第11話「冷たき地下牢と奪われた希望」
王宮の最深部に穿たれた地下石牢は、太陽の光が届かぬ底知れぬ暗黒と死の冷気に満ちていた。
四方を囲む分厚い玄武岩には魔力遮断の古代ルーンが刻まれており、あらゆる魔力と希望を吸い尽くすかのように重苦しい威圧感を放っている。
天井の割れ目からは冷たい水滴が不規則に滴り落ち、石床に小さな波紋を刻んでいた。
水滴が跳ねるたびに、湿り気を帯びた黒黴と酸化した鉄の錆び臭が鼻腔をかすめる。
フィオナ・アシュレイは、濡れた冷たい床の上に身を横たえていた。
両手首に嵌められた鉄の手錠は骨に食い込むほど重く、皮膚には赤黒い鬱血の痕が刻まれている。
霊峰の過酷な登攀による疲労と、護送馬車の中で受けた荒っぽい扱いにより、全身の関節が軋むような痛みを訴えていた。
吐き出す息は白く濁り、石の冷気が薄い衣服を通して容赦なく体温を奪い去っていく。
それでも、フィオナの萌黄色の瞳には一点の曇りもなかった。
痛む胸元に手を当て、自らの微かな体温を確かめる。
調香鞄は奪われたが、胸の奥底に刻まれた調香の技術と、ジルを救い出すという固い決意は、いかなる牢獄の壁であっても奪うことはできない。
遠くの石造りの螺旋階段から、カツン、カツンと澄ました靴音が響いてきた。
湿気を含んだ淀んだ空気の中に、場違いなほど甘美で濃厚な人工麝香の香りが流れ込んでくる。
その匂いは、フィオナにとって吐き気を催すほどに馴染み深いものだった。
安価な香料を過剰に調合し、己の虚栄心と嫉妬を塗り隠すための毒々しい芳香。
鉄格子の向こう側の暗がりから、華麗な金糸の刺繍が施された深紅のドレスをまとった人影が現れた。
揺れる松明の明かりに照らし出されたのは、優越感に口元を歪めた妹エレナの姿だった。
エレナは純白の毛皮の扇子を広げて鼻元を覆い、汚物を見るかのような冷淡な視線をフィオナへと注ぐ。
「おやおや、見るも無残なお姿ですこと、お姉様」
エレナの甲高い声が、狭い石牢の壁に反響した。
「かつてはアシュレイ工房の落ちこぼれとして隅に追いやられ、今度は国家反逆の毒殺魔として地下牢の肥やし。公爵閣下の寵愛を笠に着て調子に乗っていた報いが、この暗闇ですのね」
エレナは格子の隙間から身を乗り出し、勝利に酔いしれた侮蔑の笑みを浮かべる。
その全身から立ち上る臭気は、腐った香油に生ゴミの饐えた匂いが混じり合った、禍々しい悪意そのものだった。
フィオナはゆっくりと上体を起こし、冷たい壁に背を預けた。
手錠の鎖が擦れ合って鈍い金属音を立てるが、その視線は微動だにせずエレナの瞳を射抜いている。
「私を嘲笑うためだけに、わざわざこんな冷たい地下牢まで足を運んだのですか、エレナ」
エレナは扇子をパチンと閉じ、嘲笑をさらに深めた。
「いいえ、哀れなお姉様に、素晴らしい朗報を届けて差し上げようと思いましてよ。明日の夜――新月の刻、王宮大広間にて、貴族院の緊急招集が開かれますの。議題は、氷結呪詛の末期症状に苦しむジル閣下の『尊厳ある安楽死処置』ですわ」
フィオナの心臓が激しく跳ね上がった。
指先が冷たく強張り、喉の奥が引き攣る。
「安楽死……? そんな名目で、ジル様を殺すつもりなのですか!」
「人聞きの悪いことを仰らないでくださる? 呪詛の暴走によって理性を失いかけた英雄を、苦痛から解放して差し上げる慈悲の処置ですことよ」
エレナは芝居がかった手つきで己の胸に手を当て、勝ち誇った笑みを漏らした。
「ガブリエル伯爵が開発された特効薬――『白氷の安らぎ』を、殿下立ち会いのもとでジル様に飲んでいただきますの。もっとも、その中身は苦痛を麻痺させながら心臓の鼓動を停止させる、遅効性の猛毒薬ですけれどね」
エレナの口から語られる凶行に、フィオナの血が怒りで激しく沸騰した。
ガブリエルとエレナは、ジルを救うためではなく、彼を合法的に抹殺するためにその薬を用意したのだ。
ジルが息絶えれば、クローデル公爵家の名代として傀儡が立てられ、広大な領地と軍権は薬師ギルドと貴族院の強欲な連中によって食い荒らされる。
そしてアシュレイ工房は王室御用認定の筆頭薬師工房として莫大な利権を手に入れる手筈になっていた。
「絶対に許しません……! ジル様は決して死なせません!」
フィオナの鋭い叫びに対し、エレナは可笑しくてたまらないとばかりに肩を揺らして笑った。
しかし、その笑い声の裏側から、フィオナの鋭敏な嗅覚は別の臭気を感じ取っていた。
傲慢な麝香の奥底に混ざり込む、湿った泥のような焦燥と、幼い日の怯えの匂い。
「許さない? 大罪人としてこの牢獄で首を括るだけの小娘が、一体何を言っているのですか。お姉様にはもう、何も残されてはいませんのに。昔からそうでしたわ。お姉様は先代夫人から特別な調香の教えを受け、わたくしはどれほど完璧な配合比を覚えても、誰にも香りを褒めてもらえなかった。『香りは心だ』などという曖昧な言葉が、いつもわたくしの努力を否定しているように聞こえたのです」
エレナの口元が憎悪に歪み、その瞳には長年鬱屈させてきた姉への劣等感が醜悪に燃え盛っていた。
エレナはドレスのポケットから、金属の小物を乱暴に引き抜く。
松明の火を浴びて鈍い銀色の光を放ったのは、フィオナが何よりも大切に慈しんできた母の形見――白銀の香炉ペンダントだった。
表面には母が自ら彫り込んだ繊細な薬草の文様が刻まれており、かつてアシュレイ工房が誠実な調香を行っていた頃の誇りが宿っている。
「返してください……! それは母上の……!」
フィオナが格子へと手を伸ばそうとした、その瞬間だった。
エレナは嘲笑を浮かべたまま、手にした銀の香炉を石牢の冷たい床へと叩きつけた。
激しい金属音が静寂を切り裂く。
それだけでは飽き足らず、エレナは格子の隙間から革靴の爪先を差し入れ、床に落ちた香炉を尖った踵で力任せに踏みにじった。
メリメリと、球体の外殻が歪む鈍い破壊音が響く。
「こんな煤けたガラクタ、先代夫人の亡霊が憑りついているようで反吐が出ますわ! 偽善者ぶったあの人もお姉様も、初めからこの世に存在しなければよかったのです!」
エレナは靴底を押し付け、執拗に香炉を踏みにじった。
美しかった銀の肌に無残な傷が刻まれ、灰受けの小さな金具が外れて転がる。
冷たい床の上に散らばった銀の破片を見つめながら、フィオナの胸を鋭い痛打が貫いた。
かつてのフィオナであれば、妹の理不尽な暴虐に怯え、声を殺して涙を流すことしかできなかっただろう。
しかし、今のフィオナの魂には、決して凍てつくことのない灯火が宿っていた。
霊峰の断崖で命を賭して自らを引き上げてくれたジルの熱い手、洞窟の中で重ね合わせた温かな吐息、そして何よりも互いを信じ抜く誓い。
そのすべてが、フィオナの背筋を凛と伸ばしていた。
フィオナは静かに息を吸い込み、冷徹な光を湛えた瞳でエレナを真っ直ぐに見据える。
怯えも、絶望も、その眼差しには微塵も浮かんでいなかった。
「どれほど形あるものを踏みにじろうとも、母が遺した調香の真理までは壊せません」
低く、しかし凛然と響き渡るフィオナの声に、エレナの足がピクリと止まった。
「何を……戯言を……!」
「そしてエレナ、どんなに高価な香油を塗りたくろうとも、あなたの全身から立ち上る悪臭は決して消えません」
フィオナは一歩、鉄格子へと歩み寄った。
鎖の鳴る音さえも、自らを縛る枷ではなく、前へ進むための意志の響きに聞こえる。
「利欲のために他者を陥れ、平然と人の命を奪おうとするあなたの魂は、この地下牢の泥水よりも遥かに醜く腐り果てています。欺瞞の上に築かれた栄光など、やがて自らの毒によって音を立てて崩れ去るでしょう」
静かな宣告に、エレナの整えられた美貌が屈辱と恐怖に引き攣った。
かつて見下し、虐げていた姉が、自分よりも遥かに高く気高い場所に立っている。
その事実を本能的に悟ったエレナの皮膚には、冷たい悪寒が走っていた。
「だ、黙りなさい! 負け犬の分際で! 明日の新月の夜会で、公爵閣下もろとも灰燼に帰すがいいですわ!」
エレナは甲高い金切り声を上げ、逃げるように裾を翻して螺旋階段を駆け上がっていった。
遠ざかる足音とともに、胸の悪くなるような麝香の残り香が薄れていく。
地下牢に、再び冷酷な静寂が戻った。
フィオナは膝を石床につき、手錠で擦り傷だらけになった両手を伸ばす。
歪み、傷ついた母の香炉を、まるで傷ついた小鳥を包み込むようにそっと両手で拾い上げた。
手のひらで温めながら、震える指先で球体の留め具を慎重に外す。
外殻の銀はエレナの踵によって無残に凹んでいたが、内部の機構は無事だった。
母はかつて、香炉を持ち歩く調香師が不慮の落下や衝撃に見舞われても核を守れるよう、外殻と内室の間に微細なバネ状の銀細工を施した二重緩衝構造を採用していたのだ。
外殻が歪んで衝撃を逃したおかげで、内部の極微細魔導芯と極小の隠し調合室は、ひび割れ一つなく完璧に保たれていた。
(壊れていない……!)
(母上が、護ってくださった……!)
フィオナは香炉を自らの胸元へと抱きしめ、温かな涙をこぼす。
道具は残された。
そして、この記憶の中には霊峰で採取した薬草の調合比率も、ジルの冷気を解かす香りの設計図も完璧に刻まれている。
(待っていてください、ジル様。明日の新月、決してあなたを死なせはしません)
暗黒の地下牢の底で、フィオナの萌黄色の瞳は、明日訪れる運命の戦いに向けて力強い希望の光を宿していた。




