第9話:暗がりで重なる手と、初めての「おやすみ」
映画のスクリーンが暗転し、エンドロールがゆっくりと流れていく。
映画館の場内の照明がパッと点灯した瞬間、結衣は「っ……!」と弾かれたように自分の手を引っ込め、膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
暗闇に紛れて僕の手の上に自分の手を重ねていた時間が、急に現実の明るさの中に引き戻されたのだ。
「……ふ、ふん。まあまからの映画だったわね」
「そうだね。特に最後のシーン、すごく引き込まれたよ」
そう答えながら、僕は彼女の真っ赤になった耳たぶを見逃さなかった。映画の中盤から上映終了まで、彼女はずっと僕の手の上に自分の手を重ねたまま、小さく指先を震わせていたのだから。
館内を出て、初夏の風が心地いい駅前のカフェに入った。
注文した冷たいカフェラテが運ばれてくると、結衣はストローをくるくると回しながら、どこか上目遣いに僕のスマホをチラチラと気にしている。
「……ねぇ、高橋くん」
「ん?」
「さっき、映画館に入る前……連絡先、交換したでしょう?」
「うん。ちゃんと『YUI』って登録されてるよ」
「べ、別に大した意味はないけれど……ちゃんとメッセージが届くか『テスト送信』くらいはしておいた方がいいんじゃないかしら? 生徒会役員としての連絡網の確認よ!」
映画館で教えろと迫った時と同じく、必死で取り繕った言い訳。
要するに、さっき無事にLINEを交換できたのが嬉しくて、今すぐメッセージのやり取りをしてみたいのだ。
「そうだね。じゃあ、さっそく送ってみるよ」
僕はスマホを取り出し、画面を開いて手早くメッセージを打ち込んだ。
『今日の私服、すごく似合ってて可愛かったよ。一緒に出かけられて嬉しかった』
送信ボタンを押した直後、テーブルの上の結衣のスマホがピコンと可愛らしい通知音を立てた。
結衣は両手で大切そうにスマホを持ち上げ、画面に表示された僕からのメッセージを目にした瞬間——顔全体が一気に沸騰したように赤くなった。
「っ——!? な、なにを急にこんな……っ! テスト送信って言ったでしょう!?」
「本音を言っただけだよ。ダメだった?」
「ダ、ダメじゃないけど……! あなたって人は、本当に……!」
照れくささのあまり言葉に詰まった結衣は、スマホを胸元に抱きしめ、いつものように顔を背けて小声を漏らした。
«Θεέ μου... θα το κρατήσω αυτό το μήνυμα για πάντα...»
(神様……このメッセージ、一生保護して宝物にする……)
«Είναι τόσο γλυκός... η καρδιά μου δεν αντέχει άλλο...»
(優しすぎるよ……私の心臓、もう持たない……)
——一生保護って、可愛すぎるだろ生徒会長。
心の中で悶絶しながら、僕は冷たいカフェラテを一口飲んで熱くなった喉を潤した。
夕暮れ時。駅前の改札前で、僕たちは別れの時間を迎えていた。
手を繋いで歩いた映画館までの道のりや、カフェでの照れくさそうな表情。今日一日の出来事が頭を駆け巡り、名残惜しさが胸の中に広がっていく。
「じゃあ、高橋くん。月曜日の放課後……生徒会室で待っているわ」
「うん。今日も『お仕置き』の延長戦、すごく楽しかったよ。気をつけて帰ってね」
「……ええ。あなたもね」
結衣は名残惜しそうに一度振り返り、恥ずかしそうに小さく手を振ると、改札の向こうへと消えていった。
そんな余韻に包まれながら帰宅し、自分の部屋のベッドに転がって今日の出来事を思い出していた時のことだった。
時計の針は、すでに夜の10時を回っている。
ピコン、とスマホが短い通知音を鳴らした。
画面を見ると、差出人は『YUI』。
おそるおそるメッセージを開くと、そこには短い一文と、ペンギンが恥ずかしそうに布団に潜り込むスタンプが添えられていた。
『今日は……その、楽しかったわ。無事に帰れたかしら? 映画のチケットも、ありがとう』
それだけでも胸がキュッと締め付けられるほど嬉しかったのだが、そのメッセージのすぐ下——送信されてから数秒後、追加で一言だけポツンと届いた。
『Καληνύχτα.(おやすみなさい)』
わざわざギリシャ語で打たれた、一言だけのメッセージ。
きっと彼女は「日本語で『おやすみ』って送るのは恥ずかしいから、彼には読めない外国語でひっそり送ろう」と考えたのだろう。
映画館で「家に帰ったら絶対に『おやすみ』って送るんだから」と意気込んでいた彼女の姿が目に浮かび、僕は思わずベッドの上で枕に顔をうずめて転がった。
(ずるいよ、白川さん……そんなの、余計に眠れなくなるだろ)
僕は天井を見上げ、静かに鼓動を強める自分の胸に手を当てた。
現場での緊張感とはまた違う、画面越しの甘い余韻。
『僕もすごく楽しかったよ。おやすみ、結衣ちゃん』
心を込めて返信を打ち込み、送信完了の表示を見つめながらゆっくりと目を閉じる。
明後日の放課後、生徒会室で出会う彼女の顔を想像しながら——僕たちの甘い週末は、静かに更けていくのだった。




