最終話_ただ一人の名前
療養施設に来て、季節がひと巡りしようとしていた。北の王国を離れて、もうすぐ一年になる。
朝、ロランが部屋へ入ると、リディアは窓辺の椅子に座っていた。外では庭師が枯れた枝を集めている。リディアの視線は、その手元をゆっくり追っていた。
「聖女様。おはようございます。ロランです」
いつもの挨拶だった。返事がある日を当てにしているわけではない。目覚めたとき、誰がそばにいるのか分かるように、毎朝同じ調子で名乗る。声をかける前には、なるべく彼女の見えるところへ立つ。それもマルタに教わったことだった。
リディアは顔を上げなかった。それでも今朝は、自分で靴に足を入れた。かかとを収め、靴の舌を指で押さえたところで手が止まる。ロランは足元にしゃがんで紐を結んだ。
以前は靴を見せても、足先ひとつ動かせなかった。それを彼女自身が覚えているかどうかは分からない。
ロランは隣の椅子へ腰を下ろし、朝食の皿を取った。今日は柔らかく煮た豆と、果物を刻んだものがある。
「今日は、こちらから食べましょうか」
匙を手に置くと、リディアの指が閉じる。以前なら、そこから先はロランが手を支えなければならなかった。今は、待っていると一口だけ自分で運べる日がある。
今日はできなかった。
ロランはしばらく待ち、手を添えた。
それでいいと、今は思える。
*
脚が戻ってから、ロランは走る練習を始めていた。
最初は歩幅が合わず、庭の隅で何度も転んだ。身体は脚を失った頃の歩き方を覚えていて、新しい脚を出すのが少し遅れる。医師に無理をしないよう言われ、短い距離から始めた。
その日の午後、庭の端から端まで、初めて転ばずに走れた。
速くはない。若い頃のように石段を駆け上がることも、まだできない。
それでも走れた。
戻ってきた足の裏が地面を蹴るたび、数年前の戦場と、国境から続く街道が遠ざかっていくようだった。
庭の入口にリディアが座っている。介助の担当者が日なたへ椅子を運んでくれたのだ。ロランは彼女の前へ戻った。
「聖女様……走れました」
リディアは何も言わない。
「ずっと、できないと思っていたんです」
それ以上は続けなかった。
彼女があの薬を飲まなければ、自分の脚は戻らなかったかもしれない。そのことを考える日は、まだある。
感謝だけでは片づかなかった。彼女が失ったものと、自分が得たものを、釣り合わせることはできない。
ロランは椅子のそばにしゃがみ、彼女の手が冷えていないか確かめた。
夕方には、取り込んだ白いシーツを二人で畳んだ。リディアが反対側の端を持つまで、ロランは何もせずに待つ。角がずれても急かさない。少しずつ布が重なり、ようやく一枚を畳み終えた。
ロランが畳んだ布を籠に置くと、リディアは自分の指先を見ていた。今日は、頼まれたことを一つ最後までできた。
*
小さな変化は、いつも予告なく現れた。ある日、ロランが部屋を出ようとすると、背中で布の擦れる音がした。振り返ると、リディアが彼の袖の端を握っていた。
偶然引っかかったのかと思った。ロランは動かず、彼女の顔を見た。
「どうしました?」
返事はない。
ロランが椅子へ戻ると、指がゆっくり離れた。
それだけのことだった。
次の日も同じことが起きるとは限らない。ロランは記録帳に、袖をつかんだ時刻と、その前に何をしていたかを書き留めた。マルタは帳面を見て、短くうなずいた。
「急いで意味を決めつけないで、続けて見ていきましょう」
「はい」
できることが増えた日も、増えなかった日も、朝は来た。ロランは水を汲み、食事を用意し、名を告げた。リディアが戸口を見るときは、同じ場所に立った。
今の彼女が、どれほどのことを分かっているのか。
分からないままでも、一緒に暮らすことはできた。
*
秋の朝、庭の葉が黄色く染まり始めていた。ロランはいつもより早く部屋へ入った。朝の当番が変わり、食事の時間まで少し余裕がある。
リディアは起きていた。
窓ではなく、扉の方を見ている。
ロランは足を止めた。昨夜、明日の朝も来ると声をかけた。その言葉を覚えていたのかもしれないし、たまたまこちらを見ていただけかもしれない。
「聖女様。おはようございます」
彼は椅子を引いた。
いつものように名乗ろうとした、そのとき。
リディアの唇が動いた。
ロランは声を止めた。
「……ろ……」
ただの息だと思った。これまでにも、意味を結ばない声を何度も聞いている。
けれど、リディアは彼を見ていた。
視線が、彼の顔から離れない。
「……ラン」
ロランの手が、椅子の背からすべり落ちた。
リディアが小さく息を吸う。
「……ロラン」
彼は返事ができなかった。
彼女の目が、音のないままもう一度彼を探す。ロランが膝をつくと、その目も少し下がった。
今ここにいる自分へ向けて、呼んだのだ。
「……はい」
やっと声が出た。
「ここにいます」
ロランは彼女の手に触れた。指はすぐには動かなかったが、しばらくして、彼の指を一本だけ握り返した。
会話ができるようになったわけではない。明日も同じように呼べるかどうかさえ、分からない。食事の介助も、休息も、これからずっと必要かもしれなかった。
それでも、もう一度名前を聞こうとは思わなかった。
「……もう、戦わなくていいんです」
リディアは彼を見ていた。
あの北門で、ロランは彼女の笑い声が怖かった。
今、目の前にいる人が一つの名前を呼んだだけで、彼はうまく息ができなかった。
握られた指をほどかず、ロランはそのまま傍に座っていた。
もう、誰かを守るために、自分を壊す必要はない。
失ったものがすべて戻らなくても、リディアにはこれからの人生がある。
そして、その人生を一緒に歩いていく人が、ここにいた。
お読みいただき、ありがとうございました。
これにて本編は完結です。
この後、リディアの視点で描いた番外編を3話公開します。
最後までお付き合いいただけましたら幸いです。




