第3話「白氷の館と温もりの調合」
クローデル公爵邸の東翼に与えられた調香室は、男爵家の屋根裏とは比べものにならないほど広大だった。
しかし、高い格子窓から差し込む陽光の下、室内に満ちていたのは冷え切った静寂だけだった。
壁際の棚の大部分は空虚のままで、昨日手配を依頼したはずの乾燥生薬や蒸留フラスコは一つも届いていない。
「閣下の婚約者などと、どこの馬の骨とも知れぬ娘が……」
「宮廷薬師ギルドの間諜に違いありませんわ。迂闊に信用してはなりません」
廊下を行き交う使用人たちの小声の囁きが、隙間風に乗ってフィオナの耳に届く。
だが、その反応は一様ではない。
露骨に敵意を露わにして陰口を叩く者もいれば、侍女頭リンダのように、主君の身を案じるあまり冷たい視線で遠巻きに一挙手一投足を監視する者もいる。
作業台の隅には、誰が置いたのか、埃の払われた真新しい乳鉢と薬研が一つだけ静かに並べられていた。
彼らの全身から漂ってくるのは、悪意というよりは、長年呪いに苦しむ主君を守ろうとする頑なな警戒心だった。
手柄を奪われ無能と罵られ続けた日々に比べれば、これくらいの冷遇など大したことはない。
(文句を言っている暇はないわ。今夜にでも閣下の発作が起きるかもしれない)
ジルの胸に深く根を張っていた、あの青白い氷晶。
いつ限界を迎えてもおかしくない危険な状態だった。
フィオナは作業着の袖をまくり上げ、古い木籠を手に取ると、裏庭へと足を運んだ。
手入れの行き届いた主庭園を抜け、裏手の古い薬草園跡へと分け入る。
石垣の隙間や木陰には、放置された野生の植物たちが逞しく葉を茂らせていた。
フィオナは泥に膝をつき、土の湿り気と草の香りを確かめながら、一つひとつ丁寧に葉を摘み取っていく。
抗炎症作用を持つ野生のカモミール、過酷な寒気に耐えて芳香を凝縮させた野茨の根、そして大地の滋養を蓄えた霜降り草。
「おや、泥だらけになって何をしているのですか、フィオナ様」
頭上からの軽やかな声に顔を上げると、回廊の手すりに肘をついた副団長レオン・ヴァルガスが見下ろしていた。
親しみやすい琥珀色の瞳の奥に、鋭く値踏みするような光を潜ませている。
レオンは三年間、主君であり親友でもあるジルが凍結に蝕まれていく姿を間近で見守り、自らの無力さに苛まれ続けてきた男だった。
宮廷の薬師たちが口先だけで巨額の報酬を要求し、結局は悪化させて立ち去った苦い記憶が、彼の背筋を硬く強張らせている。
フィオナは立ち上がり、土のついた指先をエプロンで軽く拭った。
「温香の調合に必要な素材を集めています。公爵邸の土は肥沃で、とても力強い香気を持った草が自生していますね」
「器具や生薬の手配が滞っていると耳に挟みましたが、苦情を言わないのですか? 一言仰れば、私が使用人たちを叱責しますが」
「いいえ、結構です」
フィオナは静かに首を振った。
「使用人の皆様が閣下を大切に思われている証拠です。信用は言葉ではなく、結果でお示しするしかありませんから」
レオンはわずかに目を見張り、それから小さく息を吐いて頭を掻いた。
「……なるほど。団長が見込んだだけのことはある」
レオンの全身から、針のように尖っていた警戒の匂いが和らぎ、淡い敬意の香りが立ち上る。
◆ ◆ ◆
夜が深まり、広大な公爵邸が深い静寂に沈んだ頃である。
調香室の机の上で、フィオナは乳鉢を回し、昼間に採取した野草の粉末を丁寧にすり潰していた。
微かな青草の匂いの中に、野茨の芯の通った芳香が立ち上っている。
その時、大気の温度が唐突に底へ向かって落ちていった。
秋の冷え込みなどではない。
石壁の隙間から吹き込むように、猛烈な冷気が廊下を満たしていく。
机の上に置かれた水差しの水面がみるみるうちに白く凍りつき、ピキリと音を立てて硝子に亀裂が入った。
(閣下の部屋からだわ……!)
フィオナは調合皿と銀の香炉をひっつかみ、調香室を飛び出した。
冷気の源を辿って東翼の主寝室へと駆けつけると、重厚な扉の隙間から白い霧のような冷気が吹き出している。
真鍮の取っ手はすでに凍りついており、触れた手のひらの皮膚が張り付いて引き裂かれそうな激痛が走った。
フィオナは肩をぶつけるようにして扉を押し開ける。
室内の異様な光景に、胸の奥が凍りつく。
高い窓の硝子は分厚い氷の膜で覆われ、華麗な絨毯は霜を踏み固めた雪原のように白く染まっていた。
天蓋付きの大きな寝台の上で、薄手の白いシャツをまとったジルが身をよじらせている。
胸元を掻きむしる彼の指先は青白く凍りつき、爪が皮膚に食い込んでいた。
「う、ぐ……っ、あ……」
ジルの呼気は真っ白で、吐き出すたびに寝具の上に氷の細粒が散る。
胸の中央、心臓の上に鎮座する『白氷の懐中時計』が、不気味な青光を激しく明滅させていた。
文字盤の針はかつてないほど深紅の危険域へと食い込み、氷を砕くような軋み音を立てて小刻みに震えている。
皮膚の下で青白い氷晶が血管をなぞり、首筋から顎へと刻一刻と広がろうとしていた。
「閣下……!」
フィオナが駆け寄ると、ジルは焦点の定まらない蒼氷色の瞳を微かに向けた。
激痛に歪んだその顔には、死の淵に立たされた者の絶望と、他者を巻き込むまいとする激しい拒絶が混ざり合っている。
「来るな……っ、離れろ……! 今夜の冷気は……俺自身にも抑えられん……!」
ジルの身の回り一帯は、触れるものすべてを瞬時に凍結させる極寒の死線と化していた。
フィオナは一歩も退かない。
凍りついた絨毯を踏み抜くたび、足裏から骨を軋ませるような冷気が這い上がってくる。
寝台の脇に膝をつき、銀の香炉の蓋を開け放った。
昼間に調合したカモミールと野茨の粉末を香炉の皿へ広げ、微弱な魔力を通す。
しかし、吹き荒れる呪詛の冷気が火種を一瞬で包み込み、粉末は白く凍りついて煙を上げることなく沈黙した。
通常の魔力着火では、この苛烈な古代呪詛の前には全く通用しない。
(熱が届かない……! もっと強い触媒が必要よ)
フィオナは髪留めの銀針を引き抜くと、ためらうことなく自らの左手の親指を深く突いた。
滴り落ちた鮮血の一滴が、凍りついた粉末の中心へと吸い込まれていく。
術者自身の生きた血を触媒として、香炉の奥底に仕込まれた魔導機構へありったけの生命魔力を注ぎ込んだ。
その瞬間、香炉の隙間から黄金色の煙が立ち上る。
冬の雪を割って芽吹く春の陽光と、湿った黒土が放つ力強い生命の匂い。
凍てつく大気を押し戻し、柔らかな薫風となってジルの顔を包み込んでいく。
「ぐっ……あ……!」
激痛に喘ぐジルが、反射的にフィオナの細い手首を掴み取った。
氷そのものの冷気と筋力が華奢な皮膚を圧迫し、凍傷で裂けるような激痛が走る。
視界が白く明滅したが、フィオナは決して手を引かなかった。
掴まれた自らの手を引き寄せるようにして、ジルの冷え切った両手を、己の小さな両手で包み込む。
己の体温のすべてを分け与えるように、指先を重ね合わせた。
「大丈夫です、閣下。息を吸ってください。春の陽だまりを思い出してください……!」
フィオナは祈るように語りかけ、香炉の温もりをジルの胸元へと押し当てた。
生命を削った薫香が、ジルの凍りついた喉を通り、肺腑の奥深くへと吸い込まれていく。
胸元の『白氷の懐中時計』から漏れていた不気味な青光が、徐々に輝きを失っていった。
危険域を指していた針が、ギリギリと軋み音を立てて数目盛りの安全圏へと押し戻される。
首筋まで這い上がっていた青白い氷晶の筋が、ピキピキと音を立てて砕け、水滴となって彼の肌を伝い落ちた。
ジルの身体から強張りが抜け、呼吸が深く穏やかなものへと変わっていく。
握りしめられていたフィオナの手首から、ゆっくりと力が抜けた。
蒼氷色の瞳が薄く開かれ、自分を必死に介抱し続けるフィオナの姿を映し出す。
「……お前、は……」
それだけをかすれた声で呟くと、ジルは深い眠りへと落ちていった。
翌朝、東翼の寝室から出てきたフィオナの両手には、凍傷を保護する白い包帯が痛々しく巻かれていた。
廊下に控えていた使用人たちは、穏やかな寝息を立てるジルの姿と、傷だらけのフィオナの手を見比べ、信じられない面持ちで硬直した。
先頭に立っていた侍女頭リンダの鋭い眼差しが揺らぎ、その瞳に狼狽と悔恨が走る。
宮廷のどんな権威ある薬師も成し遂げられなかった主君の救命。
身を挺して冷気を受け止めた小柄な調香師に、リンダをはじめとする使用人たちは、誰からともなく深く頭を垂れた。
館を満たしていた頑なな拒絶の空気は、静かな敬意へと塗り替えられていた。




