第4話_怪物が道を譲る
国境を越えて四日目の朝、ロランは幌の内側にできた水の筋を見つけた。
「……やっぱり漏れるか」
昨夜の雨が縫い目から入り、リディアの足元の毛布を濡らしている。売り主には聞いていたが、布を当てた場所とは別のところから染みてくるとは思わなかった。
「聖女様。少し、足を動かしますよ」
濡れた毛布を引き抜こうとしても、彼女は膝の下に敷いたまま動かない。ロランは先に荷台の乾いた場所を空け、それからリディアの前にしゃがんだ。
「右足を、こちらへ」
靴の先に手を添えると、少し遅れて足が動く。もう片方も同じように促して、ようやく毛布を取り出せた。冷たくなった布を荷台の外へ広げるまでに、ずいぶん手間がかかった。
「気づくのが遅くなりました。すみません」
ロランは少し間を置き、リディアの顔をのぞき込んだ。
「聖女様。ロランです。今日は森を抜けます」
しばらく待ったが、返事はない。ロランは幌のほころびに布を結びつけ、御者台へ上がった。
*
昼過ぎ、街道は深い森に入った。両側から枝が張り出し、道幅は馬車一台でいっぱいになる。濡れた轍を避けて進んでいると、古馬が急に耳を伏せた。手綱を引いても、足を踏み出さない。
ロランは前を見た。
道の向こうに、木々の間で黒い影が動いている。
すると魔物が姿を現した。狼に似ているが、背は荷車の車輪より高く、肩から刃のような骨が突き出している。左耳は途中から欠け、脇腹には古い傷が走っていた。
北門で見た魔物と、同じ種類だ。
一頭だけではない。木の陰から、少し小さな個体が続いてくる。
「……くそっ」
ロランは手綱を御者台の柱に回してから、馬の前へ出た。荷車を捨てて走るわけにはいかない。自分一人でも、この義足で二頭から逃げ切れるとは思えなかった。
腰の短剣を抜く。国境で貸与剣を返した今、手元にある刃物はこれ一本だけだ。突き出したところで、あの分厚い皮膚を貫けるかどうか。
大きい方の魔物が唸った。獣の爪が泥を掻き、間合いが一歩ずつ縮まる。馬が背後で暴れそうになり、荷車の軋む音がした。
ロランは短剣を握り直す。荷台のリディアを後ろへ下がらせたくても、声をかける余裕がない。
魔物がさらに近づいた。あと二、三歩で飛びかかれる距離だ。
ところが、その鼻先が急に持ち上がった。
獣はロランを見ていない。鼻を鳴らし、風を嗅ぐように頭を動かしている。その目が、ロランの肩越しに止まった。
幌の入口だった。
リディアは荷台の奥に座り、視線を膝へ落としていた。こちらの騒ぎに顔を向ける様子はない。
大きな魔物の喉が、ひくりと震えた。
さっきまで牙を剥いていた口が閉じる。背の毛が逆立ち、獣は片足を後ろへ引いた。古い傷のある脇腹が、浅く速い呼吸に合わせて動く。
ロランは短剣を下ろせなかった。
小さい方はまだ唸っている。横から回り込もうとしたところで、大きい魔物がその進路へ割り込んだ。短い吠え声に押され、小さい方も足を止める。
二頭はしばらく荷車を見ていた。
先に身を翻したのは、古傷のある方だ。茂みに飛び込むと、小さい方も後を追っていった。枝が折れる音だけが遠ざかり、森に静けさが戻る。
ロランは、その場から動けなかった。短剣は一度も振っていない。威嚇さえまともにできなかったのに、あの魔物は逃げた。
大きい方が後ずさった瞬間、北門での戦闘が頭をよぎる。あの夜も、笑い続けるリディアの前で魔物が一歩退いたのだ。
だが、今の彼女は笑っていない。戦うこともできない。
それでも、獣の目は確かに幌の奥を見ていた。
「……聖女様」
ロランは荷台へ上がり、リディアの両手を確かめた。傷はない。彼女はまだ、膝へ視線を落としている。
魔物が何を嗅ぎ取ったのか、ロランには分からなかった。あの大きい個体が戦場にいたのかも、確かめようがない。小さい方は、直前までこちらへ回り込もうとしていた。
ただ、偶然だと思って済ませるには、あまりにもおかしな逃げ方だった。
「……ここを離れましょう」
ロランは短剣を鞘に戻し、震える馬の首を撫でる。何度か声をかけてから手綱を取ると、ようやく古馬が動き出した。
*
森を抜けたところで、南から来た行商人と出会った。布を積んだ荷車の脇で馬に水を飲ませている。
「どっちへ行くんだい?」
商人が聞いた。
「南へ。あなたは王都へ?」
「ああ、そのつもりだ。戦も終わったんだろう?」
ロランは北門の傷んだ板扉を思い浮かべた。もう直ったと言い切れるほど、都を離れてから日がたっていない。
「城壁はまだ補修中でした。北へ向かうなら、気をつけてください」
「……そんなに危ないのか?」
「さっき森で魔物を二頭見ました」
商人は水桶を持ったまま固まった。
「本当に?」
「ええ」
「北の峠にも足跡があったって、宿場で聞いたばかりだ。大げさな噂だと思ってたが……」
ロランの胸が重くなった。
「王都の門に着いたら、見張りに伝えてもらえませんか。まだ魔物がいる、と」
「そんなことを言ったら、荷を入れてもらえなくなるかもしれん」
「俺が見たのは事実です。どうか」
商人はしばらく黙っていたが、ようやく頷いた。
「……分かった。ただし、あんたも引き返すんじゃないぞ。森はもう通らん方がいい」
「ありがとうございます」
商人が北へ出発するのを見届け、ロランも手綱を取った。本当に魔物のことを伝えてくれるかは分からない。それでも、何も言わずに行かせるよりはよかった。
*
次の宿場へ着いたのは、すっかり日が落ちてからだった。
宿の主人に階段を使わずに入れる客室がないか尋ねると、幸い一階に空きがあった。馬を厩舎に預け、幌馬車はその軒下に停めさせてもらう。
ロランはリディアの腕を自分の肩に回し、身体を支えて客室へ向かう。そしてベッドの上に敷いた毛布へリディアを導いた。
彼女を横にして外套を掛けると、ロランは軒下の馬車へ戻った。厩舎の灯りを頼りに、幌の縫い目へもう一枚布を重ね、針で縫い留める。次に雨が降っても、少なくとも彼女の足元は濡れないはずだ。
作業を終えて客室へ戻り、ロランはリディアのそばに腰を下ろした。
「聖女様。明日も南へ行きます」
ロランはしばらく耳を澄ませた。外から聞こえるのは風の音だけだ。昼間の黒い獣を思い出す。今の彼女が動けないことなど確かめもせず、あの魔物は逃げていった。
王都の北門には、まだ応急の板が打ちつけられているだけのはずだ。
その門へ次に魔物が来たとき、誰が前に立つのだろう。




