第6話_治せなかった足
朝になっても、ロランは荷車を出せなかった。
薪置き場の軒先から、昨夜降った雨がぽたりぽたりと落ちる。少し先の街道には野盗の置いた倒木が横たわったままだ。街道へ戻っても、倒木が残ったままでは先へ進めない。幹をどかすにも、馬車が通れる迂回路を探すにも、まず地面に降りて動けなければならなかった。
折れた義足を膝の上に置く。木の芯は二つに割れ、金具も曲がっている。先端に履かせた革靴だけは破れていない。布と細い板を当ててみたものの、立って一歩進んだ途端、また外れた。
「……駄目か」
ロランは道具を置いた。昨夜からほとんど眠っておらず、短剣を握り締めていた右腕も、朝になってなお強張っていた。
毛布を動かす音がして、荷台のリディアが上体を起こしている。片方の袖には、血を拭いた跡が薄く残っていた。
「おはようございます、聖女様」
返事はない。
「水を用意します。……少しだけ、待っていてください」
地面へ降りようとして、ロランは腰を下ろし直した。脚の残った部分が痛む。巻き替えるつもりで布を緩めると、革帯に擦られた皮膚が裂けていた。深い傷ではない。だが、しばらく義足を当てられそうもなかった。
ロランは昨夜リディアに水を飲ませたあと、荷台に置いたままの水筒を拾い、荷車の縁に置いて栓を抜いた。
「聖女様。こっちへ来られますか」
リディアは動かなかった。ロランが手を差し出すと、しばらくして指先が触れる。彼女が少しずつ荷台の縁へ身を寄せたところで、ロランはその手を引き、隣に腰を下ろすよう促した。
これほど近くで義足を外しているところを見せたことはなかった。
*
彼女が、ロランの脚を見ていた。
視線が合ったわけではない。何かの拍子に目が下がり、血のついた布で止まっただけかもしれない。
「大丈夫です。擦っただけですから」
口に出してから、ロランは昨日の光景を思い出した。
あのときも、彼女に危険はないと言おうとしていた。荷台に待たせておけば、きっと守れると。それでも荷台を守り切れず、義足も折れた。
リディアが手を伸ばした。
「聖女様、汚れますよ」
細い指が、包帯の端に触れた。ロランは止めようとして、そのまま手を下ろした。
彼女は傷を押さえつけたり、傷口をなぞったりはしなかった。指を置いたまま、動かない。
ロランの脚から、痛みが引いていく。
「……え?」
皮膚の上に、かすかな光が滲んだ。リディアの治癒術だ。ロランは何度も見たことがある。かつて軍の治療所でも、似た光を浴びた。
裂けた皮膚が閉じる。
王宮の回廊で少女の膝を癒やしたとき、彼女は小さな傷ひとつで息を乱していた。
それで終わりだと思った。
だが、リディアの手は離れない。光は、むしろ強くなった。
切断された先に、熱がある。
最初、包帯の下へ小さな虫が潜り込んだのかと思った。そんなはずはない。そこにはもう、何年も何もなかったのだから。
布が押し上げられる。薄い白さが覗き、ゆっくりと形を取った。
「……待って、ください」
リディアは動かない。
かつて自分の脚があった場所で、何かが伸びている。皮膚が、骨が、今までなかった重さが、戻ってくる。
ロランは息を止めた。
数年前、野戦治療所で治癒師に言われた。傷は閉じられる。命は助かる。だが、ここでは失った脚を戻すことはできない、と。
失った手足を戻す術は、リディアほどの魔力があっても、術者が倒れかねないと聞いていた。王侯貴族が求めても神殿は厳しく制止し、めったに行われない治療だった。
それなのに。
見慣れた切断痕が消え、そこから先へ脚の輪郭が伸びていく。踵ができ、足の甲が形を取り、最後に指先が開いた。
ロランは自分の足を見つめた。
義足はすぐ隣に転がっている。折れた木と革。昨日まで、その中に脚の残りを差し込んで歩いていた。
今、そこには何も入っていない。
彼がそっと足指を曲げると、五本ともわずかに動いた。
「……ああ」
光が消えた。
リディアの身体が、ゆっくりと横へ傾く。
ロランは慌てて彼女を受け止めた。さっきまで脚を見ていたことも忘れて、毛布の上に寝かせる。呼吸はある。呼びかけても目を開かず、まぶたの下で眼球がわずかに動くだけだった。
「聖女様。聖女様……」
もう一度名前を呼びかけて、口をつぐむ。
昨日、血まみれの彼女を抱きしめたばかりだ。あの笑い声がやっと止み、彼女が静かになったことに、どれほど安堵したか。
ロランはリディアの額へ手を当てた。熱はない。けれど呼びかけには応えず、眠り続けている。
毛布から落ちかけた彼女の手を、そっと戻す。昨日、噛み割った小瓶を握っていた手だ。今朝は、その同じ指がロランの脚を戻した。
腰袋に触れると、固い小瓶の形が指へ当たった。もう一本。これを医師に見せるまでは、壊すことも捨てることもできない。
ロランは腰袋の紐を締め直し、リディアの手が届かない位置へ結び目を隠した。それでも昨日のことが頭から離れない。裁縫道具を出し、腰袋をそのまま肌着の内側へ縫い留めた。次に中身を取り出すときには糸を切るしかない。
*
日が高くなった頃、ロランは折れた義足から革靴を外した。留め具をほどき、靴の内側に残っていた木屑を払う。昨夜まで義足に履かせていた靴を、新しく戻った足へ通してみた。少し窮屈だが、履けないほどではない。
荷車の縁につかまり、両足を地面に下ろす。それだけで身体が傾く。長く義足で歩いてきたせいか、戻った足へどう体重を移していいのか分からない。荷車の板へ手をつき、もう一度やり直した。
靴底が、湿った土を踏む。
痛くない。
思わず笑いそうになって、ロランは顔を伏せた。
走れるようになったわけではない。立つだけでこれほどぎこちないのだ。けれど、もう折れた支柱を直す必要はなかった。
荷台から小さな物音がする。リディアが目を開けていた。ロランはすぐに隣へ戻り、水筒を手に取る。
「聖女様。お水です。少しずつ飲みましょう」
彼女は器に指を掛けたが、口へは運ばなかった。ロランはその手を支えて、水を飲ませた。
昨日と同じ。いや、戦争が終わってから、ずっと同じだった。
彼は何年も前に失った脚を取り戻した。けれど、リディアの言葉は戻ってこない。
「……ありがとうございます」
返事はなかった。
ロランは隣へ座り、折れた義足を手に取る。木の芯は、もう二度と元の形にはならない。
これがなければ歩けないと思っていた。
今朝まで、そうだった。
彼は義足を荷物の奥へしまい、もう一度リディアの毛布を掛け直した。街道に戻るのは、明日にしよう。
今日だけは彼女が眠れるよう、手綱を取らずにそばにいることにした。




