第9話「霊峰の吹雪と命の灯火」
荒れ狂う猛吹雪が、白銀の世界を白一色に塗り潰していた。
王都北方に聳える霊峰・氷哭山。
標高が上がるにつれ、吹きつける風は鋭利な刃のように研ぎ澄まされ、吐く息は口から出た瞬間に細かな氷片となって散る。
フィオナ・アシュレイは毛皮のフードを深く被り、膝まで埋まる深い雪に足を取られながら一歩ずつ険しい斜面を登っていた。
睫毛には白い霜がびっしりと張り付き、まばたきをするたびに氷が軋むような痛みが走る。
肺腑に吸い込む空気はあまりに冷たく、気管が凍りつくような感覚に喉が引き攣った。
先頭を行くジルが、漆黒の外套を風に翻しながらフィオナの手を引く。
長剣を杖代わりに雪を踏み固め、風上側に自らの頑丈な身体を置いて、フィオナに直接突風が当たらないよう庇い続けていた。
ジルの全身からは、周囲の極冷気に共鳴した鋭い冷気の香りが立ち上っていたが、握られた革手袋の手からは、フィオナを離さないという確固たる熱が伝わってくる。
吹雪の轟音にかき消されぬよう、時折振り返っては萌黄色の瞳を見つめ、無言でうなずきかけてくれた。
その静かな眼差しが、フィオナの折れそうな心を力強く支えている。
「……前方の岩壁だ!」
風切り音を切り裂いて、ジルの低い声が届いた。
見上げた先、切り立った断崖絶壁の中腹に、猛吹雪の合間を縫って青白い光が揺らめいている。
分厚い万年氷の亀裂から、寒気に耐え抜いて咲き誇る、透き通った花弁。
古代呪詛の冷気を中和する唯一の原種植物、『冬至の雪割草』だった。
「ありました……! あれです!」
フィオナは凍傷に痛む指先に力を込め、ジルと共に断崖の縁へと歩み寄った。
足元は千尋の谷。
滑落すれば即座に命を落とす氷の裂け目が口を開けている。
ジルが背後の太い岩角に自らの頑丈な登山縄を巻き付け、フィオナの腰へと三重に結びつけた。
「俺が支えている。無理はするな」
ジルの蒼氷色の瞳が、真剣な光を湛えてフィオナを見つめる。
フィオナは力強くうなずき、慎重に足場を確かめながら、岩壁の窪みへと手を伸ばした。
指先が冷気に痺れ、皮膚が金属的な冷たさに凍りつきそうになる。
息を止め、銀の採取小刀で根元の氷ごと花茎を丁寧に切り取った。
手のひらに収まった雪割草から、凛とした清冽な香気が立ち上る。
「取れました、ジル様……!」
フィオナが振り返り、小瓶へ花を収めようとしたその瞬間だった。
ゴォッ、と山を揺るがすような突風が、崖下から吹き上がる。
フィオナの足元の氷棚が、轟音と共に一気に崩落した。
足場を失った衝撃で腰縄が鋭利な岩角に激しく擦れ、パツンと乾いた音を立てて破断する。
「フィオナ!」
足場も命綱も失ったフィオナの身体が、虚空へと放り出された。
◆ ◆ ◆
浮遊感が全身を襲った瞬間、強い衝撃が右腕に走った。
「離すものか……!」
身を投げ出したジルが、崖の縁から腕を伸ばし、落下しかけたフィオナの手首を万力のような力で掴み止めていた。
ジルの左手は、岩肌の裂け目へと深々と突き立てた長剣の柄を固く握りしめている。
切っ先が岩盤を削る甲高い軋み音が響く。
二人の全体重と吹き荒れる暴風の負荷が、ジルの両腕へと容赦なく圧し掛かっていた。
吹き上げる氷の礫が二人の顔面を打ち据え、視界を白く染め上げる。
ジルが喉の奥で咆哮を上げた。
背筋の筋肉が盛り上がり、凄まじい怪力でフィオナの身体が一気に虚空から引き上げられた。
雪煙が舞い散る中、フィオナは固い岩棚の上へと倒れ込む。
「ジル様……!」
フィオナが起き上がり、ジルへ手を伸ばした瞬間、不吉な破裂音が耳朶を打った。
パキパキパキッ――
過剰な魔力の行使、そしてフィオナを失いかけた激しい感情の昂ぶり。
そのすべてが、氷哭山の極冷気と最悪の共鳴を引き起こした。
フィオナを引き上げたジルの右腕が、指先から手首、肘、そして肩の付け根にかけて、一瞬にして青白い氷晶に覆われていく。
皮膚の表面が陶器のように白く凍りつき、軍服の袖が氷の塊となって硬直した。
ジルの右腕は、凍結の深淵に呑まれて麻痺していた。
「ぐっ……あ……っ!」
激痛に顔を歪めたジルが、雪の上に膝をつく。
右腕はもはや自力で動かすこともできず、白氷の懐中時計が激しい青光を放ちながら、心臓への侵食を警告していた。
猛吹雪は狂ったように唸りを上げ、周囲の視界を真っ白に塗り込めていく。
この吹き曝しの断崖にとどまれば、数分と持たずに二人とも凍死する。
ジルは感覚の消えた右腕を庇いながら、動く左手でフィオナの腰を抱き寄せた。
「岩陰へ……入れ……!」
断崖の脇に、わずかに口を開けていた小さな氷洞窟。
二人は雪崩れ込むようにして洞窟の奥へと滑り込み、荒れ狂う暴風を背後に遮断した。
氷洞窟の奥には、しんとした死の静寂が横たわっている。
入口を吹き抜ける風が低く唸るたび、岩肌に張り付いた氷柱が微かに軋む。
岩壁に背を預けたジルの身体から、急速に生気の温もりが失われつつあった。
右腕は肩口まで陶器のような青白い氷像と化し、その冷気は首筋から心臓へと容赦なく触手を伸ばしている。
「……フィオナ……」
ジルの唇は青紫色に変色し、吐き出す息は熱を失っていた。
ジルは感覚の残る左腕で、フィオナを洞窟の奥の風下へと押しやろうとする。
「雪割草は……手に入った……お前だけでも……山を降りろ……俺はここまでだ……」
かすれきった声。
自分を犠牲にしてでもフィオナを生かして帰そうとする、あまりに切実な自制の匂いだった。
フィオナの瞳から、大粒の涙が次々とこぼれ落ちた。
「嫌です……! あなたを置いて山を降りるくらいなら、ここで一緒に凍りついた方がましです!」
「ばかを……言うな……! お前が死ぬ必要は……」
「ばかで結構です!」
フィオナは叫び、泣きながら自らの防寒着の胸元を緩めた。
採取したばかりの『冬至の雪割草』を取り出し、自らの素肌、胸元の熱へと直接押し当てる。
凍てつくような冷たさが心臓を刺したが、歯を食いしばって耐えた。
己の体温で雪割草の霜を溶かし、凍りついていた細胞を目覚めさせると同時に、銀の香炉ペンダントを開け放つ。
陽光草の黄金の精油を数滴、そして体温で活性化させた雪割草の露。
二つの希少な霊草を香炉の芯へと合わせ、残された全魔力を注ぎ込んで気化させた。
香炉の隙間から、立ち上ったのはこれまでにないほど濃厚で、真夏の太陽を思わせる生命の熱香だった。
しかし、ジルの唇は固く凍りつき、浅い呼吸では香気を肺腑まで吸い込むことができない。
外側から翳すだけでは間に合わない。
フィオナの瞳に、迷いはなかった。
フィオナは香炉の口へ顔を寄せ、立ち上る黄金の温香を、自らの口内一杯へと深く含んだ。
肺が焼けるような強烈な熱気と芳香が喉を駆け巡る。
そしてフィオナは、ジルの青ざめた両頬を凍傷の残る両手で包み込むと、迷うことなくその冷え切った唇へと、自らの唇を強く重ね合わせた。
「ん……っ!」
ジルの蒼氷色の瞳が見開かれた。
重なり合った唇の隙間から、フィオナの息と共に、凝縮された生命の熱香がジルの口内へ、そして喉の奥深くへと直接注ぎ込まれていく。
生き延びるため、互いの命を預け合う決死の口づけ。
パキパキ、パキリッ――
ジルの右腕を覆っていた分厚い氷晶に、無数の亀裂が走った。
黄金の魔力がジルの凍てついた魔力経路を一気に駆け巡り、右腕の凍結を急速に融解させていく。
青白い氷の破片が雪の上に落ち、湯気のように白い蒸気がジルの皮膚から立ち上った。
ジルの首筋に赤みが戻り、止まりかけていた心臓が、力強い拍動を刻み始める。
右腕の指先が、微かに動いた。
だが、この救命は急死を免れるための応急処置に過ぎない。
心臓の奥深くに巣食う呪詛の根源核は依然として脈打っており、迫り来る新月の決戦までに万全な調合を行わなければならない事実に変わりはなかった。
温もりを取り戻した大きな手が、フィオナの背中へと力強く回された。
ジルは自らの唇を離すと、肩を震わせて泣きじゃくるフィオナを、壊れ物を抱きしめるように強く自らの腕の中へと引き寄せる。
親指が、フィオナの頬で凍りついていた涙を優しく拭い去った。
「フィオナ……お前というやつは……」
ジルの低く震える声が、フィオナの耳元を熱く濡らす。
胸と胸が重なり合う場所から、二人の力強い心音が互いに共鳴するように響き合った。
洞窟の外では依然として猛吹雪が吹き荒れていたが、二人の間に流れる空気は春の陽だまりのように温かかった。
素材はすべて揃った。
二人は互いの生存を確かめ合い、新月の決戦が待つ王都へと下山する覚悟を固める。




