第5話_もう一度、笑った
翌朝、ロランはリディアを幌馬車に乗せて宿場を発ち、南への街道を再び進む。
街道を塞ぐ倒木を見つけ、ロランは手綱を引いた。街道の両側は明るい雑木林だが、切り落とされた枝が荷馬車の車輪を通さない。幹の断面は白く、木屑もまだ乾いていなかった。
「聖女様、少しお待ちください」
幌の中から返事はない。古馬を下がらせようとしたところで、背後から男の声が飛んだ。
「おい!降りろ!」
振り向けば、道の両脇に男が二人。痩せた方は先端に鉤のついた長棒を持ち、もう一人は縄を肩に掛けている。
前方の倒木からは斧を提げた大男が姿を現した。これで三人。さらに右手の林の木陰に、弩を構えた四人目の影が見える。
見えているだけで四人。ほかにも隠れているかもしれない。
「荷を置いていけ。馬もだ」
「断る。道を開けろ。俺はここを通りたいだけだ」
大男が荷台の脇へ回り込んだ。
「荷台に近づくな!」
ロランが御者台から腰を浮かせた瞬間、右手の木陰で弩が動いた。狙いはロランに向いている。
動きを止めたわずかな隙に、大男が幌をめくった。中のリディアを見るなり、顎をしゃくる。
「へえ、上玉じゃねえか。売り飛ばす前に楽しめそうだな」
縄の男が御者台へ手をかける。
ロランはその手首をつかみ、男の身体を盾にして御者台を降りた。荷車の車輪へ押しつけ、相手が身をひねったところへ肩を入れて足元を払う。縄の男は車軸に背中を打ちつけ、息を詰まらせた。
「その人に触るな!」
私物の短剣を抜く。国境で返した守衛の剣と違って間合いは短いが、この狭い場所なら使える。
鉤棒の男が横から突いてきた。ロランは半歩だけ踏み込み、鉤の外側へ身体をずらす。棒の先が幌の柱に引っかかった隙に、短剣を男の手首へ走らせた。
「いっ……!」
男が手を引く。そのまま追えば、大男の斧が来る。ロランは車輪を背にして構えを戻し、今度は大男の振り下ろす斧を荷台の角へ誘った。刃が木を噛む。大男が引き抜く前に肘を打つと、斧が地面へ落ちた。
「こいつ、ただの素人じゃねえ!」
大男が後ずさり、林の中から弩の矢が飛んできた。ロランがリディアのいる幌側へ身を寄せた直後、矢は御者台の柱へ突き刺さる。射手に顔を出せば、次は胸を射抜かれるだろう。
倒木を背にした一人、後ろに二人、右に射手。狭い道を使って一人ずつ退けることはできる。だが、その間にリディアを荷台から奪われたら終わりだ。
踏み直した拍子にズボンの裾がめくれ、義足の木の部分がのぞいた。
縄の男が立ち直り、再び幌へ手を伸ばした。
「やめろ!後ろへ下がれ!」
ロランが男の襟をつかんで引き落とす。ところが、その一瞬を待っていたらしい。鉤棒の男が、武器を低く構え直した。
「その脚、木でできてるな」
鉤が義足の支柱に絡む。ロランは棒の柄を短剣で押さえ、引き倒される前に身を寄せたが、男は腰を落として思い切り引いた。
ばきっ。
木の芯に裂け目が走り、義足の足首が外側へねじれる。受け口の革が残った脚を締めつけた。痛みに重心を崩したロランの脇腹へ、大男の肘が入る。
ロランは息を吐き、短剣で大男を遠ざけた。さっき斧を落とさせた腕を狙うと、相手は慌てて退く。まだ戦える。だが壊れかけた義足では、同じ踏み込みをもう一度はできなかった。
その間に、縄の男が荷台へ上がっていた。
「大人しくしろよ」
リディアの腕を強引に引くが、彼女はすぐには立ち上がれず倒れかかり、男が苛立った。
「……みんな……まもら、なきゃ……」
かすれた声が幌の下から漏れた。いつもの言葉だ。ロランが名を呼びかけるより早く、縄の男が彼女を荷台へ押し戻す。
「何をぶつぶつ言ってやがる!」
男は金目の物を探して食料袋を脇へ蹴り、続けて背嚢の口をほどいた。底から布包みを引きずり出し、結び目を解く。
硝子が転がる音がした。
ロランの背筋が強張る。国境でトーマが託してくれた、未開封の禁忌薬が二本。医療大国で医師に調べてもらうため、奥へしまっていたものだ。
一本は包みの中に残ったが、もう一本がリディアの目の前へ転がる。
「聖女様、その瓶は――」
彼女の指が伸びる。
食事の匙を口へ運ぶことさえ難しい手が、迷うことなく小瓶を持ち上げた。栓をひねる指の動き。外れないと分かるより先に、瓶を歯へ運ぶ仕草。
何十回と戦場で見た。
「やめてください!」
硝子が小さく割れ、黒い液が唇を伝い、喉が動く。空になった瓶が、荷台の板を跳ねて落ちた。
*
縄の男が幌をはね上げ、外へ勢いよく吹き飛ばされた。
「ぐあっ!」
地面を転がった男は、曲がった手首を抱えたまま林へ逃げる。リディアが荷台から降りてきた。男に引かれても進まなかった足が、泥を踏み割るほど強く動いている。
口元には、砕いた瓶で切った細い傷。傷口が閉じる前に、喉の奥から音が漏れた。
「……か、はっ……」
大男が地面の斧を拾い直す。
「来るんじゃねえ!」
リディアは大きく笑った。
「……ぁは、きゃははははっ!」
振り下ろされた斧を避けもしない。肩へ食い込んだ刃をそのままに、リディアは柄を握る腕をつかんだ。大男が斧を引こうとしても動かない。腕をねじられ、身体が浮く。
男が苦鳴を上げると、彼女の笑いがひときわ高くなった。
次に聞こえたのは、濡れた枝を裂くような音。
大男の片腕が肩から離れた音だった。
男は痛みに膝を折ったが、リディアは逃がさない。襟首をつかみ、倒木へ叩きつける。ぐちゃりと音を立て、男はそのまま動かなくなった。
ロランは短剣を構えたまま立ち尽くした。北門の石畳に広がった血の臭いが、急に近くなる。
大男がやられるのを見た鉤棒の男が武器を捨て、林へ逃げ込む。リディアが瞬時に追いかける。男が茂みを抜けるより先に肩をつかみ、手刀を打ち込む。鉤を握っていた腕が折れ曲がり、悲鳴が上がった。
彼女は男を地面に投げつけた。枝の折れる音が続き、それきり声がしない。
弩が鳴る。
矢はリディアの胸へ刺さった。だが、彼女が一歩進む間に矢羽が揺れ、傷口から押し出されて泥へ落ちる。射手は次の矢を手にしたまま動けなかった。
「ひっ……来るな……!」
弩を取り落とし、倒木を越えようとして転ぶ。リディアは背後から襟をつかみ、男を仰向けにした。押さえつけられた腕が泥を掻く。
「聖女様、もういい! 離れてください!」
彼女には届かない。笑い声が、ふっと低くなる。壊れた義足を引きずりながら、急いでリディアのもとへ向かうロラン。握る短剣の柄が、汗で滑る。
リディアが、男の首筋へ顔をゆっくりと近づけた。
射手は首を引こうとしたが、顎をつかまれ、喉がむき出しになった。彼女の口が開く。鼻先が肌へ触れそうな距離。
ロランは、雨の北門で見た光景を思い出した。魔物に顔を寄せた彼女の肩が、何度も小さく上下していた。あの日と同じだ。
「やめろっ!」
足が出た。割れた義足が沈み、立て直す間にリディアの顔がさらに下がる。男は声も出せず、喉を引きつらせていた。
その首は人間のものだ。魔物じゃない。
「リディア!」
ロランは短剣を投げ捨て、残った脚で地面を蹴った。
義足の芯が砕ける。支えを失い、身体が前へ投げ出された。倒れる勢いのまま、彼女と男の間へ肩をねじ込む。
開いた口が、すぐ目の前にあった。
「……それだけは、いけません……!」
リディアの顎が止まる。ロランは彼女を抱えたまま、空いた手で射手を突き放した。男は首を押さえたまま、四つん這いで茂みへ逃げていく。
追いかけようとしたリディアの足が、一歩だけ前へ出た。ロランの身体も引きずられる。
「頼む……やめてくれ……!」
腕に力を込める。振りほどかれたら終わりだ。頼りにしていた義足も、足元で二つに割れている。
しかし、次の一歩はなかった。リディアの指がロランの背に触れ、そこで止まる。
彼は顔を上げられなかった。
耳元で、まだ笑い声がする。その声を聞くたび手が震える。それでも、肩へ回した腕だけは緩めない。
「……すみません」
リディアの襟に、自分の手の血が移っていた。拭おうにも、腕が離せない。
喉の奥が詰まり、もう一度呼びかけることもできなかった。
リディアの手は、抱き返してこない。血のついた指が背に触れたまま、時折わずかに動く。
ロランはそのまま彼女を抱きしめていた。笑い声が途切れても、すぐには離れられなかった。
*
夕暮れ、倒木のそばで動かなくなった男が二人。ほかの二人は林へ逃げ、戻る気配もない。
ロランは投げ捨てた短剣を拾い、折れた義足を外して残った脚に布を巻いた。革の当たるところが擦り切れている。脇腹には鈍い痛みが残るが、出血はひどくなかった。
問題は移動だった。義足の支柱は折れ、ひとりではまともに立てない。ましてリディアを連れて街道を歩くことなど無理だ。
荷台の布包みには、未開封の瓶が一本残っていた。包み直して腰袋へしまう。医師に見せるためのものだが、リディアの近くには置けない。
ロランは車輪につかまって身体を起こし、リディアの手を荷台の縁へ導いた。彼女は促されてようやく膝を上げ、ゆっくりと荷台へ這い入った。
倒木の脇に、薪を運ぶ細い横道が続いていた。ロランも車輪と荷台の縁につかまり、腕の力で御者台へ這い上がった。古馬をゆっくり進ませる。二百歩ほど先に、使われていない薪置き場がある。そこなら街道からは見えない。
ロランは御者台から身体をずらして荷台へ移り、リディアを横にした。彼女は水筒を渡されても、口へ運ぼうとはしない。いつものように手を添え、少しずつ飲ませる。
血のついた袖を拭う指が、一度だけ止まった。あの笑い声が、まだ耳の奥に残っている。
「……おやすみなさい、聖女様」
折れた義足を荷台の隅へ置く。夜が更けても、ロランは眠れなかった。




