第8話_守らなくてもいい場所
南の医療大国、レイダル。戦で傷ついた兵士を受け入れ、長く療養するための施設がある国だと、ロランは以前から聞いていた。
だが、どんな傷でも治せるわけではない。それでも、ほかに頼れる場所はなかった。
国境を越えたその日、ロランは街道沿いの療養施設の前で馬車を止めた。
入口には、杖をついた男がいた。付き添いの女性がその隣に立ち、男が一歩進むたびに足を止めて待っている。
ロランはしばらくその姿を見ていた。
リディアにも、ここでできることがあるだろうか。
「聖女様。着きました。ここで診てもらいましょう」
返事はない。
ロランはリディアを支えて荷台から降ろし、受付へ向かった。
「患者さんのお名前は?」
「リディアです」
「ご本人から、今の状態をお聞きできますか」
机の向こうの女性がリディアへ顔を向ける。リディアは窓の外を見たまま、口を開かない。
「……できません。俺が説明します」
ロランは旅の間に何度も練習したはずの言葉を、一つずつ口にした。
長い戦争。禁忌薬。何十本もの服用。戦いが終わった後、食事を始めることも、言葉に応えることも難しくなったこと。
野盗に襲われて、一度だけまた薬を飲んでしまったこと。
そのあと彼女の治癒術で、ロラン自身の失った脚が戻ったこと。
すべて話し終える前に、喉が痛くなった。
受付の女性は途中で一度も遮らなかった。最後に、椅子を二つ持ってきてくれた。
「まずお二人とも座ってください。診察を受けられるように手配します」
「……料金は」
「戦傷者を受け入れるための施設です。診察の後で、払える分を相談しましょう。今、全部決めなくて大丈夫です」
ロランはその言葉を聞いて、ようやく荷物を床へ下ろした。
*
診察を担当した医師は、マルタという年配の女性だった。
リディアの身体に外傷がないことを確かめてから、短い言葉で呼びかける。視線が動くまで待ち、腕へ触れるときは先に知らせた。
「こちらを見てください。……急がなくていいですよ」
リディアの目は動かなかった。
マルタは無理に顔を向けさせず、記録へ何か書き込んだ。
「リディアさんには、身体を動かす力が残っています。ただ、声を出そうとしても言葉にならず、手足を動かし始めるまでに時間がかかる。その原因は、まだ調べなければ分かりません」
「でも、治癒術なら……。聖女様は、俺の失った脚を戻してくださったんです」
マルタはロランの脚へ目を落とした。
「ええ。失われた脚が再生したのは確かです。ですが、リディアさんの身体には、同じように塞げる傷が見当たりません」
「……それでは、治らないということですか」
「いいえ。今はまだ分からない、ということです。身体が元に戻っても、言葉や動作を生み出す働きまで戻るとは限りません。まずは何ができて、何が難しいのか、一つずつ確かめていきましょう」
ロランは黙ってうなずいた。
最後に、ロランは肌着の内側に縫い留めていた糸を切り、腰袋から小瓶を取り出した。封を切っていない最後の一本だった。
「これが、飲んでいた薬です。王立錬金術院で造られて、神殿に封じられていました。成分を調べていただけませんか」
マルタの顔がわずかに変わった。
「お預かりします。ただし、どこまで分かるかは約束できません。もう、ご本人の手の届かない場所に置きましょう」
「はい」
「あなたも、無理に飲ませようとはしないでください」
ロランは思わず顔を上げた。
「そんなつもりはありません!」
「そうでしょうね。それでも、治るかもしれないと思ったときに人がどんなことをするか、私たちは知っています」
マルタは小瓶を布で包み、鍵のかかる箱へ収めた。
「この方がまた飲まずに済むように。まず、そこから始めましょう」
リディアの治療に伴い、ロランにも、付き添いの者が使う小さな部屋を用意してもらえた。
そこを寝床にし、日中はリディアの部屋で過ごすことになった。
*
療養施設での暮らしは、驚くほど静かだった。
朝になると、食事が決まった時間に届く。洗った布が用意され、夜には灯りが落とされる。夜間も医師や介助の担当者が様子を見に来てくれた。
ロランは初め、その静けさに慣れなかった。
誰も剣を持っていない。城門の鐘も鳴らない。なのに、廊下で足音が止まるたびに身体が強張る。
自分の脚も、まだぎこちなかった。戻った足で速く歩こうとすると、思っていた場所へ体重を移せず、壁へ肩をぶつけることがある。以前のように走れるかどうか、今は分からない。
「あなたも休養が必要です」
そう言われても、何もしていないと落ち着かない。
結局ロランは、使い終わった食器を下げたり、馬の世話を手伝ったりするようになった。施設側も、療養を妨げない範囲で任せてくれた。
リディアには、いくつかの小さな変化があった。
ある昼、ロランが食事の匙を口元へ運ぼうとすると、膝の上にあったリディアの指が持ち上がった。匙の柄に触れたまま、一度は止まる。ロランが手を離さずに待つと、その指が少しずつ力を増し、二人で一口を運んだ。
こぼさず飲み込めたあとも、彼女は匙を見つめていた。
窓際に座ると、朝の光の方へ顔を向ける日がある。手に温かい布を当てると、少し遅れて指を閉じることがある。
できた翌日に、できなくなることもあった。
ロランは最初、そのたびに落ち込んだ。マルタは、できたことだけを急いで積み上げないようにと言った。
「今日はできなかった、で終わる日があってもいいんですよ」
ロランには、その言葉をすぐには飲み込めなかった。
*
二か月ほど経った頃、ロランは薬の検査について尋ねた。
マルタが持ってきた記録には、聞き慣れない成分名や術式の反応が並んでいたが、分かったことは多くないという。
「この薬には、身体を無理に動かし続けさせるだけでなく、消耗した魔力を補う作用もあるようです。ただ、繰り返し飲むことで、自力で魔力を回復させる働きが損なわれるおそれがあります」
「聖女様は、もともと魔力が多かったはずです。それでも……?」
「多くの魔力を蓄えられることと、使った分が戻ることは別です。今のリディアさんは、その回復がとても遅いようです」
ロランは、王宮の回廊で少女の膝を癒やしたときの、リディアの汗を思い出した。
「自分の傷は治るのに、他の人を治す力は残っていないんですか」
「ご自身を治す術は、少ない魔力でも働いているようです。他の人の身体にまで同じように使えるわけではありません。失った脚を戻すとなれば、なおさらです」
「……だから、あの時」
ロランは新しい脚を見た。
「前日の薬で補われた魔力が残っていた可能性はあります。ただし、また飲ませればいい、とは考えないでください。魔力が補われても、言葉や動作の障害が治るわけではありません。さらに害を重ねる危険があります」
彼は記録を見つめたまま、しばらく返事ができなかった。
「あの薬を、一度でもまた飲ませずに済んだら……」
言いかけてやめた。
飲ませたのではない。あの日、自分が守り切れず、彼女が手に取ったのだ。
「……もう、同じことは起こしたくありません」
「ええ。今は、そのためにここにいるんです」
*
北から届く話は断片的で、王都の様子を確かめることができなかった。陥落したと知ったのは、それから数日後だった。
北から逃れ、長い道のりを経た人々が療養施設にも到着した。崩れた門、夜の火災、南の道を歩き続けた話。家族を失った者も、生き別れた者もいる。
ロランは仕事を手伝いながら、何度も故郷の名前を聞いた。
ある日、若い守衛が弟と一緒に避難の列を率いていたという話を耳にした。
「……トーマか」
無事かどうか、確かめる術はなかった。それでも、どこかで彼が生きていてほしいと思った。
リディアの部屋へ戻ると、彼女は窓の方へ顔を向けていた。
「聖女様。北から、たくさんの人が来ています」
椅子のそばにしゃがむ。
「逃げてこられた人もいます。あなたが守った人たちです」
その唇がかすかに動いた。
「……みんな……まもら、なきゃ……」
ロランはすぐには答えられなかった。
「……もう、いいんですよ……」
リディアの目が、窓の外を通り過ぎる。
「ここでは、誰かが助けに来てくれます。あなた一人で守らなくても」
言葉が届いているか、分からない。それでもロランは、同じことを明日も伝えようと思った。
*
春先、開いた窓から黄色い花びらが一枚入り、床に落ちた。リディアはしばらくそれを見ていたが、「守らなきゃ」と繰り返すことなく、手を伸ばしてそっと拾った。
ロランは声をかけず、花びらが指先に残るのを見守った。
*
ある午後、ロランは医師に呼ばれて部屋を離れた。
戻ってくると、リディアは椅子の上で身じろぎしていた。介助の担当者がそばで声をかけている。
「大丈夫ですよ。すぐ戻られます」
リディアは担当者の袖をつかみ、なかなか離さなかったという。
ロランが戸口から声をかけた。
「聖女様。ロランです」
リディアの手が止まった。
それから、ゆっくりと顔が動く。
彼のいる方へ。
ただ音がした方を向いただけなのかもしれない。顔を向ける途中で偶然止まったのかもしれない。
ロランはそう考えながら、いつもの椅子を引き寄せた。
彼が腰を下ろすまで、リディアの顔は戸口の方を向いたままだった。




