第4話「静謐の香りと不器用な手」
深夜の発作から一週間が過ぎ、温室のガラス屋根には柔らかな晩秋の陽光が降り注いでいた。
フィオナ・アシュレイは手の包帯を解き、指先を確かめるようにゆっくりと動かす。
関節にはまだ淡い赤みが残っていたが、侍女たちが手配してくれた薬草軟膏のおかげで、凍傷による皮膚のひび割れは綺麗に塞がっていた。
手入れの行き届いた温室には、整然と並べられた植木鉢から黒土と若葉の瑞々しい芳香が立ち上っている。
フィオナが小さな木べらで薬草の苗を株分けしていると、温室の硝子扉が静かに開いた。
入ってきたのは、上着を脱ぎ、黒いベスト姿のジルだった。
軍務の合間なのか、乱れのない銀髪の下の双眸には、いつもの冷徹さとは異なる微かな迷いが漂っている。
ジルは無言のままフィオナの作業台の前に歩み寄ると、まず彼女の指先へ視線を落とした。
傷跡を見つめるジルの眉根が、ほんのわずかに寄る。
他者に痛みを背負わせたことに対する、不器用な負い目の匂いが彼の身体から微かに立ち上っていた。
「……手は、もう痛まないのか」
低く、ぶっきらぼうな問いかけだった。
フィオナは両手をエプロンの前で重ね、柔らかく微笑む。
「はい。使用人の皆様が素晴らしい軟膏を用意してくださいましたので、すっかり良くなりました」
ジルは視線を逸らすように小さく顎を引くと、背後に隠していた長方形の木箱を、作業台の上へとことりと置いた。
無骨な黒漆塗りの箱だったが、蝶番には細やかな銀細工が施されている。
「受け取れ」
「これは……?」
「お前が男爵家から持ち込んだ調合道具が、ひどく古びていたのを見た。専属調香師の器具が粗末では、公爵家の名折れだ。他意はない」
淡々とした口調で言い捨てられた言葉。
フィオナがおずおずと蓋を開けると、中には目を見張るほど精緻な道具が収められていた。
純白の磁器で作られた調合乳鉢と乳棒、そして極微細な魔導火線が組み込まれた手のひら大の硝子蒸留器。
王都の高級商館でも滅多にお目にかかれない、名工の手による特注品だった。
フィオナが乳棒を取り上げて手のひらに収めた瞬間、皮膚に走った感触に目を見張る。
磁器の握り部分には、親指の腹が当たる位置に滑らかな窪みが削り込まれていた。
フィオナの右手親指にある、長年の薬草擦り潰しで硬くなった小さな調合傷に、少しも擦れることなく吸い付くように馴染む。
職人に何度も注文をつけ、彼女の手の大きさと傷の位置に合わせて特別に仕立て直させた証拠だった。
新しい白磁の冷ややかな感触と、箱を仕立てたばかりの蜜蝋の甘い匂い。
そしてその奥に、不器用で真っ直ぐな気遣いの香りがはっきりと混ざり合っていた。
「ありがとうございます、閣下。大切に使わせていただきます」
フィオナが顔を上げて微笑むと、ジルは居心地悪そうに喉を鳴らし、わずかに視線を宙へと泳がせた。
フィオナはエプロンのポケットに手を入れ、小さな遮光硝子の小瓶を取り出す。
淡い青色の液体が揺れるその瓶を作業台に置き、ジルの前へと差し出した。
「閣下、こちらをお納めください。昨日完成させた『静謐の携帯香液』です」
ジルが小瓶を手に取り、無骨な指先で転がす。
「これは……?」
「感情の昂ぶりを和らげつつ、心臓の血流を冷えから守るように調合いたしました。激しい発作の前触れを感じられた際、襟元やハンカチに一滴落として吸入してください」
ジルは栓を抜き、微かに香気を吸い込んだ。
針葉樹の森を抜ける風のような、研ぎ澄まされながらも深い安らぎを誘う香気が温室を満たす。
ジルの蒼氷色の瞳が、ゆっくりとフィオナへと向けられた。
「……なぜ、ここまで尽くす」
低く、絞り出すような問いだった。
「俺は呪われた身だ。三年前、北方の戦線で先代国王の盾となり、古代魔獣の爪を受けた。それ以来、感情が昂るたびに冷気が暴走し、周囲の人間を凍死させかけた」
ジルは自嘲するように唇を歪める。
「かつて俺の傍にいた部下も、親族も、皆が怯えて去っていった。俺は人を害する氷の怪物だ。お前のように、凍傷を負いながら自ら触れようとする者など、これまで一人もいなかった」
その言葉の底にあったのは、突き刺さるような孤独の匂いだった。
誰にも頼れず、一人で氷の棺に閉じこもることを選んだ男の痛切な過去。
フィオナは静かに首を横に振った。
「私には、他者の欺瞞や悪意が、腐敗の匂いとして知覚されてしまいます。子どもの頃から、その悪臭に怯えて生きてきました」
フィオナは澄んだ萌黄色の瞳で、ジルの顔を真っ直ぐに見つめる。
「ですが閣下の周りには、冬の朝の研ぎ澄まされた雪の匂いしかありません。醜い嘘も、他者を貶めようとする悪意も微塵もなかった。ですから……少しも怖くありませんでした」
不意を突かれたジルの表情が、生まれて初めて目にするような動揺に揺らぐ。
動揺を隠せないジルの耳朶が、急速に朱を帯びて赤く染まっていった。
ジルは咳払いを一つ落とし、視線を横へ逸らす。
「……お前は、おかしな娘だ」
その声はいつになく微かにかすれていた。
◆ ◆ ◆
温室の平穏を破るように、硝子扉が勢いよく開け放たれた。
「団長! ここにいらっしゃいましたか!」
副団長レオン・ヴァルガスが、銀の盆に載せた一枚の封書を手に足早に駆け込んでくる。
その表情には、いつもの軽妙さはなく、軍人特有の険しい警戒がにじんでいた。
「王宮からの急使です。国王代理および貴族院より、公式の招待状が届きました」
レオンが差し出した羊皮紙には、華麗な金箔と、王室直轄の深紅の封蝋が施されていた。
ジルが眉根を寄せて受け取り、封を割る。
中身を一瞥したジルの蒼氷色の瞳に、射抜くような冷徹な光が宿った。
「……近衛騎士団長とその婚約者を祝う、王宮大夜会か」
ジルの呟きに、フィオナの心臓が跳ね上がる。
「私と閣下の……婚約のお披露目ですか?」
「そうだ。だが、表向きの祝賀などではない」
ジルは手紙を無造作に折り畳み、低く告げた。
「発起人の筆頭に、宮廷薬師ガブリエル伯爵の名がある。奴らは俺が男爵家の見習い調香師を婚約者に据えたことを聞きつけ、公の場でお前をペテン師として断罪し、俺を排除する足がかりにする気だ」
ガブリエル伯爵、そして異母妹のエレナ。
あの審査室で嗅いだ、熟れすぎた果実が底から腐り落ちるような悪意の匂いが鮮烈に蘇る。
貴族社会の頂点にある王宮の夜会は、フィオナのような身分の低い調香師にとっては猛獣の巣窟同然だった。
しかし、作業台の上に置かれたジルからの純白の調合乳鉢が、フィオナの視界にしっかりと映っていた。
「フィオナ」
ジルが向き直り、フィオナの瞳を真っ直ぐに見据える。
「嫌なら断ってもいい。俺一人で貴族院の雑言を叩き潰してくる」
フィオナは静かに首を横に振った。
「いいえ、参ります。私は閣下の専属調香師であり、契約を結んだ婚約者です。決して逃げ隠れいたしません」
ジルの口元が、わずかに緩んだ。
「よく言った。お前には最高の一着を用意させる。俺の隣を歩く以上、誰一人としてお前を侮ることは許さん」
レオンが敬礼して温室を出ていくと、ジルは改めてフィオナに向き直った。
「ならば、王宮での立ち居振る舞いを叩き込んでおく必要があるな」
「礼儀作法の、練習ですか?」
「貴族院の連中は、歩き方一つ、視線の配り方一つで相手の隙を測る。男爵家の見習い調香師としてではなく、クローデル公爵の婚約者として堂々と壇上へ立つための歩調だ」
ジルはそう告げると、シャツの袖を直し、自らの左腕を差し出す。
「手を掛けろ」
フィオナはおずおずと右手を伸ばし、彼の腕に指先を添えた。
上質な布地の奥から、引き締まった筋肉の硬い感触が伝わってくる。
「視線を落とすな。前を見据えろ。俺の隣を歩く者が、誰に対しても卑屈になる必要はない」
ジルがゆっくりと温室の小道を踏み出した。
長い脚が生み出す歩幅に、フィオナは必死に歩調を合わせようとする。
二歩、三歩と進んだところで、ジルが足を止めた。
無言のまま、空いていた右手を伸ばし、フィオナの添えられた指先へとそっと触れる。
戦場で剣を握り続けてきた硬い手のひらが、フィオナの親指の付け根を包み込み、位置をわずかに直した。
「指先に無駄な力を入れるな。寄りかかるのではなく、互いの重心を合わせるように添えればいい」
淡々と指導する声の低さに、フィオナの胸が小さく跳ねる。
触れ合う皮膚から伝わってくるのは、以前のような凍りつくような冷気ではなく、穏やかに熱を保った体温だった。
「……冷たくはないか」
ジルが視線を落とさないまま、低く尋ねる。
「いいえ。とても温かいです」
フィオナが答えると、ジルの喉仏が小さく上下した。
二人は再び温室の小道を歩き始める。
静謐な木漏れ日の中、一歩ずつ重なる靴音とともに、迫り来る王宮夜会という嵐へ立ち向かう覚悟が、静かに固まっていった。




