
美味しかったよ、と言われれば胸が弾む。また来るよ、と笑顔を向けられれば、こっちも自然と笑顔で応対する。
仕事が人生を豊かにするものなのだとしたら、今自分は若輩ながらも意義と価値を十分に感じている。子供が汚したテーブルの後片付けも、言い掛かりにも近いクレーム対応もへっちゃらだ。
やりがいを感じても、大変だと思ったことはない。
新人教育という、現在進行系の特大爆弾を除けば。
「そのスパ全部ちょうだぁい」
「申し訳ありませんのですお客様。グラスに露が付着しているので、新しいものとお取り返しますのです」
「……マキナちゃんは後でいっか」
暴れる二人を比較して、いずみはひとまずタナちゃんを何とかすることにした。
お客さんにまとわりついて、よだれをダラダラ垂らしているのは食品衛生法上問題がある。保健所の職員に目撃されたら本当に潰れるかもしれない。
いずみは笑顔を浮かべたまま、女性客二人のテーブルに近づき、タナちゃんの襟首を掴んだ。
「新人スタッフがご迷惑をおかけして、大変申し訳ありません。その、実はその子はワケアリでして……」いずみは声に詰まる感じを演出しながら、軽く目を伏せた。「よく言って聞かせますので、どうか今回は大目に見てもらえませんか」
タナちゃんは指を咥えて「ワケアリってなぁに?」とつぶやいた。黙っててほしい。
「し、失礼します!」
深く頭を下げる。襟を引っ張って、力付くでタナちゃんを引き剥がした。2度3度とお辞儀をして、テーブルに背を向けた。
背後から、その女性客の会話が聞こえてきた。
「そんなに神経質にならなくったっていいのにねぇ」
「ねえ。お嬢ちゃん、遠慮せずにいつでもおいでね」
なんとなく、タナちゃんが手を振っているのがわかった。
ドスドス音を立てて歩いて、カウンターのすぐ近くまで下がったところで、マスターと目が合った。
「桜野さん。仕事は臨機応変、タナちゃんさんの奔放さが、お店の個性にもなるんですよ」
あ、またそういう系ね。
パッと手を離すと、タナちゃんはテーブルの方にかっとんでいった。
こんな時どんな顔をすればいいんだろう。張っていた気を解放する方向と、引き締める方向でいずみが葛藤していると、ぬるっとマキナが顔を出した。
「いずみ先輩、マスターの指摘には一定の合理性があるのです。リスクを背負ってでも、店舗のユニークさを追求し差別化を図る。それは競争を勝ち抜くための生存戦略として正当化されます」
「へ? あ、へえ」
「ウェール大学経営戦略学科のとある助教授は、店舗特有のマスコットを配置することで、顧客満足度とリピーター率が上昇するとの研究結果を報告しています。査読付き論文が提出されていますが、詳細をご説明いたしましょうか?」
「……よし」
こんなときは笑顔でいればいいんだ。気にしちゃいけない、なにも。店が潰れたって関係ないし、クレーム処理もマスターがやればいいんだもん。
「マキナちゃん」
「はい、なんでしょう?」
「私が教えることはもうなんにもない。これからは自由にやろうね、楽しいほうがいいもんね」
「それはどのような……もしやいずみ先輩は、高度な経営理論を既にマスターされているのですか?」
「うん、そうかもね。あはは」
「おぉ……なのです」とマキナは感嘆するような声を出した。
いずみは声を出して笑った。客の視線を感じたが、やっぱり気にするのはやめにしておいた。
あー、早く仕事終わらないかな。
午後6時、最後のお客さんが店をあとにして、無事に閉店時間を迎えた。
いずみはマキナとタナちゃんと一緒に店先まで出て、丁重にその帰りを見送った。
ほっと息を吐くと、急に肌寒さを感じた。春とあってもこの時期はまだ風が冷たい。
それに、空模様もよくない。厚い雲が広がって、空を覆い隠している。ノロノロしていたら降り出してきそうだ。
「嫌な空、朝の予報では平気だったのに。早く締め作業しちゃわないと」
すぐ隣で、マキナが空を見上げた。
「そう焦らなくても平気なのです。降り出すまでまだ1時間23分ほどある上に、降雨も2時間弱で収まる予報です」
「そうなんだ。ていうかすっごい細かい、マキナちゃんどんなアプリ使ってるの?」
「いえ、気象衛星とのデータリンクなのです。そんなことより、お仕事を終わらせましょう。ホール内の清掃はマキナに任せてほしいのです」
「うん、あと少し頑張ってね。あ、タナちゃんは遊んでていいよ」
「はいなのです」
「お腹へったぁ」
店内に戻って、閉店時の作業に移った。
床掃除、ゴミ出し、厨房内の清掃、レジの金額確認と売上の集計等、必要な作業をこなした。
マキナは常人の5倍の速度でホール内の清掃を終えていたが、今さら細かいことを気にしようとは思わなかった。
作業も佳境を迎え、全業務が終了しようかという頃、キャッキャとはしゃぎながら、タナちゃんがこんなことを言った。
「ねぇ、マキナちゃん。これからお家に遊びにこなぃ?」
「これからですか? 夜もふけるので、また後日にするほうが賢明かと思われますが」
「うちはいつでも平気だからぁ、一緒にご飯食べよ。約束したよねぇ?」
タナちゃんが90度も首をかしげた。
マキナは真正面を向いたまま、1秒ほど硬直していた。
「それはショッピングモールでの『今度お家に遊びに来てよぉ、お兄ちゃんにも紹介したぁい』」という発言のことですね。承知しました、確かにマキナは前向きに検討すると返事をしたので、お邪魔させていただくのです」
マキナのタナちゃんの声真似は、再生したようにそっくりだった。
いずみが注目してると、歯を見せて笑うタナちゃんと視線が重なった。
あ、八重歯尖ってる、などと思っていると、その大きな口が言葉を発した。
「いずみ姉さんも来てくれるよねぇ?」
「え、私? ええと、嬉しいんだけど、まだ初対面だしご家族にご迷惑を――」
言いかけて、待てよ、と思う。
この子の家、家族、めちゃくちゃ気になる。どう見ても普通じゃないし、自由すぎるし、マスターにおねだりして10人分はたいらげてた。親の顔が見てみたい。あわよくばマスターの横暴を報告して、保護者権限で仕事を諦めさせてもらいたい。
それに、お呼ばれしてるのに断るのは非常識かも。
タナちゃんの目元が徐々に垂れ下がっていき、口元がわなわなと震えている。
5秒先には涙の運河が形成されてしまいそうだったので、いずみは慌てて言い直した。
「や、やっぱり私もお邪魔させてもらおうかな。仕事仲間として親交も深めたいし……いいかな?」
タナちゃんは花咲くように笑顔になって、指で輪っかを作った。
「もちぃ! わーい、わーい、ばんじゃーぃ」
いずみの胸が、少し暖かくなった。変な子だけど、悪い子じゃない。ただ無邪気なだけなんだな。
はしゃぐ姿を眺めていると、レジで作業をしていたマスターが割り込んできた。
「私もご一緒していいかな?」
「正気ですか?」
タナちゃんは笑顔のまま、マスターを見た。
「おぢさんはダメ」
「でしょうね、はは」
がちゃんと音を鳴らしてレジを閉め、マスターはバックヤードに消えていった。笑い声を、響かせながら。
追いかけようとか、フォローしようとか、そんな気には全くなれなかった。むしろタナちゃんナイス。




