第5話「仮面の夜会と甘美なる毒」
初冬の澄み切った夜空の下、王宮の大階段には無数の馬車が列をなしていた。
黒塗りの公爵家の大型馬車が車止めに滑り込むと、扉を開けた従僕が恭しく頭を垂れる。
先に降り立ったジルが、静かに右手を差し出した。
漆黒の布地に銀糸の刺繍が施された近衛騎士団長の正礼装。
その胸元には数々の武勲を示す勲章が誇らしげに輝いている。
馬車から足を下ろしたフィオナに、周囲の貴族たちの視線が一斉に突き刺さった。
ジルがこの夜のために仕立てさせたのは、深い夜空色の上質なシルクドレスだった。
裾に向かって星屑のように繊細な銀の砂が散りばめられ、歩くたびに微かな光のさざめきを立てる。
緩く編み込まれた亜麻色の髪には、小粒のサファイアをあしらった髪飾りが留められていた。
ドレスの胸元の奥深くには、亡き母の形見である銀の香炉ペンダントが、密かに肌に触れるように隠されている。
「……緊張しているか」
耳元に落ちてきたジルの低く柔らかな声に、フィオナは小さく息を吸い込んだ。
「少しだけ。ですが、お隣を歩かせていただく恥ずかしさはありません」
ジルは微かに口元を緩め、フィオナの小さな手を引き寄せて自らの左腕へと通させた。
大広間の重厚な扉が開かれた瞬間、光と音の奔流が二人を包み込む。
黄金に輝く何基もの巨大なシャンデリア。
着飾った貴族たちがひしめく広間に、近衛騎士団長とその婚約者の来訪が高らかに告げられると、広間全体のざわめきが一瞬にして静まり返った。
冷酷無情の『氷結卿』として恐れられ、女性を寄せ付けないと噂されていたジル・クローデルが、見目麗しい令嬢を完璧な歩調でエスコートして堂々と歩みを進めている。
広間に立ち込めていたのは、数十種もの華麗な香水が入り混じる重苦しい空気だった。
そしてその裏側に潜む、値踏み、嫉妬、好奇心、そして無遠慮な侮蔑の匂い。
人の悪意に敏感なフィオナの鼻腔がピリリと痺れ、足取りがほんの一瞬だけ強張る。
その変化を察したのか、組んでいたジルの逞しい腕に微かな力がこもった。
フィオナがそっと重ねた指先に、彼の軍服越しに伝わる体温。
冷気など微塵もなく、温室で触れ合ったときと同じ確かな温もりがそこにあった。
フィオナが指先に力を込めて寄り添うと、ジルの硬直していた肩がわずかに下がり、二人は悠然と大広間の中央へと進み出た。
◆ ◆ ◆
大広間の中央、大理石の円柱の影から、人垣を割って二人の人物が進み出てきた。
真紅の華麗なドレスに身を包んだ異母妹エレナと、金縁の眼鏡を鼻梁に乗せた筆頭薬師ガブリエル伯爵である。
エレナは手にした羽根扇子を大仰に広げ、フィオナのドレスを頭から爪先まで舐めるように見据える。
「まあ、お姉様。アシュレイ家の名を汚して工房を追い出された身でありながら、よくもそのような晴れがましい場に顔を出せましたこと」
甲高い声が広間に響き渡り、周囲の貴族たちの視線が一斉に集まる。
エレナは周囲の令嬢たちに聞こえよがしに囁いた。
「皆様、騙されてはなりませんわ。この姉は理論的な薬学の素養など一切持たず、怪しげな香りで人を幻惑するペテン師なのです」
エレナの全身から立ち上る、底意地の悪い優越感と嫉妬の混ざり合った腐敗臭。
かつてなら胃の奥を締め付けられたその臭気に対し、フィオナは眉一つ動かさず、毅然とエレナの瞳を見返した。
ジルが口を開きかけたが、フィオナは添えた指先に微かに力を込め、自らの足で一歩前へ進み出る。
ジルはその気配を察し、腕を引くことなく、黙って彼女の言葉を待った。
「ペテン師とお呼びになる前に、エレナ、ご自身のまとわれている香水をお確かめになったらいかがですか」
フィオナの澄んだ声は、騒がしい広間のざわめきを凛然と切り裂いた。
「華やかな百合の香りを装っていらっしゃいますが、基剤に使用された動物性保留剤の精製が甘く、体温の上昇に伴って生臭い酸敗臭が浮き上がっています。トップノートの揮発速度とラストノートの重さが乖離しています。ギルドの正統な調合を謳うならば、揮発比率の破綻くらいはご自身でお気づきになるべきではありませんか」
エレナの顔から一瞬で血の気が引いた。
周囲の貴族たちが微かに鼻を鳴らし、ひそひそと囁き声を交わし始める。
調香の知識による客観的な指摘に、エレナは扇子を握る指を小刻みに震わせ、言葉を詰まらせた。
隣に立つジルの蒼氷色の双眸に、わずかな誇らしさと信頼の光が宿る。
そこへ、ガブリエル伯爵が慇懃な笑みを浮かべて割って入った。
彼の衣服からは、周囲の空気を押しつぶすような濃厚な麝香の香水が漂っている。
「まあまあ、閣下。若い娘たちの些細な戯言でございます。どうかお怒りをお鎮めください」
ガブリエルは芝居がかった優雅な所作で一礼すると、上着の内ポケットから金細工の施された華麗な水晶瓶を取り出した。
瓶の中には、深紅に澱んだ液体が満たされている。
「閣下の御身を蝕む呪詛を案じ、我が薬師ギルドが総力を結集して調合いたしました、特製の『心臓強壮薬』でございます」
ガブリエルは慇懃無礼な笑みを深め、水晶瓶をジルへと差し出した。
「これを毎日一滴ずつ服用くだされば、胸の冷気などたちどころに消え去りましょう。感覚頼りの見習い調香師など不要となります。さあ、閣下。我がギルドの至誠をお受け取りください」
周囲の貴族たちから、筆頭薬師の秘薬を称賛する感嘆のため息が漏れる。
ガブリエルは自慢げに水晶瓶の金色の栓をわずかに緩めた。
その瞬間、瓶口から立ち上ったのは、極めて甘美で高貴な竜涎香の香りだった。
周囲の貴族たちが陶酔したように息を漏らし、神秘的な芳香を称賛する。
しかし、フィオナの鋭敏な鼻腔を貫いたのは、甘美なヴェールの奥深くに潜む致命的な異臭だった。
甘ったるい香りの裏側、液体の中心から噴き出してきたのは、喉の奥を刺すような湿った臭気。
冷気を急速に結晶化させ、肉体の魔力経路を凝固させる劇毒――『雪腐れ茸』の特異な揮発臭だった。
(これは……強壮薬なんかじゃない……!)
フィオナの全身を、冷水を浴びせられたような悪寒が駆け抜けた。
この薬液に含まれる成分は、ジルの胸にある凍晶核に対して致命的な凝固作用を引き起こす。
服用すれば、一時的な熱感の後に急速な全身凍結を招く劇毒だった。
ジルが無言のまま、革手袋をはめた右手を水晶瓶へと伸ばしかける。
その手を取らせてはならない。
フィオナの心臓が激しく鐘を乱打し、思考よりも先に身体が動いていた。
フィオナはためらうことなくジルの逞しい腕を両手で強く引き止め、水晶瓶の前へと立ちはだかった。
「閣下、その薬を口にしてはなりません!」
フィオナの澄んだ声が、静まり返った大広間に鋭く響き渡る。
シャンデリアの光の下、何十人もの貴族たちがざわめきを呑み、エレナの唇が恐怖に強張った。
ガブリエルは眼鏡の奥の目を険しく細め、氷のように冷徹な声を落とす。
「……これは無礼な。一介の見習い風情が、筆頭薬師である私の処方に異を唱えるというのかね?」
「竜涎香でどれほど覆い隠そうと、揮発の層をごまかすことはできません」
フィオナは一歩前に進み出て、水晶瓶を真っ直ぐに見据えた。
その萌黄色の瞳には、かつての卑屈さや怯えは欠片もない。
「この薬液の芯には、冷気を急速に結晶化させる雪腐れ茸の成分が潜んでいます。これを閣下が召し上がれば、冷気魔力が暴走し、心臓の魔力経路は瞬時に凍結してしまいます」
大広間が騒然となった。
ざわめきが波のように広がり、貴族たちが顔を見合わせる。
ガブリエルの額に青筋が浮かび、慇懃な笑みの仮面が怒りで歪んだ。
「荒唐無稽な言いがかりだ! 雪腐れ茸などという禁忌の劇薬、神聖な宮廷薬師ギルドが扱うはずがなかろう! 己の浅薄な無知を恥じるがいい!」
ガブリエルが激昂して叫び、周囲の貴族たちもフィオナへ冷淡な非難の眼差しを向けようとした。
しかし、そのすべてのざわめきを、ジルの冷徹な一言が一瞬にして踏み潰す。
「下げろ、ガブリエル」
ジルはフィオナの前に立ちはだかり、差し出されていた水晶瓶を、手袋の甲で無造作に払いのけた。
「我が婚約者の言葉だ。俺はお前の薬など一滴たりとも必要としていない」
水晶瓶がガブリエルの胸元へと激しく押し戻され、金細工がカチリと硬い音を立てる。
ガブリエルの顔から血の気が引いた。
眼鏡の奥で、彼の瞳が蛇のように冷たく、どす黒い憤怒に燃え上がる。
ジルは彼を一顧だにせず、フィオナの手を力強く引き寄せて自らの腕へと通し、悠然と背を向けた。
夜会の仮面の下に潜む悪意の視線を切り裂きながら、二人は会場の奥へと歩みを進めた。




