番外編「副団長レオンの受難と氷結卿」
◇レオン視点
王宮の西翼に位置する近衛騎士団執務室の机には、天井に届かんばかりの書類が山積みになっていた。
執務机の奥で、副団長レオン・ヴァルガスはこめかみを強く揉みほぐしながら、苦味の強い薬湯を一気に喉へ流し込む。
鈍く痛む胃袋が、三日間に及ぶ不眠不休の事後処理の苛酷さを訴えかけていた。
新月の宴で起きた大騒動の処理は、国家の根幹を揺るがす規模にまで膨れ上がっている。
捕縛された筆頭薬師ガブリエル伯爵の自白調書。
裏街の密輸組織から押収された禁忌薬草の目録。
さらに連座した貴族たちの告発状、負傷した兵士たちへの補償手続き、解体された神聖薬師ギルドの再編案。
これら膨大な書類の山を、司法省と貴族院は容赦なく騎士団へ放り投げてきたのだ。
「――で、当の最高責任者は何をしているんだ」
レオンは羽根ペンを机に置き、重く乾いた息を吐き出す。
書類の山を挟んだ向かいの席、すなわち近衛騎士団長ジル・クローデル公爵の席は、三日前から無人であった。
王宮の廊下には、事態の収拾と面会を求めて群がる高位貴族たちの足音が絶え間なく響いている。
だが、その氷結卿本人は、執務室に足を踏み入れることすら拒絶していた。
控えめなノック音が響き、顔色を青ざめさせた若い当直騎士が入室してくる。
「副団長閣下! 団長閣下から最優先赤封蝋の親書が届きました!」
「赤封蝋だと……? まさか残党貴族の蜂起か!」
王国の存亡に関わる危機事態にのみ用いられる最高位の封蝋である。
レオンは跳ね起きるように立ち上がり、差し出された真紅の羊皮紙をひったくった。
震える指先で封を解き、文面に視線を走らせる。
そこには、ジルの端正で鋭利な筆跡で、極めて簡潔な命令が記されていた。
『王都全域の最高級薬草商および調合工房へ至急使いを出し、公爵家の私費にて最高純度の氷晶花軟膏および凍傷治療薬をすべて買い占めよ。代金に糸目を付けるな。遅参した者は厳罰に処す』
レオンの視界が微かに揺らいだ。
「……は?」
国家防衛の軍令ではない。
国家権力による不当な徴発を避け、私費を投じて凍傷用の最高級軟膏を買い占めろという、徹底して個人的な命令書であった。
冷酷無比と謳われ、感情の一片すら氷の下に凍りつかせていたはずの男が、今や一人の少女のために最高位緊急伝令を乱発している。
事態を呑み込んだレオンは、痛む胃袋を押さえながら重たい足取りで立ち上がった。
「俺が直接、団長閣下の様子を見に行く。書類の受付はすべて一時停止にしろ」
部下が敬礼を返す中、レオンは親書を握りしめ、執務室の扉を開け放った。
王宮の東側に広がる離宮は、事実上の軍事要塞と化していた。
廊下の曲がり角を曲がった瞬間、レオンは足を止める。
白大理石の廊下に、近衛騎士団の最精鋭である第一近衛中隊が、抜剣可能な体勢のまま両脇に二列で整列していたのだ。
近衛騎士たちの視線の先、廊下の最奥にある豪華な客室――フィオナが休む特別療養室の扉の前には、異様な光景が広がっていた。
華麗な黒檀の肘掛け椅子が廊下の真ん中に据え置かれ、そこに深く腰掛けたジルが冷徹な双眸を光らせている。
手元には、極北の霊峰に咲く幻の花から抽出された特級軟膏の小瓶が、何十本も几帳面に並べられていた。
「……団長閣下。ここで何をしておられるのですか」
レオンが呼びかけると、ジルは氷柱のような冷たい視線を向けた。
「声が大きい。フィオナが目を覚ましたらどうする」
「小声で話していますよ! それより執務室を見てください! 処罰に関する書類が天井まで届きそうなんですよ!」
レオンが訴えかけるが、ジルは眉ひとつ動かさない。
「不要不急の書類など後回しにしろ。今この瞬間、王国のいかなる国務よりも優先されるべきは、フィオナの足の甲に残る凍傷の治癒だ」
「どこが不要不急ですか! それに、この近衛隊の配備は何です!」
「当然の措置だ。あいつは新月の夜、大広間の氷を歩いて俺の命を救った。その足に、微小な冷えが残っている。侍女どもの粗雑な手付きで塗布させるわけにはいかん。ましてや、薄汚い政争に巻き込もうとする貴族どもを、半径百歩以内に近づけるわけにはいかないだろう」
「……侍女のどこが粗雑なんですか。まさかとは思いますが、軟膏を塗っているのは……」
「俺だ」
ジルは微塵の躊躇もなく言い切った。
「毎朝毎夕、血行を促進するために俺が直に塗布し、体温で温めている。冷え切った指先を解すのは、俺の義務だ」
レオンは頭を抱えた。
かつて感情を殺し、誰に対しても絶対零度の拒絶を突きつけていた男が、いまや一人の少女に軟膏を塗るためだけに職権を乱用している。
レオンは、ジルの右手に目を留めた。
かつては常に青白く凍てつき、他者が触れれば凍傷を負わせるほど冷たかったその手が、今は血色の良い温かな皮膚の温もりを湛えている。
レオンが無遠慮にその手首を掴むと、力強い脈拍と、柔らかな人肌の熱がはっきりと伝わってきた。
「……ちゃんと、温かいな」
レオンが漏らすと、ジルは僅かに視線を泳がせ、気まずそうに手首を引き戻す。
「……当たり前だ。フィオナが、命を削って溶かしてくれた温もりだからな」
その時、重厚な扉の向こう側から、鈴を転がすような愛らしい声が漏れ聞こえてきた。
「……ジル様? 廊下にどなたかいらっしゃるのですか……?」
その瞬間、ジルの双眸から冷徹な険が跡形もなく消え去る。
厳格さを誇っていた近衛騎士団長の仮面は崩れ落ち、熱烈な恋情を隠そうともしない青年の顔が現れた。
「フィオナ、起きてしまったのか。すまない、外が騒がしかったな」
ジルはレオンの存在など視界から消し去り、扉をわずかに押し開けた。
隙間から、清潔なラベンダーと柔らかな柑橘の香気が静かに廊下へ流れ出してくる。
「いえ……ジル様のお声が聞こえたので。私、もう熱も下がりましたし、足の痛みもありません。そろそろ起き上がって、届いた薬草の選別を始めたいのですが……」
「ばかを言うな。絶対安静だ」
ジルの声音は、先ほどとは別物の、蜂蜜を溶かしたように甘く低い響きを帯びていた。
「皮膚の深層にはまだ冷気による微細な損傷が潜んでいる。足を床につけてはならないと命じたはずだ」
「で、でも、ずっと寝たきりでは申し訳なくて……それに、調香師として薬草の状態は自分の目で確かめ、自分の手で選びたいのです。公爵家の庇護に甘えるだけでなく、私は自立した調香師としてジル様のお役に立ちたいのですから」
扉の向こうで、フィオナが毅然と、しかし愛らしさを込めて主張する。
ジルは一瞬虚を突かれたように目を見張り、それから困ったように口元を綻ばせた。
以前なら強引に閉じ込めていたかもしれない男が、彼女の誇りと意志を尊重することを学んでいた。
「……わかった。だが歩くのは駄目だ。薬草の選別台をベッドの脇に運ばせよう。お前が望むなら工房の再建もすべて支援するが、今日だけは俺に甘えろ」
衣擦れの音が響き、起き上がろうとしたフィオナをジルが軽々と腕の中に抱き上げ、再び温かな羽毛布団の中へと優しく戻した気配がした。
「あ、あの、ジル様……!? だ、抱き上げなくても自分で戻れます……!」
「冷気に触れさせるわけにはいかん。大人しく毛布に包まれていろ。……いい子だ」
「うぅ……恥ずかしいです……」
廊下に一人取り残されたレオンは、開いた口が塞がらない。
両脇に控える近衛騎士団の騎士たちも、直立不動の姿勢のまま視線を虚空へ泳がせ、見なかったことに徹している。
やがて客室の扉が再び開き、ジルが顔を覗かせた。
その表情には、満足げな光が宿っている。
「レオン。聞こえたな」
「……何がでしょうか、団長閣下」
「フィオナの療養が最優先だ。王都でのすべての残務処理、連座貴族の財産差し押さえ、ギルドの組織改編に関する承認印は、すべてお前に一任する」
「俺に丸投げですか!? 全権委任状もなしに裁定できるわけがないでしょう!」
「委任状なら昨日、宰相府に提出済みだ。全権を貴様に譲渡してある。俺はフィオナの足の冷えが解消され次第、彼女を連れて北のクローデル領へ帰還する」
レオンは言い募ろうとして、ふと言葉を呑み込んだ。
ジルの蒼い瞳の奥に宿る、淀みのない澄み切った光。
かつては死の恐怖と呪詛の激痛に怯え、孤独の底で凍りついていた友の姿は、そこにはもうなかった。
誰かを愛し、誰かに命を救われ、その愛を守るために生きようとする、血の通った一人の男が立っている。
レオンは肺腑の底から長く息を吐き出すと、息を緩めて両手を広げた。
「……承知しましたよ。王都の泥臭い後始末は、この優秀な副団長がすべて綺麗に片付けておきます」
「感謝する」
「その代わり、領地へ戻ったら盛大に宴を開いてください。極上のワインを樽ごと用意して、俺を歓待すると約束してください」
「ああ、約束しよう。フィオナの香油を浮かべた最高の茶も振る舞おう」
ジルは悪戯っぽく口元を緩めると、躊躇なく客室の扉を静かに閉ざした。
再び金属錠が噛み合う乾いた音が響く。
廊下に取り残されたレオンは、親書を胸ポケットにしまい、背筋を伸ばした。
親友が手に入れた温かな春を守るためなら、山積みの書類仕事を片付けるくらい、どうということはない。
レオンは足音高くきびすを返すと、執務室へ向かって歩き出した。




