第8話「迫り来る新月と忍び寄る影」
初冬の冷たい木枯らしが、王都の中央大通りを吹き抜けていた。
フィオナ・アシュレイは厚手の防寒マントの襟をかき合わせ、副団長レオン・ヴァルガスを伴って老舗の薬問屋街を歩く。
胸元の調香鞄の中には、数日前にジルと共に抽出に成功し、その後も少しずつ集めた『陽光草の精油』の小瓶が大切に収められていた。
しかし、呪いを根治する『融解の香心』を完成させるためには、冷気魔力の荒れ狂う波長を穏やかに調律する最後の重要素材――極寒の霊峰に咲く『冬至の雪割草』が必要不可欠だった。
「……申し訳ありません、お嬢さん。うちではアシュレイ家の名義には、草の葉一枚売るなと厳命が出ているんです」
四軒目に訪れた王都最大の薬種商館の裏口で、店主の老人が申し訳なさそうに視線を泳がせた。
「宮廷薬師ギルドのガブリエル伯爵からの直々の命令です。逆らえば、明日から王都での薬草取り扱い許可を取り消されてしまう。どうか他所を当たってください」
扉が固く閉ざされ、錠前が重い音を立てて落とされる。
店主の背中から漂っていたのは、権力への怯えと、保身の苦い匂いだった。
ため息を漏らし路地へ戻ろうとした時、隣の路地裏から初老の薬草商人が小走りに駆け寄ってきた。
かつてフィオナの亡き母が調合した解熱香によって幼い娘の命を救われたという、古い薬種商だった。
「フィオナ様……! 表立って商いをお受けすることは叶いませんが、これをお持ちください」
商人が震える手で差し出したのは、油紙に包まれた古い羊皮紙である。
「先代の男爵夫人が、かつて北方霊峰の氷哭山で雪割草を採取された際の調査記録と、古い山道の地図です。公の市場は封鎖されましたが、自生する原種の群生地が記されています。どうか……ご無事で」
商人は深々と頭を下げると、人目を避けるように路地の闇へと消えていった。
母が遺してくれた人脈の温かな絆が、冷え切ったフィオナの手のひらに確かな熱を残している。
石畳を叩く軽薄な靴音が、背後から近づいてきた。
「あら、熱心にお買い物ですこと、お姉様」
鈴を転がすような、しかし底冷えのする嘲笑を含んだ声。
振り返ると、ミンクの華麗な毛皮を羽織った異母妹エレナが、取り巻きの若い貴族たちを引き連れて立っていた。
エレナの愛らしい笑みの裏から、むせ返るような腐敗臭が、冬の風に乗ってフィオナの鼻腔を直撃する。
◆ ◆ ◆
エレナは手にした扇子の先で、フィオナが提げている調香鞄を侮蔑するように指差した。
「惨めね、お姉様。公爵閣下の婚約者の座に収まったところで、中身はただの無能な居候のまま。王都中の薬問屋があなたに背を向けた理由、おわかりかしら?」
フィオナは静かに視線を向け返す。
「ガブリエル卿の差し金ですね」
「あら、正解ですわ」
エレナは取り巻きの貴族たちと目を見合わせ、下品に喉を鳴らして笑った。
「ガブリエル様が貴族院へ正式な告発状を提出されたのよ。身元不詳の男爵令嬢が、怪しげな香りで近衛騎士団長を惑わし、毒殺を企てているってね。公爵領の利権を狙う貴族の方々も、全員がガブリエル様に賛同していらっしゃるわ」
取り巻きの貴族たちから、冷笑が漏れる。
エレナは一歩詰め寄り、フィオナの耳元に嘲るような囁きを落とした。
「次の新月を迎える頃には、お姉様の両手には親衛隊の手錠が掛かっているわ。そして公爵閣下は、ガブリエル様の特製薬で永遠の眠りにつく。お姉様が調香師気取りでいられるのも、あと数日の命よ」
エレナの全身から立ち上る、底なしの悪意と勝利を確信した腐敗臭。
しかし今のフィオナの胸には、深夜の調香室で自分の髪を優しくなでてくれたジルの情愛が生きていた。
「エレナ」
フィオナの声は、震えることなく静かで凛としていた。
「あなたがどれほど嘘を重ねても、本当の毒が何であるかは、もう隠せません」
エレナの眉が不快そうに跳ね上がる。
その時、レオンが一歩前に進み出た。
鍛え上げられた長躯から放たれる近衛騎士の気迫が、路地の空気を張り詰めさせる。
「そこまでにしてもらおうか、アシュレイ家の令嬢」
レオンが腰の長剣の鞘を親指で押し上げると、カチリと鋼の硬い音が鳴った。
「我が公爵家の婚約者に対し、根拠なき讒言を弄することは反逆予備罪に当たる。それ以上口を開けば、騎士団の営倉へ叩き込むが?」
副団長の凄絶な眼光に気圧され、取り巻きの貴族たちが顔色を変えて後ずさる。
エレナは苦々しげに舌打ちし、扇子を強く握りしめた。
「……行きましょう、皆様。どうせ新月にはすべて終わるのですから!」
エレナたちは逃げるように馬車へと乗り込み、走り去っていった。
木枯らしが吹き抜ける中、レオンは苦々しく息を吐く。
「急ぎましょう、フィオナ様。屋敷の周囲にもガブリエルの密偵が張り付いているはずです」
公爵邸に帰還したフィオナたちを迎えたのは、屋敷全体を包む異様な冷気だった。
執務室の扉を開けた瞬間、室内に吹き荒れる晩冬の嵐のような冷気に息が詰まる。
暖炉には赤々と薪が燃えているにもかかわらず、黒檀の机や床板には薄い霜が降りていた。
「……閣下!」
机の前の肘掛け椅子で、ジルが胸元を強く押さえて浅い呼吸を繰り返している。
軍服の襟元から覗く首筋には、青白い氷晶が太い血管のように脈打ち、顎の線まで這い上がっていた。
胸元に吊るされた『白氷の懐中時計』の針は、深紅の危険域の境界を小刻みに叩き、チチチと氷を砕くような軋み音を立てている。
「戻ったか……」
ジルの唇は青ざめ、吐き出す息は白く凍りついていた。
「すまない……新月が近づくにつれ、呪詛の魔力圧が強まっている……身体の芯が、凍りついていくようだ」
新月の夜まで、残された刻限はあと五日。
新月の闇は地上の生命魔力を減退させ、古代の凍気呪詛の侵食速度を跳ね上げる。
ジルの胸元でチチチと不吉に鳴る時計の針が、最後の赤い線に触れる前に調合を終えなければならない。
このまま五日後の新月を迎えれば、ジルの心臓は凍結の極みに至り、氷像となって砕け散ることは明白だった。
「市場での入手が不可能なら、迷っている時間はありません」
フィオナは外套を脱ぎ、ジルの椅子の傍らに膝をついた。
油紙に包まれた先代夫人の地図を机の上に広げる。
「冷気の波長を穏やかに調律する最後の副素材――『冬至の雪割草』を、自ら採取して参ります。王都北方、霊峰・氷哭山の山頂断崖に自生している原種ならば、この苛烈な冷気をも中和できるはずです」
「ならん!」
ジルが激痛を押して声を荒らげた。
「氷哭山は年中猛吹雪が吹き荒れる極限の霊峰だ。古代魔獣の巣窟でもあり、熟練の騎士ですら遭難して凍死する。一介の調香師のお前が行って、生きて戻れる場所ではない」
「ですが、行かなければ五日後にあなたが死んでしまいます!」
フィオナはジルの冷え切った両手を、自らの手で強く握りしめた。
その萌黄色の瞳には、一片の迷いも恐れもない。
「私一人で行くのではありません。ジル様、私を護衛してください。猛吹雪と魔獣を切り裂くには、あなたの剣と魔力が必要です。そして霊峰の冷気からあなたの凍結を防ぎ、正しい薬草を選別するには、私の調香と嗅覚が必要です。二人で行くことこそが、生還するための唯一の選択です」
ジルは大きく目を見張った。
死に怯え、他者の悪意に縮こまっていたはずの娘が、今、合理的な勝算を掲げて猛吹雪の霊峰へ飛び込もうとしている。
すべては、自分の命を救うためだけに。
ジルの蒼氷色の瞳に、迷いが消え、鋼のような決意が宿った。
「……わかった。俺の背中は、お前のものだ。たとえこの身が凍りつこうとも、必ずお前を守り抜く」
二人はためらうことなく立ち上がった。
レオンに公爵邸の防衛とガブリエルの動向監視を命じ、厚手の毛皮マントと駿馬を整える。
夜の闇を切り裂くように馬蹄の音が石畳に響き渡り、凍てつく風が二人の頬を激しく打った。
新月までに残された刻限を背に、二人は白銀の死地たる霊峰・氷哭山へと、夜闇を貫いて駆け出した。




