第6話「暴かれた毒調合と二人の誓い」
夜会の賑わいを背に、黒塗りの馬車が夜の王都を静かに疾走していた。
車窓を流れる街灯の光が、車内の二人を交互に照らし出す。
革張りの座席の隅で、フィオナは膝の上で両手を固く組んだまま、小刻みに身を震わせていた。
大広間に満ちていた無数の貴族たちの品定めする視線、そしてガブリエルの水晶瓶から立ち上っていたあの湿った異臭。
毒気に鼻腔を焼かれた名残で、喉の奥が苦く渇き、胃の奥がきりきりと痛む。
息を吸うたびに、あのどす黒い臭気の残滓が蘇ってくるようだった。
「……すまない」
向かいに座っていたジルが、低くかすれた声で呟く。
立ち上がったジルはフィオナの隣へと腰を下ろすと、自らの肩から重厚な黒い騎士外套を脱ぎ、フィオナの華奢な肩へと優しく掛け合わせた。
上質なウール地の外套には、ジル自身の体温と、冬の朝の研ぎ澄まされた雪のような香気が色濃く残っている。
冷え切っていた背中を包む厚手の生地から、静かな力強さが染み渡ってきた。
その清らかな香気に包まれた瞬間、フィオナの強張っていた呼吸がふっと和らぐ。
「俺の血腥い権力闘争に、お前を巻き込んだ。あのような場で矢面に立たせるべきではなかった」
ジルの蒼氷色の瞳には、自らを責めるような暗い影が落ちていた。
他者を守るために戦い続けてきた男が、今、フィオナを危険に晒したことに深く胸を痛めている。
その誠実な気配が、外套越しにフィオナの胸を包み込んだ。
「巻き込まれたのではありません。私が自らの意思で、お隣に立つと決めたのです」
フィオナは外套の襟元を握りしめ、ジルの顔を真っ直ぐに見上げる。
「閣下、先刻の夜会で確信いたしました。ガブリエル卿の薬は、あなたを治療するためのものではありません。冷気を固め、心臓を氷の塊へと変えるための劇毒です」
ジルの表情が険しく引き締まった。
「……やはりそうか」
「お気づきだったのですか?」
「ああ。あの男の薬を飲むたび、一時的な熱感はあるものの、その後に起きる発作の冷気は日を追うごとに強まっていた。だが、宮廷のどの薬師も『毒気が魔力とせめぎ合う通過儀礼だ』と強弁するばかりで、確かめる術がなかった」
「あの薬の芯には、雪腐れ茸が凝縮されていました。体内の魔力経路を収縮させ、冷気魔力の急速な結晶化を引き起こす禁忌草です。あのまま飲み続けていれば……閣下は今年の冬を越せなかったはずです」
フィオナの言葉に、ジルの拳がギシリと硬い革手袋を軋ませた。
◆ ◆ ◆
公爵邸の執務室に到着した時、すでに時計の針は深夜の二時を回っていた。
暖炉に薪が足され、パチパチと静かな火の粉が舞い上がる。
待ち構えていた副団長レオン・ヴァルガスが、扉を閉めるなり、革張りの分厚い帳簿を机の上へと叩きつけた。
「団長、フィオナ様。諜報班が裏問屋街の地下倉庫から押収した記録です」
レオンが広げた羊皮紙には、暗号化された薬草の密輸取引が詳細に記されていた。
北方山脈から搬入された禁忌植物『雪腐れ茸』。
その納品先は、宮廷魔道薬師ギルド筆頭、ガブリエル伯爵の私設地下倉庫となっている。
さらにその末尾には、別の暗号で記された不審な鉱石の取引記録が存在していた。
『極北の古代遺跡より出土したる黒氷の原石、一点』
現時点ではその鉱石の正体や用途までは解読できないものの、ガブリエルが単なる毒草の手配に留まらず、何か禍々しい古代遺物を秘密裏に王都へ運び込んでいる事実を示していた。
「記録は三年前から始まっています」
レオンの琥珀色の瞳に、煮え立つような憤怒の光が宿る。
「団長が親征から帰還され、ガブリエルの治療を受け始めた時期と符合します。奴は初めから治療する気などなく、団長の心臓の凍結を少しずつ早め、病死に見せかけて暗殺しようとしていたのです。公爵家を傀儡化し、領地に眠る魔鉱石と薬草の鉱脈を独占するために!」
ジルは帳簿の数字を冷ややかに見つめた。
怒りで感情を荒らげれば、呪詛の冷気が暴走する。
ジルは呼吸を整え、氷のように硬質な理性を保ちながら呟いた。
「奴が俺の死を望んでいたこと自体に驚きはない。だが……証拠の扱いが問題だ」
「ええ」
レオンが苦渋に満ちた表情でうなずいた。
「ガブリエルは国王代理や貴族院議長とも深く結託しています。宮廷薬師の権威は絶大だ。この帳簿一枚と、フィオナ様の感覚的な証言だけでは、『近衛騎士団による捏造だ』と逆に反逆罪に問われかねません。貴族院の面前で動かぬ物証を突きつけるか、あるいは……」
「あるいは、俺の呪いを根治させることだ」
ジルの言葉に、執務室の空気が引き締まった。
「奴の調合した偽薬が毒であり、フィオナの調香こそが真の治療法であると結果で証明すること。それ以外に、奴の嘘を粉砕する道はない」
フィオナは息を詰め、二人の真剣な視線を受け止める。
病を抑え込む対症療法ではない。
古代の呪詛そのものを体内から消滅させる、未踏の調香。
その重責が、フィオナの双肩にずしりと圧し掛かっていた。
フィオナは胸元の銀の香炉にそっと指先を触れ、静かに口を開く。
「……呪いを根治する方法は、一つだけ存在します」
ジルとレオンの視線が、一斉にフィオナへと注がれた。
「母が遺した調香の古文書に記されていました。古代の呪詛によって凍結した心臓を蘇らせる唯一の秘薬、『融解の香心』です」
「融解の香心……」
ジルがその名を低く繰り返す。
「凍晶の呪いの本質は、冷気魔力による心臓の核の石化です。通常の温香では表面を溶かすのが限界ですが、太陽の魔力を凝縮させた『陽光草』の精油を用いれば、心臓の奥深くに巣食う氷の核を融解させることができます。ただし……」
フィオナは言葉を切り、わずかに視線を伏せた。
「陽光草の精油は揮発性が極端に高く、調合者の魔力と感情の波長が寸分狂わず調和しなければ、抽出の瞬間に燃え尽きて灰になってしまいます。さらに、核を溶かすためには、患者と調香師の間に揺るぎない信頼が結ばれていなければなりません」
失敗を重ねれば、残された貴重な素材を失うだけでなく、ジルの命脈も尽きる。
調香師としてのすべての技術と、己の全存在を賭けた調合。
その重圧に、フィオナの指先が微かに震えた。
その小刻みな揺らぎを、温かな感触がそっと包み込む。
ジルがフィオナの傍らに歩み寄り、彼女の両手を、自らの大きな両手で包み込んでいた。
かつては触れるだけで凍傷を負わせたあの冷たい手が、今やフィオナの体温を受け止め、力強い温もりを放っている。
親指の腹で、フィオナの強張った指の背をゆっくりとなでるように擦った。
「フィオナ」
ジルは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
その蒼氷色の双眸には、もはや人を寄せ付けない冷徹な拒絶などどこにもなかった。
自らの弱さを晒し、フィオナと共に生きたいと願う、一人の人間の切実な光が宿っている。
「お前が香で俺を繋ぎ止めてくれるなら、俺はこの命を賭けてお前を守り抜く。ガブリエルの奸計からも、貴族院の罠からも、必ずお前の尊厳を守る」
ジルはフィオナの華奢な手を、壊れ物を慈しむように優しく握り直した。
「俺の専属として……最後まで隣にいてくれるか」
契約の『偽装』という言葉は、もはやジルの口から出なかった。
フィオナの瞳から、こらえきれなかった涙が一粒、頬を伝ってこぼれ落ちる。
他者の悪意に怯え、家族にすら居場所を否定され、孤独に震えていた自分を、この人は真っ直ぐに必要としてくれた。
その熱が、フィオナの凍てついていた孤独の殻を優しく溶かしていく。
「はい、ジル様」
フィオナは震える声で、しかし揺るぎない覚悟を込めて答えた。
その瞬間、ジルは返事をする前に、一度だけ小さく呼吸を止める。
蒼氷色の瞳がわずかに見開かれた。
その反応に気づいたフィオナは、公爵の尊称を外して名を呼んでしまった無礼に思い至り、慌てて頬を染める。
「あ……申し訳ありません、閣下。滅相もない無礼を……」
詫びようとして手を引こうとしたフィオナを、ジルの大きな手が優しく引き留めた。
ジルは首を横に振り、微かに口元を緩める。
「謝る必要はない。……二人きりの時だけだ。その呼び方を許す」
「……はい、ジル様」
フィオナがもう一度その名を呼ぶと、ジルの耳朶がほんのりと朱に染まった。
互いの手を通じ、二人の誓いが静かに結ばれる。
冷え切った公爵邸の執務室の窓の向こう、東の空が白み始め、夜明けの柔らかな光が二人を照らしていた。




