第8話:暗闇の映画館と、画面越しの小さな一歩
映画館の券売機の前。
休日の人混みを抜けて館内に入っても、僕たちの手は繋がれたままだった。結衣は「は、離したら迷子になるかもしれないでしょ!」と強がりつつも、一度も握る力を緩めようとはしなかった。
「席は一番後ろの端を取っておいたよ」
「ふ、ふん、分かってるじゃない。人目を気にせず集中できるわ」
スクリーンへ続く暗い通路を歩きながら、僕はポケットの中でスマホが静かに震えたのを感じた。
……そういえば、映画が始まる前に通知を切っておかないと。
チケットを片手に指定の座席に座り、僕はスマホを取り出して画面を伏せた。
すると、隣に座った結衣がその様子をじっと横目で盗み見て、露骨にそわそわし始めた。
(……あ、そうだった)
駅前で手を繋いだ時、彼女がボソッと呟いていたギリシャ語を思い出す。
『今日こそは……絶対に彼とLINE交換するんだから……!』
昨日の放課後、生徒会室で僕が「LINE交換しよっか?」と尋ねた時、結衣はパニックを起こして『生徒会長の個人情報は厳重管理なのよ!』と突っぱねてしまっていたのだ。本当は交換したくてたまらないのに、自分から「やっぱり交換して」と言い出せずに悶々としているらしい。
「……ねえ、高橋くん」
暗がりの中、結衣が意を決したように声をひそめて話しかけてきた。
「ん? どうしたの、白川さん」
「そ、その……連絡先のことなんだけど」
「うん」
「……べ、別にあなたと毎日やり取りしたいとか、そういうわけじゃないのよ!? ただ……今日みたいに集合場所で迷ったり、急な天候の変更があったりした時、連絡手段がないのは生徒会役員として『危機管理能力』に欠けると思ったの!」
暗闇の中でもはっきりと分かるくらい、彼女の顔は真っ赤に染まっていた。
言葉を選びに選んで作り上げた、精一杯の言い訳。
「だから……その、今だけ特別に……LINE、教えてあげてもいいわよ」
上から目線な言い回し。けれど、その蒼い瞳は不安そうに揺れていて、僕の反応を必死に待っていた。
「そっか。生徒会長としての危機管理なら、断るわけにはいかないね」
「っ……! 嫌なら無理にとは言わないわよ!」
「ううん、交換したい。僕もずっと教えてほしかったんだ」
そう言って僕がLINEのQRコード画面を表示して差し出すと、結衣は「〜〜〜っ!」と声にならない悲鳴を上げながら、慌ててバッグから自分のスマホを取り出した。
ブルッと小さく震える僕の端末。
画面には『YUI』というシンプルな名前と、綺麗な青空のアイコンが表示された。
無事に友達追加が完了したその瞬間、結衣は安堵したように胸を撫で下ろし、膝の上でスマホをギュッと抱きしめた。
そして、暗い映画館の照明に紛れるように、顔を背けて小さくギリシャ語を呟いた。
«Τέλος πάντων...! Τώρα μπορώ να του στέλνω μήνυμα κάθε μέρα...!»
(やった……! これで毎日、彼にメッセージを送れる……!)
«Θα του στείλω "καληνύχτα" μόλις γυρίσω σπίτι...»
(家に帰ったら、絶対に『おやすみ』って送るんだから……)
――やっぱり、丸聞こえですよ、生徒会長。
心の中で優しくツッコミを入れながら、僕は思わず口元を緩ませた。
スクリーンに予告編の映像が映し出され、館内がゆっくりと暗くなっていく。
「……高橋くん」
「なに?」
「映画……集中しなさいよ」
そう言いながら、結衣は膝の上に置いていた僕の手の上に、自分の温かい手をそっと重ねてきたのだった。




