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おクスリ聖女様 ―『薬に逃げた』と断罪され、追放されました―  作者: 灯野ましろ


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9/12

最終話_ただ一人の名前

 療養施設に来て、季節がひと巡りしようとしていた。北の王国を離れて、もうすぐ一年になる。


 朝、ロランが部屋へ入ると、リディアは窓辺の椅子に座っていた。外では庭師が枯れた枝を集めている。リディアの視線は、その手元をゆっくり追っていた。


「聖女様。おはようございます。ロランです」


 いつもの挨拶だった。返事がある日を当てにしているわけではない。目覚めたとき、誰がそばにいるのか分かるように、毎朝同じ調子で名乗る。声をかける前には、なるべく彼女の見えるところへ立つ。それもマルタに教わったことだった。


 リディアは顔を上げなかった。それでも今朝は、自分で靴に足を入れた。かかとを収め、靴の舌を指で押さえたところで手が止まる。ロランは足元にしゃがんで紐を結んだ。


 以前は靴を見せても、足先ひとつ動かせなかった。それを彼女自身が覚えているかどうかは分からない。


 ロランは隣の椅子へ腰を下ろし、朝食の皿を取った。今日は柔らかく煮た豆と、果物を刻んだものがある。


「今日は、こちらから食べましょうか」


 匙を手に置くと、リディアの指が閉じる。以前なら、そこから先はロランが手を支えなければならなかった。今は、待っていると一口だけ自分で運べる日がある。


 今日はできなかった。


 ロランはしばらく待ち、手を添えた。


 それでいいと、今は思える。


*


 脚が戻ってから、ロランは走る練習を始めていた。


 最初は歩幅が合わず、庭の隅で何度も転んだ。身体は脚を失った頃の歩き方を覚えていて、新しい脚を出すのが少し遅れる。医師に無理をしないよう言われ、短い距離から始めた。


 その日の午後、庭の端から端まで、初めて転ばずに走れた。


 速くはない。若い頃のように石段を駆け上がることも、まだできない。


 それでも走れた。


 戻ってきた足の裏が地面を蹴るたび、数年前の戦場と、国境から続く街道が遠ざかっていくようだった。


 庭の入口にリディアが座っている。介助の担当者が日なたへ椅子を運んでくれたのだ。ロランは彼女の前へ戻った。


「聖女様……走れました」


 リディアは何も言わない。


「ずっと、できないと思っていたんです」


 それ以上は続けなかった。


 彼女があの薬を飲まなければ、自分の脚は戻らなかったかもしれない。そのことを考える日は、まだある。


 感謝だけでは片づかなかった。彼女が失ったものと、自分が得たものを、釣り合わせることはできない。


 ロランは椅子のそばにしゃがみ、彼女の手が冷えていないか確かめた。


 夕方には、取り込んだ白いシーツを二人で畳んだ。リディアが反対側の端を持つまで、ロランは何もせずに待つ。角がずれても急かさない。少しずつ布が重なり、ようやく一枚を畳み終えた。

 ロランが畳んだ布を籠に置くと、リディアは自分の指先を見ていた。今日は、頼まれたことを一つ最後までできた。


*


 小さな変化は、いつも予告なく現れた。ある日、ロランが部屋を出ようとすると、背中で布の擦れる音がした。振り返ると、リディアが彼の袖の端を握っていた。


 偶然引っかかったのかと思った。ロランは動かず、彼女の顔を見た。


「どうしました?」


 返事はない。


 ロランが椅子へ戻ると、指がゆっくり離れた。


 それだけのことだった。


 次の日も同じことが起きるとは限らない。ロランは記録帳に、袖をつかんだ時刻と、その前に何をしていたかを書き留めた。マルタは帳面を見て、短くうなずいた。


「急いで意味を決めつけないで、続けて見ていきましょう」

「はい」


 できることが増えた日も、増えなかった日も、朝は来た。ロランは水を汲み、食事を用意し、名を告げた。リディアが戸口を見るときは、同じ場所に立った。


 今の彼女が、どれほどのことを分かっているのか。


 分からないままでも、一緒に暮らすことはできた。


*


 秋の朝、庭の葉が黄色く染まり始めていた。ロランはいつもより早く部屋へ入った。朝の当番が変わり、食事の時間まで少し余裕がある。


 リディアは起きていた。


 窓ではなく、扉の方を見ている。


 ロランは足を止めた。昨夜、明日の朝も来ると声をかけた。その言葉を覚えていたのかもしれないし、たまたまこちらを見ていただけかもしれない。


「聖女様。おはようございます」


 彼は椅子を引いた。


 いつものように名乗ろうとした、そのとき。


 リディアの唇が動いた。


 ロランは声を止めた。


「……ろ……」


 ただの息だと思った。これまでにも、意味を結ばない声を何度も聞いている。


 けれど、リディアは彼を見ていた。


 視線が、彼の顔から離れない。


「……ラン」


 ロランの手が、椅子の背からすべり落ちた。


 リディアが小さく息を吸う。


「……ロラン」


 彼は返事ができなかった。


 彼女の目が、音のないままもう一度彼を探す。ロランが膝をつくと、その目も少し下がった。


 今ここにいる自分へ向けて、呼んだのだ。


「……はい」


 やっと声が出た。


「ここにいます」


 ロランは彼女の手に触れた。指はすぐには動かなかったが、しばらくして、彼の指を一本だけ握り返した。


 会話ができるようになったわけではない。明日も同じように呼べるかどうかさえ、分からない。食事の介助も、休息も、これからずっと必要かもしれなかった。


 それでも、もう一度名前を聞こうとは思わなかった。


「……もう、戦わなくていいんです」


 リディアは彼を見ていた。


 あの北門で、ロランは彼女の笑い声が怖かった。


 今、目の前にいる人が一つの名前を呼んだだけで、彼はうまく息ができなかった。


 握られた指をほどかず、ロランはそのまま傍に座っていた。


 もう、誰かを守るために、自分を壊す必要はない。


 失ったものがすべて戻らなくても、リディアにはこれからの人生がある。


 そして、その人生を一緒に歩いていく人が、ここにいた。


お読みいただき、ありがとうございました。

これにて本編は完結です。

この後、リディアの視点で描いた番外編を3話公開します。

最後までお付き合いいただけましたら幸いです。

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