第2話「契約の香気」
翌朝、灰色の雲が垂れ込める空の下、アシュレイ男爵家の屋根裏部屋に冷たい隙間風が吹き込んでいた。
フィオナ・アシュレイは軋む粗末な木製ベッドの端に腰掛け、擦り切れた膝掛けを抱きしめる。
右手首には、昨日あの銀髪の偉丈夫に掴まれた痕が、淡い赤みとなって微かに残っていた。
目を閉じれば、冬の朝の薄氷のように澄み渡った冷気の匂いと、その底にあった深い孤独の香りが鮮明に蘇る。
男の胸元で激しく脈打っていた青白い氷晶。
あの人は無事に近衛騎士団の陣営へ戻れたのだろうか。
物思いを打ち砕くように、部屋の扉が乱暴に蹴破られた。
入ってきたのは、派手な紫色の室内着を身にまとった継母のマグダだった。
白粉の厚化粧の隙間から、強烈なヒヤシンスの香水と、底意地の悪い嘲笑の匂いが混ざり合って鼻腔を刺す。
「いつまで腑抜けた面をして転がっているの、穀潰し!」
マグダは手にした骨太の扇子で、フィオナの肩を乱暴に小突いた。
「ギルドから追い出されたそうね。エレナの手柄を横取りしようとして赤っ恥をかいたとか。どこまでこの男爵家を泥塗れにすれば気が済むのかしら!」
「私は……横取りなどしていません。あの精油は、母の手帖をもとに私が仕上げた処方です」
フィオナが静かに反論すると、マグダは苦々しげに大きく舌打ちする。
「口答えはおよし! ギルドを追い出された役立たずを、いつまでもこの家で養う義理はありませんよ。ちょうどいい話が舞い込んできたわ。王都南部の下級貴族、ゴドウィン卿の後妻に入りなさい」
フィオナの背筋が冷たく凍りついた。
ゴドウィン卿といえば、酒乱と日常的な家庭内暴力で前の妻を病死に追いやったという悪名が、社交界の隅にまで知れ渡っている男だった。
「ゴドウィン卿……? あのように乱暴で悪名高い方のもとへ……?」
「婚礼の支度金として、あちらが金貨三十枚を出してくれると言っているのよ! 男爵家の負債の利子も、使用人たちの滞納給金も、エレナの夜会用ドレス代も、それで綺麗さっぱり片がつくわ。あんたのような欠陥品を引き取ってくれる奇特な方なんだから、ありがたく思いなさい。明後日の朝には馬車が迎えに来ますからね!」
マグダの全身から、金銭への浅ましい執着と、邪魔者を排除できる快感の腐臭が立ち上っていた。
拒絶の言葉を紡ごうと唇を開きかけたその瞬間、男爵邸の敷石を揺るがす地鳴りのような車輪の轟音が響き渡る。
何頭もの軍馬の荒い嘶きと、規則正しく響く重厚な鉄靴の足音。
「な、何事ですか……!?」
窓の外を見下ろしたマグダの顔から、一瞬で血の気が引いた。
男爵邸の粗末な鉄柵前に停まっていたのは、銀の獅子と氷晶の紋章を掲げた、黒塗りの華麗な大型馬車。
そして、その周囲を隙のない武装を固めた近衛騎士たちが取り囲んでいた。
◆ ◆ ◆
男爵邸の薄暗い玄関ホールは、息が詰まるような異様な緊張感に包まれていた。
慌てて姿を現した男爵夫妻とエレナが、敷石の床に額を擦りつけるように平伏している。
玄関扉を開け放って立ち塞がっていたのは、琥珀色の髪を短く刈り込んだ精悍な青年騎士――近衛騎士団副団長レオン・ヴァルガスだった。
そしてその背後から、大理石の床を踏み鳴らし、一人の偉丈夫が静かに足を踏み入れる。
黒と銀の隙のない軍礼装。
冷徹な氷刃を思わせる銀髪の下から、人を射竦める蒼氷色の双眸が薄暗い広間を一瞥した。
周囲の気温が一瞬で数度下がったかのような錯覚を覚えるほどの威圧感だった。
クローデル公爵家当主にして、王国近衛騎士団長、ジル・クローデル。
王都の誰もが『氷結卿』と呼び恐れる男の来訪に、男爵一家は小刻みに肩を震わせることしかできない。
「フィオナ・アシュレイ嬢はどこだ」
低く硬質に響くジルの声に、階段の影に佇んでいたフィオナの喉が小さく強張った。
男爵が恐る恐る顔を上げ、震える唇を開く。
「あ、あの娘が公爵閣下に何か無礼な粗相をいたしましたでしょうか……!?」
ジルはその上擦った問いを歯牙にもかけず、階段の踊り場に立つフィオナへと真っ直ぐに視線を向けた。
昨日、泥まみれの裏路地で見開かれたあの蒼氷色の瞳が、冷たく、だが確かにフィオナを捉える。
「同行願いたい、アシュレイ嬢。話がある」
拒絶を許さぬ峻厳な響きでありながら、その言葉の底には昨日の裏路地で嗅いだ、研ぎ澄まされた冷気と誠実さの匂いがあった。
フィオナは喉を鳴らし、静かに階段を下りてジルの前に進み出た。
運ばれた先は、王都北部に広大な敷地を誇るクローデル公爵邸だった。
黒檀の巨木から削り出された執務机が鎮座する重厚な執務室。
護衛の騎士たちを扉の外へ下がらせた後、ジルは机を挟んでフィオナと向かい合った。
部屋の隅に置かれた暖炉には薪が赤々と燃え盛っているにもかかわらず、ジルの周囲だけは肌を刺す晩冬の空気が漂っている。
「昨日は助かった」
ジルは無骨に短く口火を切った。
「礼を言うのが遅れた。お前の焚いた香がなければ、俺の心臓は昨夜のうちに凍結し尽くしていたはずだ」
「閣下……あの路地裏でのお身体は、本当に凍りついておられたのですか……?」
フィオナの問いに、ジルは軍服の第二ボタンを無言で外した。
覗いた胸の中央、心臓の真上には、青白い鉱石のような氷晶が皮膚に深く根を張っている。
その中心で、銀の鎖に繋がれた『白氷の懐中時計』が微かに青い光を放ち、針が進むたびに氷を削るような微小な軋み音を立てていた。
「古代呪詛『凍晶の呪い』だ。三年前の北方戦役で古代魔獣から受けた。感情を高ぶらせるか、冷気魔力を使うたびに体内が凍結する。宮廷薬師たちの調合では、もはや発作の進行を止められん」
ジルの言葉はどこまでも淡々としていたが、その瞳には自らを蝕む死の運命を冷徹に見据える覚悟が宿っていた。
ジルは懐から羊皮紙を取り出し、机の表面を滑らせてフィオナの前へ置く。
「俺はお前を、クローデル公爵家の専属調香師として雇いたい」
フィオナは目を瞠って羊皮紙を見つめた。
そこには調香師の雇用契約の条項と共に、信じがたい文言が記されていた。
「……婚約、ですか……?」
「そうだ。期間は一年間。形式上の偽装婚約だ」
ジルは組んだ指の上に顎を乗せ、低く告げる。
「宮廷魔道薬師ギルドは、俺の呪いを利用して公爵領の鉱山権益を奪おうと画策している。一介の見習い調香師を雇い入れただけでは、奴らは即座にお前を反逆罪で拘束し、処方を奪い去るだろう。だが、俺の婚約者という立場であれば、公爵家の庇護下に入り、ギルドも男爵家も手出しはできん」
フィオナの胸が激しく高鳴った。
男爵家からの厄介払い、あの粗暴なゴドウィン卿への売買婚から逃れる唯一の活路だった。
羊皮紙に記された報酬は破格の金貨に加え、敷地内にある薬草温室の全権委譲。
しかし、その末尾には厳格な条項が並んでいた。
守秘義務の違反に対する即座の厳罰。
そして、ジルの呪いの暴走に巻き込まれた際、公爵家は生命の保証を負わないという過酷な免責。
フィオナは指先で羊皮紙の文面を丹念に追った後、顔を上げてジルを真っ直ぐに見据えた。
「一つ、確認させていただきたい条項がございます」
「何だ」
「調香における私の裁量権です。公爵家の命であっても、薬師としての倫理に反する処方や、患者を害する危険のある調合を強要されないと保証していただけますか」
ジルは意外そうに蒼氷色の瞳を瞠った。
公爵の権威と武威の前に平伏する者が大半である中、彼女はただ生き延びるためだけでなく、調香師としての誇りと技術の独立性を守るために条件を問いただしてきたからだった。
「約束しよう。調香に関して、お前の判断を超える指図を出す者はこの館には置かん」
ジルの低い声に、嘘の気配は微塵もない。
ジルは組んでいた手を解き、静かに視線を注ぐ。
「俺を利用して男爵家から逃げたいなら受けるがいい。だが、それは俺の氷に巻き込まれて凍え死ぬ覚悟と引き換えだ」
人を遠ざけ、自らの苛烈な宿命に巻き込むまいとする突き放した語気だった。
だが、フィオナの嗅覚に届いたのは、欺瞞や利欲の腐敗臭などでは決してない。
雪解け水のように澄み渡り、他者を傷つけまいとする硬質な誠実さの香り。
昨日の雨の裏路地で、凍死の激痛に耐えながら『巻き込まれるぞ』とフィオナを庇おうとした、あの誠実な気配そのものだった。
この人は、誰も騙そうとしていない。
自分を犠牲にしてでも、民や騎士団を守ろうと一人で戦い続けている。
フィオナは机の上に置かれていた羽ペンを手に取った。
指先を震わせることなく、黒いインクをたっぷりと吸わせる。
「お受けいたします、閣下。私の調香で、必ず閣下の氷を止めてみせます」
羊皮紙の署名欄に、『フィオナ・アシュレイ』の名を確かな筆跡で刻み込んだ。
ジルは小さく眉を動かし、手元の契約書を見つめる。
その耳朶がほんのりと熱を帯びたように淡く色づいたのを、フィオナの目は見逃さなかった。
ジルは姿勢を正し、冷徹な仮面の下から静かに右手を差し出す。
「契約は成立した。今日からお前は、我が公爵邸の主であり、俺の婚約者だ」
氷のように冷え切ったジルの大きな手に、フィオナは己の手をしっかりと重ね合わせた。




