第10話「張り巡らされた罠と偽りの告発」
新月の二日前の夕刻、茜色から群青へと沈みゆく空の下、二頭の駿馬がクローデル公爵邸の正門前へと駆け込んだ。
霊峰・氷哭山からの過酷な強行軍により、馬の鼻先からは激しい白煙が吹き上がり、二人を包む毛皮のマントは雪と泥で汚れ、満身創痍だった。
凍傷で痛む手足を抱えながらも、フィオナの胸の奥は希望の熱で満たされている。
胸元に抱えた調香鞄の奥底には、過酷な断崖から採取した『冬至の雪割草』と、黄金の『陽光草の精油』が確かに息づいていた。
(これで……解呪の香が調合できる)
(閣下を、あの呪いの牢獄から救い出すことができる)
一刻も早く調香室へ戻り、ジルの心臓の核を打ち破る『融解の香心』を完成させなければならない。
公爵邸の窓から漏れる温かな灯火が見えた瞬間、フィオナは強張っていた息を小さく吐き出した。
しかし、フィオナが馬の手綱を引いて鞍から飛び降りたその刹那だった。
ジャラリ、と無数の金属が擦れ合う冷え切った音が、黄昏の静寂を暴力的に引き裂く。
冷たい夕暮れの風に乗ってフィオナの鼻腔を突いたのは、吐き気を催すほどに濃厚で人工的な麝香の臭気だった。
「そこまでだ、罪人フィオナ・アシュレイ!」
公爵邸の前庭を埋め尽くしていたのは、白銀の甲冑に身を包んだ王宮親衛隊の兵士たち、そして薬師ギルドの執行官たちだった。
抜刀された無数の剣先が、夕暮れの残光を浴びて青白く反射している。
だが、その隊列の端に並ぶ数名の若い親衛隊兵士は、前線で国を守り抜いてきた英雄ジルを前にして、気まずそうに視線を泳がせ、剣を握る指先をかすかに強張らせていた。
正門を封鎖するように兵の列が左右に割れ、華麗な毛皮をまとった筆頭薬師ガブリエル伯爵が、勝ち誇った冷酷な笑みを浮かべて歩み出てくる。
その金縁眼鏡の奥の瞳には、獲物を追い詰めた猛毒の蛇のような光が爛々と宿っていた。
「ガブリエル……貴様、何の真似だ!」
馬を降りたジルが、冷気を含んだ怒声を張り上げた。
長旅の疲労を押してフィオナを背後に庇うが、ガブリエルは慇懃に眉を持ち上げ、手にした一枚の分厚い羊皮紙を高らかに広げてみせる。
王宮貴族院の深紅の公印が押された、正式な令状だった。
「近衛騎士団長ジル・クローデル閣下。お迎えに上がりました」
ガブリエルは芝居がかった優雅な所作で一礼し、それから冷たい嘲笑をフィオナへと突き刺した。
「貴族院および神聖薬師ギルドの合同審査により、その女――フィオナ・アシュレイに対する『国家反逆および要人毒殺未遂』の逮捕状が執行された。直ちに身柄を引き渡していただこう」
◆ ◆ ◆
「毒殺未遂だと……? 何を根拠にそのような妄言を吐く!」
ジルの怒号が前庭の大気を激しく震わせた。
しかし、ガブリエルは冷笑を崩さず、黒い革手袋の手で小さな硝子瓶を掲げてみせる。
フィオナが数日前まで調香室で厳重に保管していた、未完成の試作香液の瓶だった。
「これを見たまえ、閣下。我がギルドの執行官が公爵邸の調香室を捜索した際、この女の調合机から押収した決定的な証拠品だ。この中から、体内の冷気を急速に結晶化させ、心臓の鼓動を停止させる禁忌呪詛薬『黒氷の灰』が大量に検出されたのだよ」
ガブリエルの背後から、華麗な毛皮をまとったエレナが優越感に満ちた笑みを浮かべて現れた。
「お姉様が留守の間に、わたくしがギルドの皆様を調香室へご案内いたしましたの。実の姉が閣下を暗殺しようとしていたなんて……妹として、本当に胸が張り裂けそうですわ」
エレナが邸内へ忍び込み、毒物を混入して捏造した証拠だった。
姉を社会的に抹殺し、手柄と名誉を独占するための醜悪な罠。
エレナとガブリエルの全身から、鼻をもぎ取られそうなほどの猛烈な悪臭が立ち上っていた。
「卑劣な……! それは私が作ったものではありません! 薬草をもてあそんで人を陥れるなど、調香師の風上にも置けない所業です!」
フィオナが叫んだが、ガブリエルは冷酷に手を振って声を遮る。
「言い訳は地下牢の尋問室で聞こう。衛兵、その魔女を取り押さえよ!」
親衛隊の兵士たちが抜刀し、威嚇の声を上げてフィオナへと迫った。
しかしその切っ先は、かつての戦場で数千の兵を救った英雄ジルを前に、わずかに震えている。
その瞬間、ジルの全身から爆発的な衝撃波のような冷気が噴き上がった。
シャラン、と澄んだ美しい金属音を響かせ、ジルの長剣が鞘から抜き放たれる。
前庭の石畳が一瞬にして白い霜で覆われ、冷たい刃の光が夕闇を切り裂いた。
「誰一人として、フィオナに指一本触れさせん!」
ジルの眼光は蒼い焔となって燃え盛り、王国最強の騎士団長としての凄絶な覇気が前庭の空気を圧する。
兵士たちが恐怖に顔を引きつらせ、本能的な畏怖から次々と足を止めた。
最前列の兵が思わず半歩後退する。
しかし、ガブリエルは口端を吊り上げ、冷然と右手を高く掲げた。
その合図と共に、公爵邸の屋根や塀の上から、無数の矢を番えた親衛隊の弓隊が姿を現す。
鋭い鉄の鏃が、一斉にジルとフィオナへと照準を合わせた。
「閣下、正気を取り戻されよ。その魔女の幻覚香によって操られているのだ! これ以上の抵抗は、クローデル公爵家そのものを反逆と見なし、この場で射殺せざるを得ませんぞ!」
ジルの激しい怒りに呼応するように、その胸元で異変が起きた。
鎖で繋がれた『白氷の懐中時計』が、激しい青光を放ち、悲鳴のような鋭い軋み音を立てる。
内部の針が深紅の危険域の最深部へと振り切れ、ジルの首筋から顎、そして頬の皮膚にかけて、青白い氷晶が生き物のように這い上がっていった。
「う……ぐっ……!」
ジルが激痛に呻き、剣を握る右手の指先が白く凍りついて硬直する。
感情の激昂は、心臓の呪詛の氷結圧を極限まで跳ね上げてしまう。
これ以上ジルに剣を振るわせれば、戦いの決着がつく前に、彼の心臓が凍てついて命を落としてしまう。
ガブリエルの狙いは、ジルを激昂させて内戦の汚名を着せ、呪詛によって自滅に追い込むことだった。
(死なせてはならない……!)
(この人を、こんな卑劣な策謀で死なせるわけにはいかない……!)
フィオナはためらうことなくジルの前へと飛び出した。
剣を構えるジルの逞しい腕を、両手でありったけの力を込めて抱き止める。
「引いてください、ジル様! 剣を納めてください!」
ジルが激痛に蒼白な顔を歪め、苦悶の声を漏らした。
「離れろ、フィオナ……! 貴様を奴らの手に渡せば……殺されるぞ……!」
「私は殺されません! 堂々と無実を証明してみせます!」
フィオナはジルの胸元へとすがりつき、彼の凍りつきかけた頬に自らの額を押し当てた。
かつては他者の悪意に怯え、路地裏で震えて逃げ隠れすることしかできなかった自分が、今は愛する人を守るために立っている。
公爵閣下としての誇りも、命も、決して奪わせはしない。
フィオナは周囲に聞こえないほどの澄んだ囁き声で、ジルの耳元へと切実に告げた。
「必要な素材は、すべてここにあります。信じてお待ちください。私は決して諦めません。……必ず、あなたの元へ戻ります」
ジルの蒼氷色の瞳が、驚愕と痛惜、そして言葉にならない感情に大きく見開かれた。
フィオナはそっとジルの腕から手を離し、毅然とした足取りで兵士たちの前へと進み出る。
「手を出さないでください。私が同行いたします」
フィオナは両手を前へと差し出した。
兵士の一人がためらいがちに視線を交わしながら、冷え切った鉄の手錠をフィオナの華奢な手首にはめ、ガチリと重い金属音を響かせる。
背後から駆け寄った執行官の粗野な革手袋が、フィオナの調香鞄を乱暴に奪い取った。
石畳にこぼれ落ちた予備の薬瓶が幾つか砕け散り、鋭い割れ音が前庭に虚しく響く。
そこへエレナが嘲笑を浮かべて駆け寄り、フィオナの首元にかけられていた母の形見――銀の香炉ペンダントへと細い指を伸ばした。
ブツリと布地が裂ける音とともに、繊細な銀の鎖が無残に引きちぎられる。
「この怪しげな道具も、閣下を呪った毒の証拠として没収ですわ! みすぼらしい小娘が、公爵家の女主人気取りなど百年早くてよ!」
エレナの全身からは、腐臭を放つ澱んだ泥水と酸化した鉄が混ざり合ったような、耐え難い悪意の臭気が立ち上っていた。
首筋に走る擦り傷の痛みに耐えながら、フィオナはその濁った匂いを放つ妹を、凛とした眼差しで見据え返す。
香炉の銀鎖を力任せに奪われようとも、母から受け継いだ技術と誇り、そしてこの鼻が記憶した調香の真理までは、何人たりとも奪えはしない。
「フィオナ……!」
膝をついたジルが血を吐くような叫びを上げ、凍りつく右手を必死に伸ばそうとした。
しかし冷酷な親衛隊の槍衾が幾重にも立ちはだかってジルの行く手を塞ぎ、フィオナの細い身体は執行官たちの手によって、護送用の重い鉄馬車へと押し込められた。
ギイ、と軋む重い鉄扉が甲高い音を立てて閉ざされ、重厚な錠前が幾重にも落とされる。
暗闇の車内に差し込む格子窓の細い光の隙間から、フィオナは倒れ伏すジルへ向けて、静かに頷いてみせた。
絶望の深淵に突き落とされながらも、二人の魂を結ぶ確固たる信頼は、いかなる氷よりも砕けはしない。
軋む車輪が冷たい石畳を打ち鳴らし、フィオナを乗せた護送馬車は、死の静寂と陰謀が渦巻く王宮の地下牢へと連行されていった。




