↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
手柄を奪われ追放された調香師なのに、呪われた氷結公爵が「一年だけ婚約者になれ」と迫ってくる  作者: 黒崎 隼人


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/20

第1話「腐敗の匂いと凍てつく吐息」

 薄暗い調香工房の奥で、硝子管の先端から琥珀色《こはくいろ》の雫が滑り落ちる。

 小さな薬瓶の底へ吸い込まれると同時に、雨上がりの森を思わせる清涼な香気がふわりと広がった。

 フィオナ・アシュレイは作業机に手をつき、親指の腹で瓶に硝子栓を押し込む。


(これで……ようやく安定した)


 三日三晩、睡眠を削って濾過を繰り返した『安寧の精油』。

 アシュレイ男爵家の屋根裏同然の工房で、見習い調香師《ちょうこうし》として仕上げた渾身の結晶だった。

 指先には薬草の灰汁による薄い染みが残り、爪の隙間は微かに黄色く染まっている。

 一般的な宮廷処方にはない、亡き母から教わった微量の野生薬草――銀鈴草《ぎんれいそう》の露を隠し味として加えてある。

 効能そのものを急変させるわけではない。

 揮発を緩やかに安定させる、母だけが知っていた調合の妙。

 フィオナは擦り切れた作業着の袖で額の汗を拭い、小瓶を胸元へ抱き上げる。

 夜が白み始めると同時に、宮廷魔道薬師ギルドの審査室へ足を運んだ。

 磨き上げられた黒大理石の床に、重苦しい足音が吸い込まれていく。

 審査室の長机の奥には、金縁の眼鏡を光らせた筆頭薬師ガブリエル伯爵が深々と腰掛けていた。

 衣服からは過剰なまでに濃厚な麝香《ムスク》の香水が立ち上り、フィオナの鼻腔を痺れさせる。

 その隣には、薄桃色の華麗なドレスをまとった異母妹エレナが優雅に座していた。


「フィオナ。ご苦労だったな」


 ガブリエルが小瓶を指先でもてあそび、羊皮紙を一枚、机の端へ滑らせた。

 そこには『宮廷認定調香処方:安寧の精油』と大書され、提出者としてエレナの名が誇らしげに記されている。


「それは……私が昨夜まで調合していたものです。エレナは一度も工房に入っていません」


 フィオナは言葉を詰まらせ、長机へ詰め寄った。


「見苦しい真似はおやめなさい、お姉様」


 エレナが鈴を転がすような声で遮る。

 金の巻き毛を揺らし、愛らしい瞳でフィオナを見上げていた。

 しかし、その全身から漂ってきたのは、熟れた果実が底からじくじくと腐り落ちていくような生々しい悪臭。

 他者の欺瞞《ぎまん》や底意が、腐敗の臭気となって鼻腔を刺す。

 フィオナは胃の奥が雑巾のように絞られる吐き気を堪え、エプロンの下で拳を握りしめた。


「お姉様の集めた材料を、わたくしが適切な魔力比率で再構成したのですわ」


「嘘です。その精油には、揮発を安定させるために銀鈴草の露を二滴だけ加えてあります。母から受け継いだ独自の配合比率です。エレナにその温度管理ができるはずがありません」


 フィオナの必死の抗弁に、ガブリエルは低く喉を鳴らして冷笑した。


「ギルドの公認手引書に存在しない雑草の混入など、不純物の混和に過ぎん。我が神聖な薬師ギルドにおいて、学術的根拠のない感覚任せの配合は厳罰の対象だ。エレナ嬢がそれを正式な魔導抽出理論へと補正してくれたのだから、むしろ感謝すべきだろう」


「そんな……! 母の調合手帖にも、効能の安定が記されています!」


「先代男爵夫人の遺品など、ギルドの認可を受けておらん私文書だ。男爵家からの正式な申し入れ通り、本日をもって貴様を工房から除名する。二度と足を踏み入れるな」


「除名……? あの工房は、母が遺してくれた大切な場所です!」


「工房の敷地も器具も、男爵家とギルドの公的財産だ。これ以上騒ぎ立てるなら、衛兵を呼んで不法占拠者として投獄させるぞ。立ち去れ」


 ガブリエルの言葉の端々から、どす黒い汚泥の臭気があふれ出していた。

 抗弁しようと開いた唇が、震えのあまり言葉を紡げない。

 悪意の強烈な臭気に鼻腔を焼かれ、その場に立っていることすら限界。

 フィオナは頭を垂れ、身を翻して審査室を飛び出した。

 背後から響くエレナの甲高い嘲笑が、冷え切った廊下にいつまでも木霊していた。


◆ ◆ ◆


 鉛色の雲から、冷たい雨の粒が落ち始めていた。

 ギルドの裏門を出たフィオナは、薄手のショールをかき合わせ、裏路地をあてもなく歩く。

 濡れた石畳からは、跳ね返る泥水と生ゴミの酸えた匂いが立ち上っていた。

 大通りからは、嫉妬や蔑みの混ざり合った雑多な悪臭が絶え間なく風に乗って流れてくる。

 他者の感情が匂いとして知覚されてしまう特異な嗅覚は、フィオナにとって逃れられない足枷。

 誰かに近づけば、言葉の裏に隠された醜悪な悪意が鼻腔を突き刺す。

 母から受け継いだ大切な調香工房すら、すべて奪い去られた。


(帰る場所なんて、どこにもない……)


 男爵邸に戻れば、待ち構えているのは継母の冷笑と、持参金目当ての粗暴な貴族への売買婚。

 冷たい雨水が前髪を伝い、頬を濡らす。

 その時、肌を刺すような鋭い気配が路地の空気を裂いた。

 秋の冷涼な雨ではない。

 肌の表面が一瞬で総毛立つような、厳冬の極地を思わせる異常な低温。

 フィオナが思わず胸元を押さえて呼吸を詰めると、吐き出した呼気が白く凍りつき、薄い霧となって散る。

 濡れていた水たまりが、パキパキと微かな音を立てて白く結晶化していく。


(何……この冷気は……?)


 路地の曲がり角、軍用馬車の影に、黒と銀の隙のない軍礼装をまとった偉丈夫が倒れ込んでいた。

 肩章に施された精緻な銀刺繍から、王都の近衛でも相当な地位にある騎士だと推測できる。

 しかし、その顔にフィオナは見覚えがない。

 男は荒い息を吐き、濡れた石畳に片膝をついている。

 伏せられた長い睫毛には白い霜が張り付いていた。

 胸元を両手で強く押さえ、苦悶に満ちた呻き声が漏れる。


「くっ……あ……」


 男の襟元が裂け、覗いた皮膚の表面を青白い氷の結晶――氷晶《ひょうしょう》が這い回っていた。

 氷の筋は生き物のように首筋へと広がりつつある。

 護衛の姿は周囲に一人もない。

 フィオナの鼻腔を突いた香気に、心臓が大きく跳ね上がった。

 他者を貶めるような悪意の腐敗臭など、そこには欠片もない。

 冬の朝の薄氷のように、極限まで研ぎ澄まされた硬質な冷気の香り。

 そしてその奥底から、深い孤独の匂いが漂っていた。


「あなた……大丈夫ですか……!」


 フィオナはためらうことなく泥水を蹴り、凍てつく男の傍らへ駆け寄った。

 男の身体から放たれる冷気は、数歩近づいただけで皮膚を針で刺すように痛めつける。

 敷石に膝をついた瞬間、膝頭の布地が急速に凍りついて硬直した。

 男の唇は青紫色に変色し、息を吸い込むたびに喉の奥で氷が軋むような音が鳴っている。


「寄るな……」


 男がかすれた声で低く呻いた。

 伸ばされた硬い指先が、フィオナの手を拒むように宙を払う。

 しかし、その指先は彼女自身を拒絶したのではなく、フィオナの足元に広がる鋭利に凍りついた水たまりを指し示していた。

 近づけば巻き込んでしまう危険を、麻痺しかけた身体で必死に警告していたのだ。


「巻き込まれて……凍りつくぞ……」


 そのかすれた声の中にすら、誰も傷つけたくないという切実な自制の匂いがあった。

 フィオナは首を振って応じる。


「動かないでください。息を吸うのも苦しいはずです」


 首から下げていた亡き母の形見、小さな銀の香炉ペンダントを引き抜いた。

 側面の留め金を外すと、内蔵された極微細な魔導機構がカチリと音を立てる。

 男の胸元に近づけた瞬間、香炉の銀細工が急激に冷却され、指先の皮膚が金属へ張りつきそうになった。

 皮膚を引き裂くような冷痛が走る。

 それでも手を離さなかったのは、病人の呼吸を最後まで見届けるよう繰り返し教えてくれた、亡き母の教えがあったからだった。

 腰の調香鞄から取り出した『緋火草《ひかそう》の精油』を一滴、香炉の芯へと垂らす。

 己の魔力を一筋通すと、立ち上ったのは目に見えないほどの極微細な紫煙。

 日向の藁とシナモンを思わせる、力強い温もりの香気が路地に広がる。

 フィオナは男の凍てついた唇のすぐそばへと香炉を翳した。


「吸ってください。深く、ゆっくりと」


 男の睫毛が激しく震えた。

 結ばれかけた唇の隙間から、清らかな温香が肺腑の奥深くへと吸い込まれていく。

 その瞬間、男の胸元を覆っていた青白い氷晶の表面に、ピキリと亀裂が走った。

 氷の筋が広がりを止め、霜がゆっくりと水滴へと変わって肌を濡らし始める。

 男の荒い呼吸が和らぎ、凍りついていた首筋の皮膚にわずかな血色が差した。

 カッと見開かれたのは、人を射竦めるような蒼氷色《そうひいろ》の双眸《そうぼう》だった。

 研ぎ澄まされた刃のような男の視線が、フィオナの顔を真っ直ぐに射抜く。


「……貴様……何を……した……?」


 男の冷え切った大きな手が、万力のような力でフィオナの手首を掴み取った。

 指先から伝わってくるのは、尋常ではない筋力と、生への執着。


「香を……温もりの香を焚いただけです」


 フィオナが痛みに耐えながら答える。

 三年間、王宮のどんな薬師も止められなかった呪詛《じゅそ》の侵食を、目の前で押し留めたことなど、この時のフィオナには知る由もなかった。


「名を……名乗れ」


「フィオナ……フィオナ・アシュレイです……」


 その名を告げた直後、路地の向こうから激しい馬蹄の音と足音が響き渡った。


「団長! ジル閣下! どちらにおいでですか!」


 近衛兵たちの切迫した呼び声が大通りから近づいてくる。

 見つかれば、身元不明の娘が近衛の高官に無認可の調香薬を施した罪に問われるかもしれない。

 フィオナは男の手首の隙間から、必死に力を込めて自らの手を引き抜いた。


「待て!」


 制止の声を背に、フィオナは泥にまみれたスカートを翻して路地の闇へと駆け出した。

 激しく跳ね上がる心臓を押さえながら、暗い路地を夢中で走り抜ける。

 石畳を走るフィオナの脳裏からは、冷気の中を漂う緋火草の残り香と、自分を凝視していた男の蒼氷色の瞳の残像が離れなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。