第3話:ファインダー越しの氷の女王と、図書室の隠れ家
「お前さ、最近やけに機嫌良くないか、高橋」
放課後の写真部室。
三脚を片付けていた部長・翔太が、僕の顔をしげしげと眺めながらニヤニヤと笑った。
「そうか? 別に普通だろ」
「いや絶対おかしいって。一週間前まで『生徒会室行きなんて処刑宣告だ……』とか青い顔して怯えてたのに、最近は毎日放課後になると『じゃ、部活抜けるわ』ってウキウキで生徒会室に向かってるじゃん。もしかして、本当に会長と裏で何か企んでるだろ?」
「企んでるって言うか……まあ、日々の『お仕置き』の消化で忙しいんだよ」
「お仕置きって何だよ、Mかお前は!」
翔太の呆れたようなツッコミを適当に受け流し、僕は部室を飛び出した。
嘘をついているわけではない。毎日放課後に生徒会室へ行くと、結衣が手作りのお菓子や冷たいお茶を用意して待っていてくれるのだ。最初は「処理を手伝わせるのよ!」とツンツン怒っていた彼女も、最近では少しずつ会話の棘が抜け、不器用ながらも柔らかい笑顔を見せてくれるようになっていた。
——もっとも、その直後に必ず恥ずかしくなってギリシャ語で盛大に自爆するのだが。
廊下を歩きながら、僕はふと、今日の昼休みの出来事を思い出していた。
まだ新学期の空気感が残る2年1組の教室。授業中、いつものように隣の席の結衣から、シャーペンで書かれたメモ用紙が回ってきた。
«Μην κοιτάς τον πίνακα, κοίτα με»
(黒板じゃなくて、私を見なさいよ)
相変わらず直球すぎる独占欲に思わず吹き出しそうになりながら、僕はすかさず「勉強の邪魔をしないでください、生徒会長」と日本語で書き返して押し返した。
すると、結衣は「っ……!」と小さく肩を震わせ、耳まで真っ赤にしながら、机の下でさらに書き殴ってきた。
«Είσαι πολύ ενοχλητικός...»
(本当にめんどくさい人……)
——全然怒ってないどころか、嬉しそうに口元を緩ませているのが丸見えだった。
そんな日常が、最近は心地よくて仕方がなかった。
生徒会室へ向かう前に、僕はもう一つの「避難所」へ立ち寄ることにした。
薄暗い廊下の突き当たり、ひっそりと佇む学校の図書室。
きしむ扉を開けると、そこには静寂とインクの匂いが広がっていた。窓際の特等席で、文庫本をめくっているポーカーフェイスの少女——幼馴染の橘 栞がいた。
「……おや、珍しいね。今日の放課後は生徒会室直行じゃなかったのかい?」
栞はページから目を離さず、淡々と言った。
「いや、その前にちょっと一息つきに来たんだよ。お邪魔します、図書委員長」
「委員長じゃない、ただの平委員だよ」
僕は栞の向かいの席に腰を下ろした。
幼馴染である栞は、僕が幼少期をアテネで過ごした「隠れ帰国子女」であることを知る数少ない理解者だ。そして同時に、結衣が毎日僕にどんなギリシャ語のデレをぶつけているのかも、図書室での会話を通じてうっすら(あるいは完全に)察している。
「……で? 今日も会長さんは可愛いギリシャ語を呟いていたかい?」
栞は本をパタンと閉じ、涼しげな目で僕を見つめた。その表情には、ほんの少しだけからかうような色が混じっている。
「お前なぁ……。まあ、今日も相変わらずツンデレ全開だったけどさ」
「ふん。素直になれないお姫様を相手にするのも大変だね。君が鈍感だから、あの子も苦労しているんだよ」
「痛いところを突くなぁ……」
栞の的確すぎるツッコミに、僕は苦笑いするしかなかった。
彼女自身も本心では何を考えているのか読めないところがあるけれど、こうして静かに愚痴を聞いてくれる幼馴染の存在には、いつも救われていた。
「……そろそろ行けば? あまり待たせると、あのプライドの高い女王様が、部屋の隅で『遅い……もう嫌われたのかしら』ってブルブル震えながらギリシャ語で嘆くことになるよ」
「うっ……それもそうだな」
栞の容赦ない描写に冷や汗をかきながら、僕は席を立った。
「ありがとう、栞。また来るよ」
「はいはい。ちゃんと手懐けるんだよ、野良犬くん」
栞の静かな見送りを受けながら、僕は図書室を後にした。
夕日が廊下をオレンジ色に染める頃。
僕は弓道場の前を通りかかった。写真部の活動の一環として、部活中の生徒たちの姿をカメラに収めることになっていたのだ。
ふと目を向けると、放課後の道場には、一人の少女が立っていた。
白川結衣。
生徒会の仕事を終えた彼女は、すでに制服から紺色の袴に着替え、凛とした立ち姿で弓を構えていた。その横顔は、教室や生徒会室で見せる不器用な少女の顔とは全く違う。研ぎ澄まれた緊張感と、息を呑むほどの気高さに満ちていた。
カシャ、と音を立てて、僕は首から下げたカメラのシャッターを切った。
ファインダー越しに切り取られた彼女は、あまりにも美しかった。
——その瞬間、的を見据えていた結衣の背筋がピクリと跳ねた。
彼女がスッと視線を向けた先には、カメラを構えた僕がいる。
「……っ! な、なんであなたがここにいるのよ、高橋くん!」
一瞬で緊張の糸が切れたように、結衣は顔を真っ赤にして弓を下ろした。
慌てて近づいてくる彼女の頬は、夕日とは違う熱で赤らんでいる。
「いや、写真部の課題でさ。弓道場の練習風景を撮れって言われてて」
「そ、そう……別に、勝手に撮りなさいよ……。でも、そんなに変な顔で写ってたら許さないんだからね!」
そう言いながらも、彼女は恥ずかしそうに自分の袴の裾をキュッと握りしめている。
その様子が愛おしくて、僕は思わずふっと笑ってしまった。
「笑わないでよ! ……もう、本当にあなたは……」
悔しそうに頬を膨らせた結衣は、聞こえないと思ったのか、またいつもの癖で小さな声でブツブツと外国語を呟き始めた。
«Θεέ μου, με κοιτάζει με αυτό το βλέμμα... Η καρδιά μου πάει να σπάσει...»
(神様、あんな目で私を見ないでよ……心臓が壊れそう……)
«Και... γιατί χαμογελάει έτσι; Είναι τόσο αธรรมς...»
(それに……なんでそんな風に笑うの反則でしょ……)
すべて丸聞こえですよ、生徒会長。
心の中で優しくツッコミを入れながら、僕はファインダーの向こうの彼女に向かって、真っ直ぐに微笑みかけた。
「じゃあ、今日の『お仕置き』の生徒会室、すぐに行くよ、会長」
「……っ! じ、じゃあ早く来なさいよ! 待たせたら、もっと厳しい罰を与えるんだから!」
真っ赤になって早足で生徒会室の方へ歩いていく結衣の後ろ姿を見送りながら、僕はカメラの液晶画面を確認した。
そこに映っていたのは、凛とした弓道着姿でありながら、世界で一番愛おしく頬を染めた彼女の笑顔だった。




