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手柄を奪われ追放された調香師なのに、呪われた氷結公爵が「一年だけ婚約者になれ」と迫ってくる  作者: 黒崎 隼人


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20/20

エピローグ「春風の誓いと永遠の温もり」

 新緑の風が吹き抜ける初夏のクローデル公爵領は、一面の淡い紫に染まり上がっていた。

 王都での激動の解呪から半年。三か月の療養と工房再建を経て迎えた初夏。

 長く厳しい冬を越えた北の大地は、今や豊かな陽光を浴び、どこまでも続くラベンダー畑が波のように揺れている。

 白氷の館の敷地内に新設された調香温室の控え室で、フィオナは鏡の前に立っていた。

 全身を包み込むのは、最高級の白絹に繊細な銀糸の刺繍が施された華麗なウェディングドレスである。

 胸元には淡い青の魔力石が輝き、裾には雪解けの清流を模したレースが波打っていた。


「フィオナ様、息苦しくはありませんか?」


 背後でドレスの背紐を整えていた侍女頭リンダが、涙ぐみそうな表情で尋ねてくる。


「ええ、大丈夫です。とても着心地が良いわ」


 フィオナは微笑み、白手袋をはめる前の自らの両手をそっと持ち上げた。

 かつて工房で薬品に焼かれ、荒れた痕が刻まれていた両手。

 悪意の腐臭に怯え、人前で晒すことを恐れて常に隠していたその指先は、いまや滑らかな白さを取り戻していた。

 ジルが毎朝毎夕、祈るように塗り続けてくれた特級軟膏と、彼の注ぎ続けた温かな体温のおかげであった。

 指先を微かに動かしてみても、かつて骨を苛んだ引きつりや冷えの残滓はどこにも感じられない。


「……本当に、夢のようです」


 リンダが目頭をハンカチで押さえながら、感極まった声を漏らした。

 館へやってきた当初、フィオナを疑いの目で警戒していたリンダだったが、今や誰よりも深くフィオナを敬愛し、花嫁ヴェールを整えるその手は震えるほど優しい。


「アシュレイ工房が公爵領で再建され、王都から避難してきた職人たちも皆、生き生きと調香に励んでいます。すべて、フィオナ様が諦めずに戦ってくださったおかげです」


「私だけの力ではありません。ジル様が……そしてリンダや皆が信じて支えてくれたからこそです」


 窓の外を見下ろせば、再建された工房の煙突から、清らかなハーブの香煙が空へ溶け込んでいくのが見えた。

 悪意に濁った腐敗臭は、この領地のどこにも漂っていない。

 風に乗って届くのは、土の温もりと、薬草の力強い生命の芳香だけであった。

 控えめに扉をノックする音が響き、白銀の式典用礼装をまとったレオンが顔を覗かせる。

 腰には近衛騎士団の儀礼用サーベルを佩き、すっかり顔色の良くなった副団長が、誇らしげに胸を張っていた。


「失礼します、花嫁殿。大聖堂の準備がすべて整いました。領民たちも広場を埋め尽くして、今か今かと主役の登場を待ち侘びていますよ」


「レオン様……ありがとうございます」


「いやあ、王都での地獄の残務処理を思えば、この晴れ舞台を見届けられる喜びは何物にも代え難いですよ。団長閣下はすでに祭壇の前で直立不動のまま待機しておられます。あまり待たせると、あの人の緊張で大聖堂の床が本当に凍りつきかねません」


 レオンのおどけた言葉に、フィオナは胸の奥の緊張を和らげ、自然と口元を綻ばせた。


「はい。すぐに向かいます」


 リンダから純白のベールを受け取り、丁寧に髪へ留める。

 透き通る布越しに見える世界は、どこまでも澄み渡る陽光に満ちていた。

 フィオナは深く息を吸い込み、愛する人が待つ場所へと最初の一歩を踏み出す。

 領都の中心に聳え立つ白石造りの大聖堂は、芳しい花の香りと人々の歓喜で満たされていた。

 重厚な大扉が左右へと押し開かれた瞬間、吹き込んできたのは初夏の爽やかな風と、無数の白い花びらであった。

 頭上に響き渡る高らかな鐘の音。

 広場を埋め尽くした領民たちから湧き起こる、地鳴りのような祝福の歓声。

 聖堂内へと続く真紅の絨毯の両脇には、正装の近衛騎士たちと、公爵領に仕える使用人、そしてアシュレイ工房の職人たちが整列していた。

 皆が一様に誇らしげな笑顔を浮かべ、フィオナの歩みを温かな眼差しで見守っている。

 フィオナはブーケを胸元で抱き締め、ゆっくりと絨毯の上を進んだ。

 一歩を踏み出すたびに、過去の記憶が走馬灯のように胸を去来する。

 裏路地で凍え、悪意の腐臭に怯えて震えていた冬の日。

 偽装婚約の相手として王都の公爵邸に招かれ、恐る恐る調合を差し出した夜。

 新月の宴で死線を越え、絶対零度の氷嵐の中を必死に前進したあの瞬間。

 それらすべての苦難と孤独が、いま足元で一枚の花びらとなって踏みしめられ、光の中へと昇華されていく。

 視線を上げた先、祭壇の最上段に、彼が立っていた。

 濃紺の生地に純白の肩章と黄金の飾緒を配した、公爵家の最高礼装をまとったジル・クローデル。

 引き締まった長身と端正な顔立ちは、かつて『氷結卿』と恐れられた威厳を保ちつつも、その表情にはかつての凍てつくような拒絶の気配はなかった。

 フィオナが近づくにつれ、ジルの蒼氷の瞳が驚嘆と熱烈な光を湛えて見開かれる。

 ベール越しであっても、彼が胸を詰まらせたことがはっきりと見て取れた。

 愛しげに揺れるその瞳の熱さに、フィオナの頬が紅潮する。

 祭壇の階段を上がりきり、フィオナはジルの前で立ち止まった。

 ジルはためらうことなく、自らの大きな右手を差し出す。

 かつては他者を寄せ付けず、青白い冷気を発していたその手のひら。

 フィオナが白手袋越しに自らの手を重ねると、ジルは指を絡めるようにして強く包み込んだ。

 布地を越えて、はっきりと伝わってくる力強い脈動と、柔らかな体温。


「……美しい、フィオナ」


 ジルが誰にも聞こえないほどの低く熱を帯びた声で囁いた。

 その声音に込められた真摯な愛の重みに、フィオナの瞳から一筋の涙がこぼれ落ちそうになる。


「ジル様も……とても素敵です」


 二人が視線を交わし合った瞬間、聖堂内を包む空気が、春の陽だまりのような温もりで満たされた。

 祭壇の前に進み出た老司教が、厳かな声で神前への誓約を促す。

 聖堂内のすべてのざわめきが静まり返り、ステンドグラスから差し込む色鮮やかな光の下で、二人は向き合った。

 ジルはフィオナの瞳を真っ直ぐに見つめ、凛とした声で誓いの言葉を紡ぎ出す。


「我が命、我が魂、この身に宿るすべての熱は、凍てつく闇の底から俺を救い出してくれたフィオナ・アシュレイのものだ。生涯、いかなる嵐が訪れようとも、俺の全身全霊を持ってお前を守り、慈しみ、温め続けることを、神とこの魂に誓おう」


 飾りのない、剥き出しの真実だけが込められたジルの誓い。

 その言葉のひとひらごとに宿る深い情熱が、フィオナの胸を熱く焦がす。

 フィオナもまた、深く息を吸い込み、澄み渡る声で応えた。


「私の調香も、この命も、私の心のすべては、ジル・クローデル様だけのものです。生涯、貴方の傍らに寄り添い、寒さを払い、温かな香気を紡ぎ続けることを誓います」


 老司教が満足げにうなずき、天に向かって両手を広げた。


「神の御名において、二人の絆が永遠であることをここに宣言する。新郎よ、誓いの口づけを」


 ジルは静かに手を伸ばし、フィオナの頭上にかけられた純白のベールをゆっくりと持ち上げる。

 露わになったフィオナの潤んだ瞳と、紅潮した頬。

 ジルは愛おしさに胸を熱く焦がすように目元を和らげると、温かな両の手のひらで、フィオナの柔らかな頬をそっと包み込んだ。

 霊峰での生き延びるための口づけ、祭壇での救済のための口づけ。

 それらすべての試練を乗り越え、未来を分かち合い、永遠を共にするための、甘美で穏やかな愛の誓約の口づけであった。

 ジルの熱い唇が、フィオナのそれにそっと重なる。

 触れ合った場所から、あふれんばかりの幸福と甘やかな熱が全身の隅々へと巡っていった。

 フィオナはそっと瞳を閉じ、ジルの広い胸元に自らの手を添える。

 鼓動が重なり合い、二人の境界が溶け合っていくような深い充足感。

 唇が離れた瞬間、聖堂内は割れんばかりの拍手と歓声に包まれた。

 レオンが口笛を鳴らし、リンダがハンカチで顔を覆って号泣し、騎士たちや職人たちが総立ちとなって祝福の声を張り上げる。

 祭壇の頭上から、祝福の鐘が初夏の空高く鳴り響き渡った。

 ジルは眩い笑みを浮かべ、フィオナの腰を引き寄せて抱き締める。


「愛している、フィオナ。俺のすべてを捧げて、お前を幸せにする」


「私も……私も愛しています、ジル様」


 ジルの胸元で、カチリ、と小さな音が響いた。

 礼装の内ポケットに収められた、かつて呪詛の寿命を刻んでいた『白氷の懐中時計』。

 ジルが自らの手で硝子を嵌め直し、フィオナと共に清めたその時計が、今や呪詛の拘束具ではなく、二人の未来を刻む時計として、新しく穏やかな時を刻み始めている。

 チク、タク、と規則正しく刻まれる小さな針の音は、二人の力強い心音と重なり合っていた。

 吹き抜ける風に乗って、満開のラベンダー畑から運ばれてきた甘やかな香気が、二人を優しく包み込む。

 もう悪意の臭いに怯えてうつむくことも、凍てつく孤独に震えることもない。

 初夏の風の温もりは、二人が手を携えて歩むこれからの未来を、永遠に照らし続けていくのだった。

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