第4話:雨宿りと、折りたたみ傘の温もり
弓道場の前をあとにして、いつものように生徒会室へ向かおうとしたその時だった。
「うわっ、マジかよ……」
校舎のエントランスに出た瞬間、僕は思わず天を仰いだ。
さっきまで晴れていたはずの空が、いつの間にか鉛色の雲に覆われ、激しい雨粒がアスファルトを容赦なく打ちつけている。天気予報が外れたのか、見事なまでの急な土砂降りだった。
昇降口の前には、傘を持たずに立ち尽くす生徒たちが何人か溜息をついている。もちろん、今日の僕も傘を持っていない。
(……これ、しばらく止みそうにないな)
濡れて帰るしかないかと覚悟を決めたその時だった。
「……ちょっと、あなたね」
背後から、凛とした、けれどどこか焦ったような声がかけられた。
振り返ると、そこには制服を綺麗に着こなし、生徒会腕章を付けた白川結衣が立っていた。彼女の手にしっかりと握られているのは、一本の紺色の折りたたみ傘だった。
「白川さん……」
「なによ、そんな情けない顔をして。……まさか、傘を持っていないわけじゃないでしょうね?」
「あいにく、ご覧の通りだよ。見事に無防備なびしょ濡れ予備軍さ」
僕が苦笑いをしながら答えると、結衣は「はあ……」と大きな溜息をついた。
だが、その耳たぶがスッと赤く染まっているのを、僕は見逃さない。彼女は持っていた折りたたみ傘を、まるで厄介払いするかのように僕の胸元へと突きつけてきた。
「しょ、しょうがないわね! 生徒会役員が風邪でも引いたら学校の恥だもの! ……これ、貸してあげるから早く帰りなさい!」
「え? でも、これを貸したら白川さんはどうするの?」
「わ、私は……その、生徒会室に予備の傘がもう一本あるからいいの! だから、余計な心配しないで!」
完全に嘘だと分かる慌てた口調。
だって、生徒会室の予備の傘なんて、この間僕が確認した時には壊れて処分されていたはずだ。
つまり彼女は、雨宿りをしている僕を見かねて、自分の傘を無理やり譲ろうとしている——それも、恥ずかしさを隠すために強気な態度で。
「ありがとう、白川さん。でも、一人分の傘しかないなら、こうしようよ」
「え……?」
僕が傘を受け取る代わりに、彼女の手首を優しく掴んで一歩だけ距離を詰める。
瞬間、結衣の身体がビクリと跳ね、顔全体が一気にトマトのように真っ赤に染まった。
「なっ……なにするのよ、急にそんなに近づいて……!」
「一緒に、入ろ? この傘、二人で入るにはちょっと小さいかもしれないけど、相合傘なら濡れずに済むだろ?」
僕がそう言ってクスッと笑うと、結衣は心臓が止まったかのように数秒間フリーズした。
蒼い瞳が大きく見開き、言葉を失っている。
「あい、あい、がさ……っ!?」
「嫌だった?」
「い、嫌じゃ……いや、そうじゃなくて! 男女がそんな密着して帰るなんて、風紀的に、世間的に大問題よ!」
「誰も見てないって。ほら、入って」
半強制的に彼女の折りたたみ傘を開き、僕は結衣の肩を引き寄せてその下に入り込んだ。
密着した距離から、彼女のシャンプーの優しい香りがふわりと鼻をかすめる。結衣は心臓が破裂しそうなほどバクバクと音を立てているのが、すぐ近くに立っているだけで伝わってきた。
学校を出て、並んで歩き始める。
傘が小さいせいで、僕たちの肩と肩がぴったりと触れ合っていた。
「……っ」
結衣は顔を真っ赤にしたまま、前を向いたきり一言も喋らない。
ただ、傘の柄を握る手が白くなるほど強く握りしめられていた。緊張のあまり、足並みもどこかぎこちない。
そんな彼女の様子が愛おしくて、僕はさっき弓道場で見た彼女の姿を思い出しながら口を開いた。
「ねえ、白川さん」
「な、なによ……」
「さっき弓道場でさ、凛として弓を引く姿、すごく綺麗だったよ」
「っ——!」
僕がまっすぐにそう伝えると、結衣の歩みがピタリと止まった。
雨の音が周囲を包み込む中、彼女は真っ赤な顔のまま俯き、いつものように小声でブツブツと外国語を呟き始めた。
«Θεέ μου... τι λέει ξαφνικά...; Η καρδιά μου πρόكيتαι να εκραγεί...»
(神様……いきなり何を言い出すの……? 私の心臓が爆発しちゃう……)
«Και... γιατί είναι τόσο ζεστός... Δεν θέλω να φτάσουμε στο σπίτι ποτέ...»
(それに……なんでこんなに優しいの。家になんて、ずっと着いてほしくない……)
——すべて、丸聞こえですよ、生徒会長。
「ねえ、何か言った?」
«Τίποτα!»
(なんでもないわよっ!)
「な、なんでもないわよっ! 早く歩きなさいよ、こののろま!」
照れ隠しに声を裏返しながら、結衣はさらに早足で歩き出す。
けれど、僕に触れている方の肩だけは、名残惜しそうにぴったりとくっついたまま離れようとはしなかった。
冷たい雨が降る夕暮れの帰り道。
傘の中に広がる小さな空間は、世界で一番温かくて、甘い香りに満ちていた。




