第7話_聖女を捨てた王都
リディアが国境の石標を越えてから、ひと月が過ぎていた。王都の王宮では、摂政である王太子アルベルトが主催する晩秋の夜会が、連日のように開かれていた。
宰相ヴェールナーを「老耄による職務怠慢」として屋敷に謹慎させて以来、アルベルトの言葉に逆らう重臣は一人もいなくなった。
「殿下、ご覧くださいませ。近衛兵の方の剣の稽古でできた切り傷も、私の治癒術ならこの通り、跡形もなく塞がりますわ」
王宮の中庭で、淡い桃色の髪を揺らしたミレーヌが、若い近衛騎士の腕に手をかざして誇らしげに微笑んだ。浅い擦り傷が淡い光の中で塞がると、周囲の貴族たちから拍手が起こる。
バルコニーからそれを見下ろしていたアルベルトは、満足げに酒杯を傾けた。
「見事だ、ミレーヌ。やはり平民上がりのリディアなどいなくとも、お前がいれば王都の癒やしは万全だな」
隣国へ求めた食料と守備兵については、街道の荒廃で到着が数日先になるとの返事が届いていた。
バルコニーの控えの間には、北門の守備隊長から届いた三通の至急報が、封も切られず銀盆の上へ放置されていた。
一通目は、北門第3支柱の裏側で、先の大戦による亀裂が広がっているとの報告だった。石工の派遣と修繕予算を求めている。
二通目には、北方山脈の麓で黒顎狼と甲殻獣が再集結しているとあった。斥候の報告によれば、春の群れを上回る規模だという。
三通目は、北門外縁の農村と北街区の住民を、あらかじめ避難させるよう求めるものだった。
侍従が銀盆を差し出した。
「北門の修繕費と、北街区の避難許可を求める至急報です」
アルベルトは封を切らず、手で払った。
「北門の連中は、ヴェールナーと同じで脅し文句ばかり並べる。春の戦いで魔物の主力は我が軍が討ち払ったはずだ。今さら修繕費をせびり、避難騒ぎを起こして私の摂政祝賀の席に泥を塗る気か。すべて却下しろ」
侍従が銀盆を下げようとすると、アルベルトは呼び止めた。
「ヴェールナーを連れてこい。あの男が北門の連中に何を吹き込んだのか、説明させる。北門の記録も持たせろ」
*
日が落ちる前、宰相ヴェールナーは近衛兵に伴われて王宮へ戻ってきた。腕には、角の擦り切れた帳簿を抱えている。アルベルトは執務机の向こうから、礼をする老宰相を見下ろした。
「お前を謹慎させてから、北門の連中は予算だ避難だと騒ぐばかりだ。あの戦いでは四か月も持ちこたえたではないか。今さら何を恐れる」
「殿下。あのとき、門の外で魔物を食い止めていたのは、王国軍ではございません」
「何を言っている」
「聖女リディア様です」
ヴェールナーは帳簿を机に置き、印を挟んでいた頁を開いた。北門の検印がある。軍が退いた後、門外へ迎撃に出た者の欄には、同じ名が続いていた。
リディア。翌日も、その翌日も。
アルベルトは二枚まとめてめくった。そこにも同じ名がある。
「馬鹿を言うな。あの女は、天幕で怠けていたはずだ」
「腕を失っても、腹を裂かれても、あの方は戦い続けました。ほかにあの群れを止められる者がいなかったのです」
「では、錬金術院の強化薬はどうした。兵に使わせたのではないのか」
宰相が薬の使用記録を開き、戦闘記録の横へ置いた。日付は重なり、こちらにもリディアの名が並ぶ。
「殿下が使用を罪に問われた、あの禁忌薬です。兵に配られたのではありません。リディア様がお一人で、何か月も飲み続けたのです」
頁をめくっていた指が止まる。
アルベルトは二冊の帳簿を見比べ、やがて顔を上げた。
「……では、なぜ私に知らせなかった!」
「追放を宣告された夜、この記録をお見せしようといたしました」
ヴェールナーは、差し出した帳簿から手を離した。
「殿下は私の言葉を遮り、屋敷での謹慎を命じられました」
アルベルトの口が動いたが、声は出なかった。あの夜も、この北門の印を見た。床へ落ちた紙の端に。
彼は帳簿を閉じ、宰相の方へ押し返した。
「お前がそう書かせたのだろう。あの女を庇うために!」
「北門の守備隊へお尋ねください」
「もうよい! 私にはミレーヌがいる。あの女がいなくとも――」
「ミレーヌ様の治癒で、魔物を門の外に留められるのですか」
廊下の向こうでは、今夜の宴に使う食器が触れ合っていた。
アルベルトは椅子を蹴るように立ち上がった。
「黙れ。魔物は我が軍が討ち払ったのだ!」
ヴェールナーは目を伏せなかった。
「では、せめて住民を逃がすお許しを。門が破られてからでは――」
「近衛! この男を屋敷へ戻せ!」
近衛兵が宰相の両脇へ立った。ヴェールナーは机に残した記録へ一度目を向け、促されるまま扉へ向かう。
扉が閉まると、アルベルトは酒杯を取った。二冊の帳簿には、もう触れなかった。
*
その日の深夜、北の空を不気味な地鳴りが震わせた。王都の北門から、非常を告げる早鐘が乱打される。
アルベルトが夜着の上に豪奢な鎧を着込み、ミレーヌを伴って北門を見下ろす内城壁の監視塔へ上がったときには、すでに眼下の光景は地獄に変わっていた。
松明の火が揺れる北門の外側に、闇そのものがうねるように何百、何千という魔物の群れが押し寄せていたのだ。
「な、なんだあれは……! なぜあんな数の魔物が国境を抜けてきた!?」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
「南方演習場の第1騎士団に急使を出せ! 今すぐ北門へ回れと命じろ!」
「で、殿下、第1騎士団は殿下のご命令で南領の閲兵式へ出立しており、早馬で呼び戻しても三日はかかります……!」
軍務官の報告を、轟音がかき消した。
修繕を放置されていた北門の第3支柱が、数十体の大型甲殻獣の体当たりを受けて根元から崩落したのだ。分厚い石の防壁が砂山のように崩れ落ち、開いた大穴から黒顎狼の群れが濁流となって北街区へと雪崩れ込んだ。
「ミレーヌ! 救護所へ行け、負傷兵を治せ!」
近衛兵に促され、彼女は監視塔の階段を下りた。
アルベルトは崩れた門を見つめていた。この塔へ上がってから、まだいくらも経っていない。
四か月。同じ場所を、あの女は四か月守った。
机の上で閉じた帳簿の頁が浮かぶ。何枚めくっても、そこにあった名前。
「……リディアを呼べ」
軍務官が振り返った。
「リディアを連れてこい! あの女なら、止められるのだろう!」
「殿下、ひと月前に南の国境へ追放されております!」
「知っている! 呼び戻せと言っているのだ!」
「今どちらにおられるかも分かりません。今夜のうちにお連れするなど……!」
アルベルトは口を開いた。命令を繰り返そうとして、息だけが漏れた。
あの女を追い出すために、自分で護送隊を組ませた。二度と戻すなと、命じた。
胸壁に手をつく。鎧の下で膝が震え、石にすがらなければ立っていられなかった。
「……あの女さえいれば……」
声は、すぐ下で上がった悲鳴に紛れた。
*
監視塔の下、内門の救護所では、次々と重傷の兵士が担ぎ込まれていた。
アルベルトもまた、伝令に急き立てられるようにして救護所まで下りてきていた。
腹を裂かれた兵士、腕を折られた守衛兵。ミレーヌは震える手で二人、三人の傷口に治癒の魔力を注いだが、額から冷や汗が噴き出し、魔力が底をつき、激しいめまいに襲われてその場にへたり込んだ。
「む、無理ですわ……! もう治せません……! 殿下、私の治癒があれば聖女の代わりになると仰ったではありませんか!」
アルベルトはミレーヌの訴えに答えず、救護所を出て監視塔へ戻った。
彼女の前に、また担架が置かれた。
塔の階段を、伝令が駆け上がった。
「ミレーヌ様は、もう治癒を続けられません! 守備隊長より、南門と東門を開き、住民を逃がす許可を求めております!」
「北街区など構うな! 王宮の門を閉じろ! この王宮だけを守れ!」
近衛の一人が剣を下ろした。隣の兵も、王太子の顔から燃える北街区へ目を戻す。
伝令は立ち上がり、階段を駆け下りた。
塔の下では、守備隊長が負傷兵に肩を貸し、救護所へ運んでいた。トーマが駆け寄って反対側を支える。鎧は煤で汚れ、額から流れた血が頬に乾いていた。
伝令から王太子の命令を聞くと、隊長は負傷兵を下ろし、立ち上がった。
「……王宮だけ、だと?」
北街区から逃げてくる人々が、道にあふれていた。トーマは槍を握り直す。
「隊長、南門へ行かせてください!」
「行け。東門にも兵を回す。住民の避難を優先しろ! 王宮へは戻るな!」
トーマは人々を南へ誘導しながら走り出した。守備隊長も兵を呼び集め、逃げ遅れた住民のいる北街区へ向かう。
監視塔では、近衛兵が一人、王太子の前から離れた。
「おい、どこへ行く!」
「門を開けに参ります」
兵は一礼すると、返事を待たず階段へ向かった。その後を、近衛の半数が追った。
「ま、待て! 貴様ら、反逆か! 私を置いてどこへ行く、戻れ、戻れえええっ!」
足音は止まらなかった。
救護所では、ミレーヌもまた、恐ろしさに顔を覆って王宮へ続く夜の回廊へと逃げ出していた。
その夜、王都の北街区と外城は魔物の群れに襲われ、逃げ遅れた多くの人々が犠牲となった。
それでも、守備隊と近衛兵が王太子の命に背いて南門と東門を開放し、多くの住民が燃える王都から夜の街道へと脱出した。
監視塔の上で、アルベルトは胸壁にすがったまま、扉の方へ顔を向けた。足音がするたびに顔を上げ、そこにリディアがいないことを確かめていた。
そのうち、誰も上がってこなくなった。
「……リディア」
名を呼んでも、階段の下から返事はなかった。




